「死ぬことを考えたなら…」の精神論が「本物の覚悟」となる時〜大事の前の小事〜

何事も、大事の前の小事

「死ぬ気になれば、なんだって頑張れる」
「死ぬことを考えれば、このぐらい…」

こういう精神論を聞くことがありますね。
ある意味これは、「究極的」な思考だなと思います。
なにしろ人間の最大の問題である「死」を引き合いに出して、
自分のモチベーションや勇気を掻き立てようというわけですから。
何気なく使われている場合もありそうですけど、内容的にはめちゃくちゃ凄いことを言ってますよ、これ。

それと同じと言えるかどうか分かりませんが、仏教でも
「大事の前の小事」
という言葉があります。
人間にとっての「死」という「一大事」「生死の一大事」と説きますが、
そんな「一大事」を前にしたならば、人生のあらゆる事は「小事」と言わざるを得ないというわけですね。

問題やトラブルが発生したときに、
「ヤバイ、ヤバイ…どうしよう…」
となるか
「些末な問題だな…」
となるか
これは「何と比較するか」で変わってきます。

小学校の頃の学校の宿題で、漢字ドリルや計算ドリルを課されることがありましたよね。
10問とか20問とか、
「面倒くさいな…」
と思いながらやっていました。
たまに、30問とか40問とか、大量の問題が出てくるページをやらされる時に、
「うわー…なんでこんなに多いの…!?」
恐ろしくシビアな状況に立たされているように感じたものでした。

だけど、今だったらどうでしょうか?
「計算問題40問」とか。
「漢字問題40問」とか。
そんな課題をシビアに感じるかっていうと、全然ですよね。
大人として、この社会を生きていれば、
山積みになった書類を脇において、大量の案件を処理しなきゃいけなくて、
それを明日の午前10時のプレゼンまでに終えなきゃいけない。
みたいな状況は、珍しくないですよね。
そんな課題が日常的に発生しているような生活の中で、たかだか50問足らずの計算を処理するなど、
「気分転換の作業」程度のささいなものでしょう。

会社の何かしらの役職に就けば、
新人や部下の仕事のフォローもしなければならず、
たびたび、
「すみません、これ、どうしたらいいでしょう?」
という相談を受けては答えながら、
また、全体の業務運行にも気を配りながら、
自分の業務もまた、時間を見つけてこなしていかなければならない。
かつては「大変だな…」と思っていた業務の日々も、
「あの頃は、自分の業務の事さえ考えていればよかったのだから、楽だったな…」
と感じますよね。

苦労や経験が増えるほどに、相対的にいろいろな問題が「イージーモード」となっていくものです。
困難さも辛さも、意識的、無意識的に、「何か」と比較をしながら感じているのが人間なのですね。
比較の対象に、よりシビアなものがあればあるだけ、目の前の問題を冷静に、さほどのストレスもなく対処できます。

その比較の対象が「死」であれば、それはもう究極的ですよね。
どんな問題でも「小事」と言わざるを得ないことになります。

究極の精神論が活かせない理由

「人間は、やがて必ず死んでゆく存在。」
これは仏教で言う「無常」という事です。
いつまでも続くような「常」なるものは、何一つ無い。
五体がちゃんと生命維持の機能を果たしてくれて、こうして生きていられる、
これもまた無常で、ほんのしばらくの間だけの、限られた事だということです。

私の人生にそんな「死」という現実があるのであれば、
その事と比べれば、人生にどんな辛くシビアな事態が起ころうとも、なんとでも出来ると言えるわけですね。
「死ぬ気になれば…」
「死ぬ事を思ったならば…」
ある意味、精神論の「切り札」みたいなモノかもしれません。

しかし、本当にそんな精神論で、あらゆる問題を「小事」として乗り越え続けられるかというと、実際にはそう簡単にはいかないですよね。
言葉で「死ぬ気になれば」と言ったところで、本当に「死ぬ気」になんてなれませんし。
「死ぬ事を思ったならば…」と口では言っても、あまりピンと来ないのが正直なところだと思います。

「『死』なんて言われてもピンとこない」
究極の精神論を本当に活かすためには、この問題をクリアしなければなりませんが、
この問題は人間にとって非常に根が深いものがあります。

