抗えない「衰え」が来る未来を輝かせるために〜心身衰えても変わらない「私」〜

心身衰えてなお輝き続ける人生

こないだ知人から、
「認知症になって施設に入った両親が、最後までとても幸せそうに生活していた」
という話を聞かせてもらいました。

子の立場から見ても本当に毎日幸せそうに生活しているように見えるし、
その施設の職員さんから見ても、本当に夫婦共に穏やかで、幸せそうで、
「この夫婦を見ていたら、こっちまで励まされて元気になれるんです」
という事まで言われるそうです。

「見ていて、こっちが救われる」
そんな姿を認知症になった後でも、最後の最後まで貫ける人もいる。
この事実は、私達にとっても大きな希望なのかもしれませんね。

記憶や思考がうまく機能しなくなってしまう、認知症。
この「記憶」「思考」が健全に働くことに頼り切っている私達にとって、
それは恐怖そのものです。

自分はもちろん、なりたくないですし、
家族や身近な人がなってしまうことも、正直怖いです。

だけど、「無常」の世にあっては、どんな身体機能だって、やがては衰えていきます。
それが「認知症」という形でなのか、別の形でなのかは分かりませんが、
衰えによって、私達が頼り切っているさまざまな身体機能が失われていくことは、避けようがありません。
そう考えれば、何も特別な事が起きているわけではないと言えるのですね。
「私の身体機能の無常」は、どんな人にも避けられず起きるものだから。

私達は日々、
「この体を元気に、思い通りに動かせる」
という身体機能を大きな支えとして生きています。
旅行できるのも、
仕事できるのも、
勉強できるのも、
遊びに行けるのも、
美味しいものを食べられるのも、
私たちが「幸せ」「楽しみ」と感じられることは、身体や意識作用がしっかり機能する、
という前提に支えられたことです。

だから、その前提そのものが崩れてゆくことは、
これらの幸せが崩れてゆくことを意味します。
「認知症」になることは、その中枢をなす「意識作用」の機能が著しく衰えるのですから、
誰もが「避けたい」と思うのは無理もないことです。

ですが、「意識作用」もまた無常。
この現実は、誰一人として避けられません。
そんな衰えがやってくる現実も含めての「人生」なのですね。

身体の衰えが始まっても、意識が十分機能しなくなってしまっても、
それでも「私」の人生は続いていきます。
そんな未来の「私」に、果たして希望を持つことが出来るだろうか。

そんな不安を抱えている私達にとって、
「認知症になった後も、幸せ一杯で周囲も励ましながら生き抜いた」
という話は、本当に大きな希望になると思うのですね。

目の前の手足が、肉体が、「私」なのか…?

「苦しませる部分ばかりが、ごっそりと切り落とされたような感じなのです。」
当時のご両親のことを、知人はそのように語られます。

意識作用が衰えることで起きる「変化」
もちろんそれは、
人生を豊かにしてくれる「考える」作用も、
問題を乗り越える「判断」能力も、
大切なことを「記憶」する働きも、
いずれもが失われていくことですから、まるで自分が自分でなくなるような感覚かもしれません。

だけどそうなった後も、「私」としての人生は続きます。
それはある意味、「意識作用」を損なってしまった後の新しい「私の人生」でもあります。

もしかしたら、この「働き過ぎる意識作用」によって考えすぎて、
かえって悩み苦しむようなことも多々あったかもしれません。
あまりにもよく「働ける」が故に、その機能でかえって苦しむことだってあります。
逆に、その機能が制限されるからこそ、もっと大切なことにフォーカスできることだってあります。

今、私が持っている機能が制限されてゆくことは、
制限されてみないと分からない新しい境地だって、あるかもしれないのですね。
その境地に、これまでになかった幸せがある。
そんなケースがあることも否定できないのですね。

いま、私が頼り切っている「支え」が制限されたり失われたりした先の「人生」
それも含めた「人生」を見据えて生きてゆくという発想はとても大切なことと言えるでしょう。
その先の「人生」にも希望が持てるように、生きてゆきたいものです。

その為に大切なことは、
元気な肉体が衰えても、
たとえ腕や足を失ったとしても、
意識作用が著しく衰えたとしても、
それでも、「私」は「私」として変わらず続いてゆく
ということをよく理解することです。。

いま、私の目の前に私の「両手」があります。
その両手でキーボードを打ってこのブログの文章を作成しています。
私の頭の中で作った文章が、私の「両手」を通じて画面上に現れてゆく。
そんなことが出来るぐらいに、私の「両手」は、私の思うままに動いてくれます。

「私が命じた文章と違う文章を、この両手が勝手に打ち始める…!」
なんてことは、ただの一度もありません。
いつだって、私の思う通りにしかこの両手は動きません。
他の誰の命令だって、この手は受け付けません。
私の命じるままにこの手は動き続けています。

