気づけば世界は「敵」だらけ…になる前に〜「詮なき怒り」の構造~

「クソッ、こんな時にフリーズしやがって…」の気持ちの裏に

仕事中、急にパソコンの画面が固まってしまって、どこをクリックしても動かない。
そしてやむなく再起動をする。
すると、完全に起動するまで数分間、パソコンは使えない。
この微妙な時間、他のことをやるには短すぎて、結局待つしかない…

この状況って、きっと誰でも経験していると思います。

実は最近、多いんですよ、これが。

この状況が好きって人はいないと思うのですけど、私はたぶん、人一倍この状況にイラついてしまうタイプだと思います。
だから、これが起きるたびに
「またか…」
というため息が思わず漏れてしまうのですね。

こういう時、妙にパソコンが恨めしく思えてしまうのですね。

冷静に考えれば、パソコンの動作の限界をどこかで超えてしまって停止せざるを得ないだけで、
そりゃあパソコンにだって限界はあるし、長く使っていれば性能も落ちてきます。
誰の何の悪意も介在しておらず、ただ、起こるべくして起きた現象が目の前に展開されているだけです。

なのだけど、それに対して無性に腹が立つ自分がいる。
考えてみれば栓のない怒りですよね。

「自分の思い通りにならない」
という、ただそれだけのことに、全く栓のない「怒り」を起こしてしまうのは、きっと私だけではないと思います。

誰かが自分に悪意をもって、邪魔してきたり嫌がらせをして来ているのなら、
そんな相手に対して「許せない」という気持ちになって腹が立つのも、まだわかります。

しかし、相手は何の悪意もない、というか「人」ですらない、パソコンのいち現象です。
そういうことにさえも、腹が立ってしまう。イライラしてしまう。

そのたびに、自分は、
待たされるのが嫌いなんだな。
作業をスピーディーに終わらせたいという気持ちが強いんだな。
一つのことがやりかけになってしまうのが、本当に嫌なんだな。
そんな自分の性質を知らされます。

気づけば世界は敵だらけの「修羅場」に

「詮無き怒り」は、際立った自分の願望を反映する場合が多いと言えるでしょう。
なぜなら「怒り」は、「自分の思い通りにならない」からこそ起きるものだからです。

私達の感覚だと、
「外界になにか許されない現象が起きている」ということがあって、
それに対して私達は怒っているような気もしますが、それは錯覚なのですね。
常識的にも社会的にも何ら問題がなくても私達はいくらでも「怒り」を起こしています。

スピーディーに仕事したいのに、急にパソコンがフリーズしてしまう。
車ではやく目的地に着きたいのに、連続的に赤信号に引っかかってしまう。
カフェでトイレに行きたいと思って向かったら、別のお客さんが先に入ってしまった。
スーパーでレジに並んでいると、前のお客さんが店員さんに何か話して時間がかかっている。

いずれの現象も、客観的に見れば「普通のこと」ですよね。
信号機は一定のタイミングで赤になるものですし、
カフェに一定数のお客さんがいれば、似たタイミングでトイレに行きたくなる人もいるだろうし、
レジの店員さんに相談したいことの1つや2つ、誰だってあるでしょうし、
何も理不尽なことが起きているわけではない。

しかしこのことが、「私にとって都合が悪い」のです。
そうすると、
まるでパソコンが悪に見えたり、
赤い信号が意地悪な存在に見えたり、
自分の目の前でトイレに入るお客さんが悪い人に見えたり、
レジで店の人と話す人がまるで非常識な人に見えたり、
世の中が、「悪」に満ちたもののように見えてしまいます。

「怒り」の本質は、
「自分にとって都合が悪いこと」
「自分の思い通りにならないこと」
つい忘れがちな、だけどとても大切なことです。

このことを忘れてしまうと、気づけば世の中のほとんどのものを「悪」としてしまいかねません。
それほど、自分の思い通りにならないことだらけなのが、世の中なのですね。

仏教では、
「諸行は無常」
と言われ、あらゆるものには、「常」が「無」く、変わらないものは何一つないと教えられます。
仕事で使っているパソコンなんて、日々消耗するのが当たり前ですよね。
だけど、自分にとっては、仕事をするために必要なツールなのだから、いつでも、いつまでも、性能を発揮してて欲しいわけです。
そういう私の都合で、「無常」のものに「常」を要求しています。
だけど「無常」という真理は、そんな私達の「都合」も「願望」もお構いなしです。
私達がどう思おうが、どう願おうが、淡々と、変化を続けてゆくのが世の中です。

また、
「自分の都合」という欲望は、どこどこまでも広がっていきます。
それは、自分もそうだし、他人もそうです。
そして、それぞれの「都合」は、てんでバラバラなのですね。
そうしたら必ずどこかで、「私の都合」と「他人の都合」は、ぶつかります。

これはもう、ごく自然な現象と言わざるを得ません。
ビリヤードで複数の玉が色んな方向に転がってゆけば、色んなところで玉同士がぶつかります。
まさか、一度も玉同士がぶつかることなく、それぞれの玉が自分の軌道を全うできた、なんてことは考えられません。

「無常」を前に
そして
「他人の都合」を前に
「私の都合」が妨げられる。思い通りに事が運ばない。
こんなことは、日々起きて当たり前です。

その妨げたものをいちいち「悪」と断じていては、出会う「無常」も、出会う「他人の都合」も全て悪。
世の中は悪に満ちた敵だらけの修羅場となってしまいます。

瞬間的に楽になれる思考

イライラの原因は、パソコンでも信号機でも妨げとなる他人でもなく、
「何でも自分の思い通りにしたい」
という私の「都合」という底の知れない欲望に他なりません。

もちろん、そんな「欲望」を無くせる道理はありませんから、
「詮無き怒り」は、あちことに満ちてくることになってしまいます。

大切なことは、この構造を理解しておくことです。

この構造を変えることは難しい、というか不可能ですね。

「無常」はどうあっても無常。
「欲望」という都合同士はどうあっても何だかんだでぶつかる。
そして、自分の欲望は、どうしても広がってゆきます。

これを変えることだけは、誰にもできないことでしょう。
私達にできることは、この現実を、ごまかさずに観ることです。

たとえ変わらないシビアな現実といっても、
その現実を、ごまかさずに見つめているか、
その現実を、認識すらしていないか、
この両者の違いはとてつもなく大きなものになります。

「分かっている」ということは、それだけ早く冷静になれるということですね。
分かっていても、イライラはどうしても起きてしまいます。
だけど、「イライラが起きてしまう構造」を理解しておけば、その理解が深ければ深いほど、より早く冷静に戻ることができます。

「思い通りにしたい」という私の願望が、何か(無常やら他人の都合やら)に妨げられる。
この「イライラ」を形作る要素を理解し、極力、
「自分のどんな願望が妨げられたのだろうか?」
と、自己に目を向けることが大切なのですね。

「イライラ」を引き起こす強い原動力となっている「自分の欲望」を目の当たりにした時、
強烈な怒りを引き起こしているのは、他ならぬ自分だということを納得せざるを得なくなります。

周囲の「無常」や「他人の都合」を「悪」と断定して恨み続けるよりも、遥かに楽になれます。
「納得」できれば、自分でも驚くほど、氷が溶けるように、スッと楽になれるものです。
そして、「自己を知る」というとても大切な課題をまた一つ、進めることにもなるのですね。

「詮無き怒り」が起きる時は、同時に「自己を知る」チャンス。
そのように捉えれば、「詮無きイライラ」も、大きな意味を持つ一歩となることでしょう。