大切なものほど大切にできないのはなぜか~行動のベースに潜む「迷いの心」~

大切なものほど頭から消えてしまう

「大切なものほど、ぞんざいに扱ってしまう」
なんて、あるまじき事なんですけど、
「そういう事、あるなあ…」
と感じる人も多いのではないかと思います。

特に「大切な人」に関しては、ありそうですね。
「親」なんてそうかもしれません。
「親を大事に」
「親孝行しなきゃ」
という忠告が絶えずなされているのは、
大切な存在なのに、なかなか大切に出来ていない
という実態が昔も今もあるからなのでしょう。

「恋人」と呼び合っていた頃はお互いを大切にしていたのに、結婚して「夫婦」となると、
お互いの扱いが「雑」になってしまう、なんてことも聞きますね。
「昔は、もっと労ってくれていたのに…」
「あの頃は、もっと自分を立ててくれていたのに…」
家族となって、お互い支え合うべき「大切な存在」になったはずなのに、そのタイミングでお互いの扱いが雑になってゆくのはなんとも皮肉な事です。

「健康」もそうかもしれませんね。
「健康に気をつけよう」という呼びかけは、しょっちゅう聞きますよね。
「健康管理」を組織的に推奨される会社もあります。
仕事、趣味、遊び、何をするにしてもその基盤となる、大切な「健康」です。
その大切さは誰もが分かっていることですね。
けれど、もし誰もが心がけて健康を大切にしているなら、そんな呼びかけも、組織的な推奨もされません。
明らかに大切な事なのに、ついつい疎かにしてしまう典型的な例の一つと言えるでしょう。

自分にとって大切な存在は何か。
それを正しく認識して、「大切にすべきものを大切にする」
そんな当たり前のように思える事が、意外に出来ている人は少ないのかもしれません。

「大切な存在」というのは、言い換えれば「自分を支えてくれている存在」と言えます。
「健康」にしろ「家族」にしろ、私が生きていく上で、強く支えとしている存在ですよね。
他にも、自分にとっての「支え」となる存在は数多くありますね。
会社、仕事仲間、友達、先生、近所の店…
その依存度合いは対象によってまちまちですが、
私たちは、強く「支え」としていればしているだけ、
「自分は支えとしている」
という自覚がなくなってしまいます。

ずーっと支えとしていれば、その状態が「当たり前」となり、
「自分は今、頼りにし、支えとしている」
という認識がだんだんと消えていきます。

ちょうど、「空気」のような存在になってしまうのですね。
私たちがこの生命を維持できているのは、周囲に常に「空気」が存在するからで、
それらの空気を呼吸によって取り入れて、生命活動の糧としています。
もしその「空気」が絶えてしまえば、たちまち私たちは生きていけません。
そう考えると、空気ってものすごい「依存」度合いですよね。
ですが、
「私はいま、周囲に満ちている空気たちの存在によって生かされている」
などと意識している人はいないですよね。
あるのが当たり前で、「ある」という認識すらも頭からは消えています。

これが「空気」に対してだけなら、まだ良いかもしれませんが、
大切な人、大切な肉体、大切な物に対しても、どんどんそのようになってゆくと、取り返しのつかない後悔の元になってしまいかねません。

消えゆく「シャボン玉」のようにみる視点

「大切な物ほど、その存在を見失ってしまう」
この悪しき思考パターンをどうしたら是正できるのか、
その鍵となるのが、仏教の「諸行無常」の教えです。

「諸行は無常なり」
この古来からのメッセージは、日本ではとても馴染み深いものとなっています。
「すべては移ろいゆく」
一言で言えばそういうことですね。

満開に咲き誇った桜の花が、あっけなく散ってゆくという定番の場面から、
セミがやかましく鳴いている夏が終わりを迎えて、秋めいてゆく場面、
花火が夜空にパッと開いて派手に彩ったと思ったら、すぐさま消えて元の暗闇に戻ってゆく場面、
シャボン玉が、日の光を綺麗に反射しながらフワフワ飛んでゆき、やがてパチンと消えてゆく場面、

綺麗なもの、存在感の強いものが、やがてその様相を変えて移ろいゆき、滅びてゆく。
そんな場面に、多くの日本人は深い情緒と共に魅入ってしまいます。
「無常」なるものに心惹かれるという感覚があるのも、この「諸行は無常なり」の教えが馴染み深いものとなっている現れなのかもしれません。

そしてこの、
「すべては移ろいゆく。」
「変わらず在り続けるような「常」なるものは何一つ無い」
というものの見方こそが、悔いのなく生きるためにとても大切なのですね。