人間は、確実な未来として誰もが持つ「死」の問題を、本当に最後の最後に死ぬまで、まともに考えることができない。

仏教は人間のこの特徴を、非常に根深い「迷い」と教えられます。

私達は一日一日を「生きて」いますが、
昨日から今日、今日から明日へと、留まることは許されずに進んでゆきます。
時計の針は、刻一刻と刻み続けて、その事実を私達に示し続けています。
仮にその時計を止めても、私達が「進んでゆく」という実態は変わりません。
たとえ世界中の全ての時計を止めても、私達は明日へ、明日へと否応なしに進んでゆきます。
「生きる」ということは、そうやって「生きてゆく」という事なのですね。
それも、「過ぎ去ればあっという間」というのが、私達の感覚です。
ついこないだ、年明けを迎えたと思ったらもう年末。
いつも年の瀬にはそんなことを思ったり言ったりしていますよね。

すさまじいスピートで、突っ走っているような状態が「生きてゆく」私達の姿です。
その終着点に控えているものが、紛れもなく「死」という現実です。
ならば「死」は、誰もがいま「向かっている先」であり、本来これ程に関心を向けられるべきものはないはずなのですね。

「君、来月から異動だよ」
と上司から言われれば必ず、「どこに?」となりますよね。
「明日の出張先、変わったから」
と言われれば、「どこにですか?」となります。
「未来の私は、どこへ行かなければならないのか。」
それが曖昧では、安心して今を過ごすことはできません。

「死」もまた紛れもない「自分の未来」の問題です。
にも関わらず私達は「自分が死ぬ」という現実を、とても現実味を帯びた問題として捉えることができないのですね。
そんな、ある意味深い「迷い」に陥っているのが人間だと言われます。

だから、「死ぬ思いで」とか「死ぬことを考えれば」という言葉はあってでも、
リアルにそんな思いになることは、なかなか出来ないものです。

「死ぬ一大事を考えたならば…」が本物の覚悟となる時

仏教では、「自分の命の無常」を、よくよく観つめることをとても重視しています。
これを「無常観」と言います。
世の中に起きる様々な「無常」を、私達は毎日のように見たり聞いたりします。
「あんな酷い災害が起きているのか…」
「あんな恐ろしい事件が起きているのか…」
「あんな怖い病気にかかっている人がいるのか…」
テレビで、ネットで、また仕事の様々な書類の中でも、
「無常」の事実を目にしない日は、ないはずです。

こういう「無常」の事実を、「明日は我が身」と受け止める努力をする事は、
「無常観」を培う上でとても大切です。
普通なら、「大変だな…」と、ただ他人事として流してしまうものです。
だけど本当は、他人も自分も、「無常」の世界に生きていることは全く変わりません。
他人の身に起きる「無常」が、自分のこの肉体上に起きても、何ら不思議はありません。

そうして「自分の命の無常」を極力観つめるよう努力することで、
「自分の人生には限りがあること」
「自分の未来には『死』という現実が待ち受けていること」
この事を、現実問題としてとらえらる視点が養われていきます。
それは決して、いたずらに不安に陥ったり、感情的になったりすることではありません。
何よりも大きな「生死の一大事」という問題を、ごまかすことなく観つめる事です。

そんな「無常観」を持った人にとっての、
「死ぬ気になればこれくらいのこと…」
の言葉は、「ただの言葉だけ」ではなく、現実味を帯びた「覚悟」となります。
人生最大の現実問題に向き合っている、その覚悟はどんな経験にも勝る力強い「思い」となります。

「自分の命の無常を観つめる」
と聞けば、まるでネガティブ思考のように思えたり、ただ不安を煽ることだったり暗く沈むことのように思えるかもしれませんが、「無常を観ること」はそんな感情的なものではありません。
「無常」は、私達の思いや感情とは関係なく厳然として曲げられない「真理」というべきものです。
その真理をごまかさずに観つめることは、この上なく冷静な態度と言えます。
むしろその現実から目を逸らそうとする事こそが、人間の迷いの感情なのですね。
その感情に負けずに、「無常」に向き合ってゆくことは、ネガティブどころが、この上なく前向きな態度です。

そして、様々なトラブル、問題が押し寄せるこの人生を力強く、そして全力で生きる土台となるものが「無常観」なのですね。