それほどに、私の思うままに動くこの「手」の存在は、
「私の持ち物」を通り越して「私そのもの」という感覚が染み付いてしまっているのでしょう。
手だけではなく、足も、首も、頭も、胴体も…
いずれもちゃんと神経が通って、私の命じるままに動いてくれます。
何のブレもなくスムーズに、思い通りにこの「肉体」は動くものだから、
「この肉体が私そのもの」
という感覚で生きていても決しておかしくはありません。

だけど、やがて思い知らされるのですね、
「思い通りに動くのは、しばらくの間だけだった」
ということを。

手も、足も、腰も、私の思い通りに動いてくれなくなってゆく…
そんな時が必ずあります。
そればかりではなく、いま、あれこれと思考しているこの「意識」さえも、
まともに働かなくなってしまう時があります。

ということは、いずれも「私そのもの」ではなく、「私の持ち物」だったということです。
そしてそれらがいずれ「私」のコントロール下から離れてしまう時があるということです。
場合によっては、手や足を丸ごと失ってしまう、ということもあります。

だけど、
手が、足が、思い通りに動かなくなっても、
頭の中の思考が思うようにできなくなっても、
記憶する力が失われていっても、
蓄えてきた過去の記憶、人との記憶を失ってしまっても、
それでも「私」は「私」として決して損なわれることなく続いていくのです。

やがて衰え、やがて失われてゆくこの「肉体」も「意識作用」も、そんな「私」の持ち物だったということです。

「肉体」が元気な時は、このことになかなか気づけないのですね。
ずーっと、この「肉体」の背景にある「私そのもの」の存在に気づけずにいます。
表面上に現れているこの「肉体」のみを「私そのもの」だと錯覚したまま、ずっと生きている。
だから、その「肉体」や「意識作用」が損なわれてゆくと、
まるで「自分が自分でなくなってしまう」かのように思ってしまいます。

だけどそうではありません。
「私」が何を失おうとも、「私が私でなくなる」ということはありえません。
手が動かなくなっても、足が動かなくなっても、
意識がどんなに衰えてしまっても、
「私」は「私」として一貫して続いてゆきます。

「私そのもの」の正体が明確になったとき…

そんな「肉体」が盛んであっても衰えていても、
一貫して続いてゆく「私」とはどういうものでしょうか。

それは、
「因と縁の積み重ね」そのもの
と言えます。

仏教では、過去からずっと重ねてきた「行い」「因」と言います。
これを「業因」とも言われます。
「行い」といっても、その根本は心の中で「思う」ことです。
この「行い」を特に「意業(いごう)」と言います。「心の行い」ということです。

そして、その意業がこの肉体の動作として現れたのを「身業(しんごう)」と言い、
また、意業が口を通じて「言葉」となって現れたのを「口業(くごう)」と言います。
意業、身業、口業
この3つを「三業(さんごう)」と言います。

その三業を、私たちは日々、積み重ねています。

仏教では、そんな「因」ともう一つ、積み重ねてきているものがあると言われます。

それが、「縁」です。
これは私以外の様々なものとの「関わり」のことです。
「他人」はもちろんですが、
人以外の動物との関わりも「縁」ですし、
雨や風などの自然現象との関わりも「縁」です。
もちろん、このブログの文章や写真との関わりもまた「縁」です。

私たちは、三業の積み重ねと同時に、さまざまな人やものとの「関わり」も重ねてきています。
つまり、「因」と「縁」とを造り続けてきているということです。
次の瞬間、次の瞬間と、新たな因縁、新たな因縁が出来て、
「私」は新たに新たに変化して、そして続いてゆきます。

その「因縁」によって、私の様々な「運命」が展開されてゆくわけです。

これが「私」というもののあり方なのですね。
この「因縁の積み重ね」そのものが「私」というわけです。

この肉体が健全に動くうちに、どんな「因縁」を造ってゆけるのか。
そして、肉体が損なってからも造り続ける「因縁」は、どのようなものか。

それこそが「私の人生」を構成してゆくものだと言えます。

最初にお話した、
「認知症になった後も、最後まで穏やかで幸せで、周りの人を元気づけ続けた夫婦」
このご夫婦はそれぞれ、そうなるような「因縁」を造ってきたのでしょうね。

大切なことは、
日々、どのような三業を積み重ねてゆくのか。
何を思い、何を行い、何を言って、
日々を過ごしてゆくのかということ。

そして、
どんな人、どんなものとの「縁」を造ってゆくのかということ。

「肉体」が元気であろうが、損なわれてゆこうが、
「私の人生」を構成してゆくのは、あくまでこの「因縁」だということです。

限られた人生の中で造ってゆく「因」と「縁」とをとことん大切にしてゆく。
これが「私」を大切にし、「私の人生」を大切にしてゆくことであり、
肉体が衰えても続いてゆく未来に希望を繋いでゆくということでもあるのです。