私にとっての「心から胸を張れる行動」は?〜戦場の中に「唯一の誇り」を見つけた兵士の物語〜

「唯一誇れる事」を見つけた兵士たち

「名作」として名高い映画『プライベート・ライアン』を観ようと、
何ヶ月も前から思っていたのですが、なかなか時間を取れずにいました。

何しろ時間が2時間50分。
ほとんど3時間…ちょっと長すぎるだろ…

そんなこともあって、ずっと保留にしていたのですが最近ようやく見ることができました。
観てみると、断片的に「この場面には覚えがあるな…」という所もあって、
もしかしたら一度観たのかな…?
気のせいかな…?
ともかく、堪能できました。

この映画は第二次世界大戦を舞台とした、アメリカのある軍人の物語でした。
ノルマンディー上陸作戦を皮切りに、ドイツ軍を相手に攻め込んでゆく状況の中で、
ミラー大尉という屈強な軍人が、部下6人を引き連れて、ある特殊任務に赴くことになります。

その任務とは、
行方不明になっている「ジェームズ・ライアン」という兵士を見つけ出して保護し、本国へ返すこと
でした。

ライアンは、四人兄弟の末っ子で、兄三人は、すでに戦死が確認されている状況でした。
そして末っ子のライアンも敵地の中で行方が分からなくなっていました。
軍は、
「せめて末っ子のライアンだけでも救出して、家族の元に返さなければならない」
といういわゆる人道的判断から、ライアン救出任務を発令したのでした。

その任務を受けたのが、トム・ハンクスが演じる主人公のミラー大尉です。

ミラーも、部下6人も、正直なところこの任務には不満を抱いていました。
「たった一人の兵士を救出するために、7人の軍人が敵地に乗り込んで命を張らなければならない」
このことがどうにも納得がいかなかったのでした。

特にミラーは、これまでの戦いの中で多くの部下を失ってきた。
けれど、その犠牲も
「戦争に勝って、多くの人の助けになるための犠牲だ」
と思うことで、部下たちの犠牲を乗り越えて戦い続けてきたのでした。

「戦争の勝利のための礎となる犠牲」
ならば、納得ができる。
だけど今回の任務は、戦争に勝つかどうか、とは関係がない。
そして、救うのはたった1人の兵士の命。

このことが、自分も部下も命を張るに値するのか…
ずっとその葛藤に苛まれながら、任務を継続していくのでした。
その任務の最中にも、一人また一人と部下が命を落としてゆく。

大切な部下を失いながらも、「ライアン救出任務」を必死に続けてゆくミラーが、
部下たちに、自分の過去を語る場面がありました。
実は
「ミラー大尉は軍人になる前、何をやっていたのか?」
が、軍の中で一つの「謎」となっている、という背景があったのでした。
屈強で、困難な戦闘任務を着実にこなす戦闘マシーンのような彼の「戦場以外の姿」は、誰も想像がつかないのでした。
その「謎」を、自らが告白する場面。これはとても印象的でした。

「俺は教師をしていた。高校の教師を。野球部のコーチもしていた。
その頃は、俺が教師だと言えば誰もが納得した。
だけどこの戦場では、この事実が「大きな謎」になっている。
きっと俺は変わったのだろう。
顔まで変わったのだろう。
もし故郷へ帰ったら、女房も俺を見間違えるかもしれない。
そんな女房に戦争で俺がしてきたことを、どう話したらいいのか…」

戦争に身を投じたならば、毎日毎日、数えきれない人を殺す日々が続くのですね。
それも優秀な軍人と評価されているミラーが奪い続けた敵兵の命の数は、とてつもないことでしょう。
「平和のため、国のため、家族のため」
とどれだけスローガンを掲げても、人の命を無数に奪っているという事実に変わりはありません。
すでに自分は、「人間らしさ」を失っているのではないかと感じていても無理はありません。
そんな思いを述べた後、彼はこう続けます。

