心がブレまくっても前進し続けられる、しなやかな強さを持つには~「道理」の柱を心中に築く~

「自業自得」とは、「教訓」なのか「真理」なのか

「自己啓発」や「成功哲学」には、色々な「教訓」が教えられています。

「夢を具体的に描いて、それを毎日想像しなさい」
「貰う報酬よりも、プラスαの働きをする習慣をつけなさい」
「価値観を共有できる人となるべく会うようにしなさい」

などなど、素直に実行し続けたらきっと成功者になれるという「教訓」が世の中にはたくさんあります。

しかも現代はインターネットの発達で、そんな教訓に、少ないコストで好きなだけ触れることができます。
経済的にも人間関係においても「成功」できる「教訓」に、私達はどれだけでも触れることができる環境に生きています。

それでもなかなか、そうそう思い通りの結果を手に入れられないのが現実だったりしますね。

これらの教訓を自分の「信念」として取り入れて、その信念に基づいて自分の「行動」を積み重ねてゆけば、教訓通りの「結果」は自分にものになるのでしょう。
色んな教訓に触れたときに、そういうことのできる人は、本当に恵まれた人生を送っているのかもしれません。
そういう、いわゆる「成功者体質」みたいな人がいることも事実だと思います。

しかし多くの人にとって、これが難しい。
なかなか自分の行動が変わるくらいの「信念」を自分の中に構築することが難しいのですね。
だからなかなか、行動も変わらない。
結果も相変わらずのまま…

「教訓」はあっても、「自分の信念として取り入れる」という壁を超えられなくて、なかなか現実が動かせないという課題が私達にはあります。

そこで、その課題を仏教哲学を活かして乗り越えようじゃないかという話になるわけですが…

仏教にも、いろんな「教訓」があるような気がしますよね。

「自業自得(じごうじとく)」という有名な言葉があります。
これは仏教の言葉ですが、
自分の「行動(業)」は、自分に「結果」を引き起こしますよ。
自分に起きた「結果」は全て、自分の「行動(業)」の結果ですよ。
と教えられています。
また
「因果応報(いんがおうほう)」と言われ、
自分の「行動(因)」に応じた報いが、自分に返ってきますよ。
と教えられています。

ここで考えてみて欲しいことがあります。

「自業自得」「因果応報」は、
「そういう考え方を持ちなさい」と教えている「教訓」なのか。
それとも
「現にそのようになっているのだ」と言える「真理」なのか。

「教訓」なのか「真理」なのか。
あなたは、いずれだと思うでしょうか。

仏教で教えられることは、「そういう考え方を持ちなさい」という「教訓」だと理解している人も多いと思います。
「自分の行いは必ず自分に返ってくる」
このように思って毎日生活しなさいという「教訓」
「自分に現れた結果はすべて自分の行動による、自分の責任」
そういう考え方で生きていきなさいという「教訓」

「こういう考え方で生きたら、いい人生を送ることができますよ」
そんな、いわゆる「成功者のマインド」を教えられているのが仏教のこれらの教えではないか、ということですね。

「考え方」ではない、それは「道理」である

結論から言えば、仏教が教える「自業自得」「因果応報」は、
「そう考えて生きていきなさい」というような、ただの「教訓」を教えたものではありません。

「あなたがそう考えようと考えまいと、関係なく成り立っている真理であり道理ですよ」
と教えられるのが、「自業自得」「因果応報」という教えです。
これらは、「因果の道理」を教えられた言葉なのですね。
因果の「道理」と言われているように、これは「道理」であり「真理」であるということです。

そして「道理」や「真理」は、ただの「考え方」ではないのですね。
人間が、
共感しようが、否定しようが
取り入れようが、排斥しようが
理解しようが、理解できなかろうが
どのように考えようが
そんなこととは全く関係なく、普遍的に成り立っていることが「道理」であり「真理」です。

「学問」とは「真理の探求」だと言われます。
化学も物理学も医学も、
あらゆる学問は、そういう普遍的な真理を探求しているものだと言えます。
それらの学問が対象としている「真理」は、人間が発見しようが、言語化しようが、理解しようが
そんなこととは関係なく、もともと普遍的に存在しているものですね。

「ニュートンが「万有引力」を発見した」
と言われますが、ニュートンがそれを発見し、言語化してその理論を世の中に発表する前から、
物は上から下に落ちていて、それはずっと変わりません。
私達が「どう考えるか」とは関係なく成り立つものが「真理」なのですね。

