自覚なき「弱点」に気づける視点~死角に潜む「無常」~

もし、未知の苦痛に遭遇したら…

「男って、「痛み」に対しては女性よりもずっと弱いらしい」
という話を聞いたことがあります。
「生物学上、出産を経験しないから」
と言われて、「なるほど…」と納得しました。

「もし男性が出産の苦痛を経験したら死んでしまう」
とも聞いたことがあります。

男は、「痛み」に対してはそんなに強くないものなのかもしれないですね。

私は、自分ではかなり、我慢強い方だと思っています。
色んな事に耐えることのできる精神力を持っているつもりでした。
だけどそれは、自分の限られた経験の中だけの思い込みなのかもしれません。

少々疲れていても、「ここ一つ踏ん張らねば」という時に、けっこう踏ん張りが効くとか
遊びたい、のんびりしていたい、という欲求に耐えて、勉強したり作業したりして過ごせるとか

「苦痛に耐えることができた」といっても、ごく限られた部類の苦痛しか、知りません。

避けて来れた苦痛もあり、何かの縁で実は守られていたということも多々あります。

今の私では想像すらつかない「苦痛」というのが世の中には山ほどあって、
もし私がそのような苦痛に遭遇したら、

「だめだ…もう耐えられない…誰か、助けてくれ…」

と、恥も外聞もなく逃げ出す事もあるでしょう。

未知の苦痛をもたらす無常とは

「諸行無常」という仏教の言葉があります。
「諸行」というのは「あらゆるもの」ということで、
あらゆるものには、「常」が無い。
「変わらずにあり続ける」というものは、何一つ無い。
ということを仏教では教えられます。

さて、この事実を前に、私は本当に耐えられるのだろうか、ということを真剣に考えてみると、色んな「自分の弱さ」に気づかされます。

これまで「自分の強さ」と思っていたものが、いかに危ういものであったかを知らされます。

今の「自分の強さ」と思っているものは、本当は数えきれない「支え」によって成り立っているものばかりなのですね。

体が健康で、元気であること
仕事があって、ある程度の立場を持っていること
家族がいること
友達がいること
貯金があること
資格やスキルを持っていること

今の自分を支えているものは、どれほどあることか知れません。
「あらゆるものは無常である」
ということは、それらの支えが、いつまでも続くものではない、ということです。

「無常」とは、「移り変わってゆく」「変化してゆく」ということですから、
今この瞬間にも、自分が支えとしている色々なものが、何らかの変化を起こしているということです。
そしていつか必ず、何らかの形で崩れてしまいます。

しかし私達はこの事実に、どれほど向き合えているでしょうか。

テレビをつければ、そんな「無常」の前に悲嘆に暮れる人の姿が、毎日のように報道されています。
災害や事故や事件や病気…
いろんな形の「無常」のために、支えを失って苦しむ人間の姿を見ない日はないといってもいいでしょう。
だから当然、自分が支えとしているものも、いつかは崩れてしまうのだろうということは「分かって」はいるのですね。

ただこの「分かっている」というのがクセもので、
あくまでも分かっているのは「他人の無常」であって、
本当に「自分に」そんな無常が訪れたら、私はどうなるのか…
経験したことがなければ、あくまで「想像」でしかありません。

私達は、何かをあまりに長く「支え」としていると、いつしか「支えとしている」という自覚すら失っていきます。

「目が見えている」
という自分の身体機能に、私達はずっと頼って生きていますね。
このブログを読んでいるのも、それはあなたの「目」がしっかり機能しているからだと思います。
「ああ…今日も私の目が、自分の生活を支えてくれているのだな…」
そんなことを感じながら生きているでしょうか。
そんな「有り難み」も「支えられている」感もなく、「当たり前」となっていますよね。

あまりに長く自分を支え続けてくれて、その状態に慣れ切って、「当たり前」となっている。
そんな「支え」が私達にはどれだけあるか知れません。

そういう「支え」に対しては、「それが失われる」という想像もまた、とても及ばないものです。
そりゃそうですよね。
「支え」の自覚すらないものに対し、それが崩れてしまう想像をするなんて、とても出来ません。