「俺は『ライアン』という人間に興味はない。俺にとってはただの名前だ。
だけど、彼を捜し出して家族の元へ返すことができたなら…
 俺はきっと、胸を張って故郷へ帰ることができると思う。
これは、そのための任務なんだ。」

彼はいつしか、「価値のない任務」と思っていたこの「一人の兵士を救出する作戦」が、
「人間らしさ」を取り戻して、家族に顔向けができるためのチャンスのように、感じていたのでした。

他の場面でも、そんなミラーに感化された部下の一人がこう言っていました。

「いつの日か振り返るのだと思う。
このクソ戦争で、『ライアンを救出した』ことが、唯一誇れることだったと。
そして俺も胸を張って故郷へ帰れる。」

国の都合なのか、大衆の都合なのか、一部の偉い方の都合なのか、
「戦争」という「人の命を奪う仕事」に身を投じて戦い続けてきて、
そのモチベーションを駆り立てる栄光だの名誉だのが掲げられているけれど、
どんな勲章をもらっても、どんなワッペンを胸に貼っても、
心から胸を張れることは何一つない。

戦争の渦中にいる人間の一つの本音だったのかもしれません。

だからこそ、たとえ軍の広報活動の意図があるとしても、
「一人の兵士を救出して家族の元へ返す」
という任務に命がけになって初めて、
「自分にとって本当に誇れることは何なのか」
に気がついたのかもしれません。

「大衆の価値観」と「私が心から誇れる事」

いつの間にか私たちは、ついつい「周囲の価値観」に流されてしまいがちなのですね。
それも、無意識に。
環境という「縁」によって、私たちはどうにでも動き出してしまいます。

「昭和の時代」という「縁」
「平成の時代」という「縁」
そして
「令和の時代」という「縁」

それぞれの時代に価値観の変遷があり、その影響を受けずに生きるわけにはいきません。

いい会社で、お金を稼いで、いい家に住んで、いい車に乗って、いい暮らしをするのが良い人生なのか、
そんな贅沢ができなくても、ささやかなりとも家庭を築けたらいい人生と言えるのか、
一人気ままに、好きなように過ごせる時間を多く取れることがいい人生と言えるのか…

さまざまな価値観が目まぐるしく渦巻いて、そんな「縁」の中で色々な価値観に触れて、私たちは生きています。

あの映画の軍人たちならば、
「ドイツの独裁から世界を解放するための戦い」
「自由の為の戦い」
そのために命をかけて戦うことが価値のあること、という大きな価値観の中に生きていたことでしょう。
そして、人の命を奪う日々に身を置いていたのでした。

私たちも、「戦争」のようなシビアな「縁」の中ではないにせよ、
国やら会社やら派閥やら、様々な利害や思惑が渦巻く「縁」の中で、多かれ少なかれ、振り回されて生きている事実は否定できません。

そんな中にあって、あの軍人たちが「唯一胸を張れる事」を見つけられたように、
私たちは「心から胸を張れる事」を見つけられるかどうか。
これは人生の、とても大切な課題なのかもしれません。

興味深いことは、彼らがそんな「誇り」を見つけたのが、
大勢の価値観とは異なる、一見、価値がなさそうに思えてしまうことに一生懸命になった時だったのですね。
大衆の価値観から離れた行動の中に、心から胸を張れる「何か」を見つける。

案外、「本当に誇れること」というのはそんな中にあるのかもしれないですね。

ついつい私たちは、大衆が歩むような道を、歩みたくなります。
「なぜか」それが正しいような気がしてしまうものなのですね。
その「正しさ」の根拠をとことん突き詰めてみると、意外にさほど根拠のないものだったりするのですね。

「学校では、同じクラスか同じ部活の友達と一緒に仲良く過ごすもの。」
学校ではそんな、暗黙の、そして無言の強制力の伴った価値観があるような気がしますね。
だから、「一人ぼっち」を恐れがちです。
正直、私の学生時代もそうでした。
とにかく「一人ぼっち」にだけはならないように…
そのために、面白くなくても面白そうな顔をして、
別に話す必要もなくても、とりあえず誰かと会話しにいって、
そうやって、謎の権威の伴う「価値観」に、ただただ従っていたような気がします。