そこに「真理」の厳粛さがあるとも言えます。
人間の「考え」と無関係に成り立つということは、人間の「都合」など一切考慮しないものが真理だということです。
それはある意味、厳粛であり非情なものと言えます。

「こんな人通りの多い場所に、こんな鉄の塊が落下したら大変なことになる。」
そんな状況でも、支えを失えば、鉄の塊は非情にも人々の上に落下してきます。
崖の下の道路にどんな車が通っていようとも、
その車の中の人にどんな事情があろうとも、
崖の上の岩の支えが崩れれば、大岩はその車めがけて落ちてきます。

「真理」とは、なんとも非情なものです。

そして、そんな「真理」は、人間がどれだけ学問の探求を深めていっても、知り尽くすことはできないものです。
まだまだ未知の領域は無限といってもいいくらい広がっているものが真理です。

そんな「真理」の前では「人間の智恵」と言っても、お釈迦様の手の中の孫悟空のようなもので、ちっぽけなものと言わざるを得ません。
このように「真理」は、人間が「どう考えるか」とは無関係に厳然として成り立つものであり、人間の「智恵」を遥かに超えているものだと言えます。

そのような「真理」が、「因果の道理」というものです。
「自分の行いは、自分の結果を引き起こす。」
この「自業自得」の教えは、
私達がどう思おうが、どんな「考え方」を持とうが、関係なく成り立っている「道理」だと教えるのが仏教です。
そして、その「道理」に向き合い、それをごまかさずに観つめてゆきなさいと説きます。

これは、
「そういう考え方を持って生きなさい」
と、一つの考え方を持つこと勧めるものとは全く異なります。

そもそも、人間の限りある智恵で、この真理をまるごと理解して、その真理のままに考え、生きるなど、とても出来ることではありません。
人間の考えは、この「道理」の前では常に、
ズレてしまっているもの
狭い範囲での理解となってしまうもの
相反したところだらけのもの
こういうことになってしまいます。

人間の智恵の限界を前提として、自分の考えの至らなさを認めた上で、
「道理」と向き合ってゆくことを仏教では教えられるのですね。

揺るぎない「道理」の柱

「因果の道理」は一つの「真理」である。
ということは、「自分の考えを超えている」ということです。
とてもまるごと理解して自分の信念にしてしまえる、というものではありません。
ちょうど、あらゆる分野の「学問」が、常に研究・学びの対象とし続けているように、
「因果の道理」はどこまで行っても、学びの対象であり続けているのですね。
学びと実践、また学びと実践…それを繰り返して、どこまでもその理解を深めて行くことができるものです。

このように、自分の考えの範囲を超えた「道理」の存在を認識し、受け入れられているということは、実はとても強いことなのです。

それは、私の「考え」の限界を知っていることであり、心で積み上げた「信念」すらも無常であり揺らぐことのあるものだと分かっていることでもあります。
そして、私の「考え」がどうであろうと、私の「信念」がどう揺らごうとも、変わらず厳然とあり続ける「道理」が、「学び」によって自分の中に柱として立っている。

激動の時代を生きてゆく私達にとっての、力強い「智恵」を身に着けていると言えます。

「意志の強さ」には個人差があるのは確かです。
なかなか揺るがない強い「意志」を持っている人もいると思います。
「どうしてそんなに自信を持てるのだろう?どうしてそんなにブレないでいられるのだろう?」
そんな、規格外の強固な意志を持つ人も世の中にはいます。

だけど多くの人は、自分の「意志」というものが、ちょっとした縁でどう動くとも知れないものだと、色んな経験で知らされることと思います。
仏教で教える「無常」
これは特に私達の「心」に言えることなのですね。

その無常の「私の心」「私の考え」の積み重ねで築いた信念一つを指針としているというのは、強そうでいて同時に、危ういものであることも否めません。

だからこそ、その「心」の無常をも理解した上で、変わらない「道理」を観ることに力を入れ、その「学び」を自分の中に指針として築くことが大切なのですね。

心がザワつこうが、心が折れそうになろうが、価値観が崩れそうになろうが、
変わらない「道理」の柱がある限り、
「ああ…私はまた、道理が分かっていなかったな…」
という反省と共に、立ち直ることができます。

それは、激動の世の中を生きる力強い智恵と言えるでしょう。