「咲き誇った桜の花」「やかましく鳴いているセミ」「派手に光る花火」「フワフワ浮かぶシャボン玉」
は、とても分かりやすく「無常」の様相を呈しているのですが、
本当は、この世の「あらゆる物」が、これらの「桜」「セミ」「花火」「シャボン玉」と全く同じ、「無常」の存在です。

今、あなたの周囲に何が見えるでしょうか。
目の前に、「パソコン」があるでしょうか。
そのパソコンは「机」に乗っかってるでしょうか。
その前であなたは「椅子」に座っているでしょうか。
近くに「家族」がいるでしょうか。
壁には「時計」がかかっているでしょうか。
色々な「物」や「人」が周囲に存在しますよね。

それらが皆、「シャボン玉」と同じだというのが「諸行は無常なり」ということです。
しばらーく、あなたの周囲を漂っているけれど、何かのきっかけですぐにでも「パチン」と弾けるように、移ろい滅びてゆくものです。

「えらい大げさな言い方をするな」
と感じられるかもしれませんが、仏教で教えられる表現と比べたら、これでもまだ控えめなくらいです。
仏教は、驚くほどに力を入れて、驚くような強烈な表現で、いかに私たちの周囲のあらゆるものが、激しく変化し、移ろい、そして滅んでゆくかを説き、
この「無常」の現実を、よくよく観なさいと、教え勧められます。

自覚のない「本心」は、行動に現れる

この、驚くほどに強烈な
「激しく変化しているのだ」
「儚く移ろいゆくのだ」
「やがては必ず滅びるのだ」
という仏教のメッセージは、何を物語っているのでしょうか。

それは、「私たちはこれと全く逆の事を思っている」ということです。
「ずっと変わらずに在り続けるだろう」
「滅びる事など、いつまでも無いのだろう」
そんな思いが私たちの心中にはガンとしてこびりついているのですね。
こんな思いを「無常」に対して「常」という迷いの心だと仏教では教えられます。

「いやいや、そんなバカなことを思ってなどいない」
と思うでしょうか。
「無常だなんて、私たちはよく知っている。」
「わざわざ言ってもらわなくても、やがて滅びるものばかりだなんて、分かっている」
と思うかもしれませんが、
「知っている」「分かっている」「理解している」
ことと
「本心からそう思っている」
こととは、別問題です。
そして、私たちの「行動」を支配しているのは、表面的な「知識」ではなくて「本心」の方です。

私たちの「行動」は、
「無常」ベースでしょうか?
「常」ベースでしょうか?

私たちの周囲の、強く「支え」としている物を含むすべてのものが、
「儚く移ろい、いつ滅びるとも知れないもの」
という思いをベースに行動しているか。
「まだまだ、いつまでも変わらず在り続けているだろう」
という思いをベースに行動しているか。
いずれでしょうか?

最初に挙げたような、私を支えている
「家族」や「健康」、そして何より私のこの「命」
それらに対して、私たちは「当たり前」のように、
「まだまだ、いつまでも変わらず支えとしてくれている」
という思いをベースとして、生きているのが実態なのですね。

「空気」を、「限りある無常のもの」だなんて思えないように、
私たちが依存し、支えとしているものをどうしても「無常」と思えない。
そんな「常」という迷いの心が、人間の本心にはガンとあります。

私たちは、壊れやすいものほど、大切に、丁寧に扱いますよね。
精密なガラス細工とか、薄い氷とか、
ちょっと力を入れると脆くも崩れるようなものの扱いには神経を使います。
「無常」だと思えば思うほど、「大切にしよう」という気持ちが芽生えます。
逆に「無常」を忘れてしまうと、ついつい雑な扱いになってしまいます。

「健康オタク」と呼ばれるくらいに、食べ物や睡眠や運動に気を配っている人は、
きっと「健康」は、それくらい気をつけて扱わなければ維持できないくらい脆いものだと、よく認識している人なのでしょう。
健康は「無常」だと、よくよく意識していると言えます。
逆に、自分の「健康」は、いつまでも変わること無く、自分を支えてくれる「常」なるものだ。
と思っている人ほど、食べ物にも睡眠にも運動にも気を配ろうとしないでしょう。

「無常」をよくよく観る所から、大切にしようという気持ちが芽生えるのですね。
シャボン玉のように、桜の花のように、
私たちの周囲のあらゆるものは、儚く移ろい、いつ滅ぶともしれないもの。

この視点をしっかりと養う事から、
大切なものを、本当に大切に扱うという、最も基本的で最も大切な行動を始めることができます。

「無常を観る」
このことは、人生を大切に、すばらしい物にするための、「最初の一歩」なのですね。

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