「言葉だけ」でなら、
「自分が支えとしているものだって、いつかは崩れてしまう」
ことを理解することができますが、
一体それがどういうことなのか、その現実はほとんど分かっていないのかもしれません。

「頼りにしている」という自覚を失うほどに支えとしているものに対しては、「これだけはいつまでも大丈夫」
これが私達の本音なのですね。
「それが崩れる」なんて、本当はユメにも思ってはいません。

生まれた時から、そして遠く離れて暮らしていても、ずっと心配し続けてくれている「親」の存在
五感がしっかり働いて、多少の無理にも応えて働いてくれるこの健康な「肉体」の存在
状況の把握や記憶、そして判断をしっかりと下させる優秀な「頭脳」の存在
知りたいこと、必要な情報をすぐに検索したり、他人とタイムリーに繋がったりできる「インターネット」の存在
自分が勤めている、そして常に「必要とされている」と感じられる「会社」という環境の存在

まるで空気のように存在して、それが「健在」という前提であらゆる行動をしている。
そんな「支え」は、いつの間にか「無常」の認識の枠外へと追いやられて、あらゆる思考や行動の「大前提」となっています。

そんな「大前提」の上で、
「自分は大抵のことには耐えることができる」
と言っているのは、盲目的な強がりなのかもしれません。

その大前提が崩れる苦痛こそが、「私にとって未知の苦痛」というわけですね。
その「苦痛」を前にしたら、「大抵は耐えられる」という思いがあっさりと裏切られるのかもしれません。

自分に潜む「危うさ」が見えたなら

自分の「強さ」も、自分の「耐性」も、自分の「可能性」も、
必ず多くの「支え」という大前提の上に成り立っている。
そしてその「大前提」こそがまた、無常なのである。

この事実を忘れて生きているとすれば、「我が身知らず」で生きていると言わざるを得ません。
それはとても危険な状態なのですね。

だから仏教では、「諸行は無常である」ということを厳しく教えられます。
「あらゆるものは」無常なのだと、「例外はないのだ」と強調されるのは、
私達の心の中では「無常」に対する「例外」を作っているからです。
「そうは言っても、これだけは大丈夫」という腹底での思いが、必ずあります。

そんな、自分が「人生の大前提」とするくらいに支えとしていて、その自覚すらないもの
それらこそが、「無常なのだよ」と教えるのが仏教です。

私事なのですけど、実はまだ、大きな病気を一度もしたことがありません。
そんな私にとって、「五体が健全に動く」、そして、「調子を崩してもすぐに回復する」ということが、
もう私の大前提となってしまっています。

その前提の上で、「自分は我慢強い」と思っているわけですね。
いつかその前提が崩れた時に、私はどうなるのだろうか…
きっとその時に、自分の本当の「弱さ」が浮き彫りになるのだと思います。

そんな自分の「弱さ」を知れば知るだけ、他人の「弱さ」にも、共感できるようになりますよね。

「なんでそんなことにも耐えられないんだ」
「私はその何倍もの苦しみに耐えているのに」

ついつい、他人に対してそう思ってしまうことがありますが、そう思えるのはきっと、私の様々な「大前提」が健在だからです。

「その「大前提」を失った私が、本当に同じ事を言えるのだろうか?」

こう自分に問いかける必要があるのですね。

そうそう他人を見下すこともできないことが知らされてきます。
そして、自分を助けてくれる縁をもっと大切にすべきことも分かってきます。
今の「大前提」が、「大前提」のままでいてくれる間に、何をなすべきかを真剣に考えるべきことも知らされます。

「耐えられる」も「乗り越えられる」も「頑張れる」も、自分の大前提となってくれていて、支えられている様々なものの背景があってのこと。
そしてそれらこそが「無常」である。

そんな危うい浮草のような「私」の姿は、自分も他人も、本当は大差ありません。
そんな「自己の真実」を知っていることこそが、行動を誤らない大切な指針となるでしょう。