だけど、
「どうして教室で一人でいて、誰とも話していないのが、いけないの?」
と問えば、何か合理的な答えがあるわけではないのですね。
一人で好きな本を読んで過ごす時間だって、
一人で考え事をしている時間だって、
それが教室の中であろうとどこであろうと、値打ちある時間に違いありません。
もしかしたら、楽しくもないことを楽しい振りをして話しているよりよほど値打ちがあるかもしれません。

「周りがそうだから」の縛りを抜きにして、自分の心と向き合った時にこそ、
「自分が心から誇れるもの」
を見つけることがあるのですね。

価値観を問われる「決断の時」こそがチャンス

時代を問わず国を問わず、どれほど「価値観」が変わっても、変わることのない真理を、仏教では「道理」とも言います。

仏教は「因果の道理」と言われる「道理」を根幹として成り立っています。
文字通り「原因」と「結果」の法則ということですが、
特に私たちの「行い」についての原因と結果の法則を説くのが、仏教の「因果の道理」です。
どんな「行い」が、どういう「結果」を生み出すのか。
その「行い」と「結果」という因果が、仏教が明かす「因果の道理」なのですね。

「生きる」ことは、いわば「行い」の連続です。
朝起きて、顔を洗って、着替えて、ご飯を食べて、電車に乗って、友達と挨拶して…
常に何かしらの「行い」をしているのですが、そのほとんどは、「流されて」の行いですね。
自分の習慣に流されているのか、周囲の環境に流されているのか、あるいはその両方か…
何せ、意図的に「決断」した上での「行動」は、1日の行いをトータルしたとき、ごくごくわずかなものと言えます。

だけど、何かのきっかけで私たちは意図的な「決断」を迫られる時があります。
映画に出てきた軍人にとって、通常の戦闘行為とは全く異なる特殊な任務に就いたわけだから、
普段とは違った「決断」が迫られた場面が多くあったのでした。
そしてその「決断」をしていく中で、自分にとって何が心から誇れる行いなのかを見つけたのでした。

私たちにも、普段は会社や慣習に流された行動の連続であっても、時にイレギュラーが起こり、
「決断」を迫られる場面が来るでしょう。
思いもよらない人から、思いもよらない頼み事を受けたり。
知人や友人や大切な人が、予想もしなかった苦境に見舞われていたり。
急に、今までと違う仕事に就くチャンスが訪れたり。
ルーティンの枠をはみ出そうな出来事を前に、自分の「行動」を問われる場面が人生には訪れるものです。

その決断が大きなものであればある程、
「私」が、心から大切にしている「価値観」が問われます。

私は人生に、どんな「結果」を得たいと願っているのか。
そして、その為にどんな「行動」を大切にしようとしているのか。

一人一人に、「結果」についての、そして「行動」についての「大切にしていること」が必ずあるはずです。
「こんな行動をして、こんな結果に向かって近づいてゆくことこそが、
 自分に恥ずる所のない、誇れる生き方だ」
というものが、一人一人にあるはずなのですね。

大きな決断の場面は、まさにそれが問われている場面です。

またそれを見つけるチャンスでもあります。

私が人生に対して心から願っている「結果」が明確であるなら、
その「結果」に応じた「行い」が必ずあります。
これを「因果応報(いんがおうほう)」と言います。
「原因(行い)」に応じて、「結果」が報いるということで、
必ず自分の望む「結果」に対応した「行い」があるのですね。

例の映画のミラー大尉は、「ライアンを救出する」事が、彼の望む結果に近づける「行動」だと、確信したのでしょう。

では、私の人生における「ライアン救出」のような任務は、一体何なのか。
自分の心に直接、問いかけてみてください。
因果応報の道理に照らせば、自分のすべき「行い」が見えてくることでしょう。