「汚い心」をとことん追求したら見えてきた事〜「我利我利」という人間の本質〜

「汚い心」って、何なんでしょう?

「あの人は、お金に汚いよね」
などと言う時の「お金に汚い」てどういう意味か?
改めて問うと、
どう言ったものか…
ニュアンスは分かるんだけど…

そういう、「なんとなく」「ざっくりした」ニュアンスだけの理解で使用されている言葉は多いような気がします。
「お金に汚い」もその一つかもしれません。
「汚い」だから、良くないイメージなんだろうけど、何がどう「汚い」なのでしょうか。

ちょっとこの「金に汚い」の意味を調べてみると、2つほど意味がありました。
1つは、
「ひたすら自己の利益を追い求めるさま」
もう1つは、
「金銭などを出したくなさそうにする人」
どちらの意味が、あなたのイメージに近かったでしょうか…?

だけど、どうしてこれらを「汚い」と表現するのでしょうね。
もちろんこれは物理的な「汚い」ではなくて、人間の心を指したものでしょう。
人間の「汚い心」が、このような行動をさせるということですね。
では「汚い心」とは、どんな心なのでしょうか?

前者の意味、
「ひたすら自己の利益を追い求めるさま」
これは、
「自分さえ得すれば、自分さえ儲かれば…」
貪るように、自分の欲ばかりを満たそうという姿ですね。
確かに、そんな姿をイメージするとどうしても、
「美しくない」
「浅ましい感じがする」
「見苦しい姿」
そんな印象を覚えるのではないかと思います。

後者の意味、
「金銭などを出したくなさそうにする人」
も、その点は同様ですね。
金銭や利益を、できるだけ自分の手元に留めておきたい。
他人の所へ、それを流したくない。
ただ自分の欲望が満たされるように…
これもやはり、醜さ、見苦しさを覚える姿と言えそうです。

いずれも意味だとしても、
「ただ自分の欲望を満たすことに躍起になっている姿」
に、違いありません。
これこそが「汚い」の本質なのですね。

仕事に一点集中してのめり込んでいる姿、というのは格好いいですよね。
スポーツの練習に一点集中して没頭している姿、というのもいいですよね。
目の前の人の悩みの解決のために、意識を集中させて考えているのも、素敵な姿でしょう。
家族の生活をどうやって守るかを必死に考えて頭を抱えている姿、これも心打たれるかもしれません。

だけど、
ふと聞こえてきた「儲け話」にピンと反応して、真剣に耳を傾けている、とか
遺産相続の場面で、自分の取り分を増やすことに躍起になっている、とか
友達との食事のあとで、食事代の割り勘を、1円単位に至るまで自分に損がないように計算している、とか
これはその姿が真剣であればあるだけ「醜さ」を覚えてしまいます。

同じ「真剣」でも、それが「醜さ」と映ってしまうのはやはり、
「ただ自分の利益を満たすこと」
に一生懸命という姿なのですね。

触れた瞬間に嫌悪を抱く「汚い心」の正体は

よくあるストーリーなのですが、
ある男が、異常にお金にがめつい男で、仕事仲間からも「守銭奴」と蔑まれていた。
自分の収入を1円でも多くするために、いつも真剣。
もらえるお金は、どんな汚いお金でも大喜びで貰う。
しかもその、お金を受け取るときのニヤニヤした嬉しそうな顔…
「そこまでして、お金が欲しいのかねえ」
と、仲間たちからも呆れられている。

そんな男なのですが、ある時、仲間の一人がその「裏」を知ったのでした。
男は、その稼いだお金のほとんどを、故郷に残してきた貧困にあえぐ家族に送っていたのでした。
そして自分は、最低限の質素な生活をしている。
そんな中で、家族が元気に生活している知らせを受けては心から喜んで、
「また頑張ろう」
と、励みにしていた…

こういうストーリーを聞くと、どうでしょうか。
そんな「裏」を知ると、
1円でも多く利益をあげようと真剣な姿も、
どんなお金であろうと、もらえるものは何でも貰おうというがめつい姿も、
大喜びで、ニヤニヤしながらお金を受け取る姿も、
いずれも愛する家族を思うが故に姿だったのか、となれば、
一転して「美しい姿」という事になりますよね。

ちなみに、その逆のパターンもあります。
いかにも善良そうで、困っている人を見過ごせずに、
病気の人を助けたり
孤児となった子どもたちを集めて面倒を見ていたり
悩みを抱えている人を見つけては、親切に相談に乗ってあげていたり
とにかく他人のために、他人を助けるために、尽くしている善良な人がいて、
誰もが尊敬の眼差しでその人を見ていた。

ところが…
その「裏」で、それらの「人助け」を通じて知った情報やコネを利用して、
莫大な利益を得て、私利私欲を満たして喜んでいる姿があった…
なんて事になれば、たちまち幻滅ですよね。
他人を助けるとか、困っている人を放っておけないと見せかけておきながら、
結局は自分の利益のためにやっていたのか…
この偽善者め!
そんな目でその人のどんな「人助け」の姿を見ても、尊敬どころか軽蔑の思いすら沸いてくると思います。

自分の利益のことばかりを考えている心を仏教では「我利我利(がりがり)」と言います。
反対に他人の苦しみを放っておけず、なんとか幸せにしてあげたいという心を仏教では「慈悲」と言います。

「汚い心」と言われるモノの実態はまさにこの「我利我利」の心なのですね。
自分さえ得すればいい、自分さえ良ければいい、その為なら他人などどうなってもいい。
そんな自分の欲望しか考えられない心がまさに「我利我利」です。

誰でも、こんな心は嫌なのですね。
「我利我利」の心で接せられたら、ただ奪われるばかりですから。
自分から奪おう奪おうとする存在なんて、誰だって距離を置きたいと思います。

反対に、「慈悲」の心は当然、好まれますよね。
自分の悩みに寄り添ってくれる、理解しようとしてくれて、共感してくれて、一緒にその解決を真剣に考えてくれる。
自分の楽しみ、幸せを想ってくれる、喜ぶように喜ぶように行動してくれる。
そんな気持ちの人とは一緒にいたいと思うでしょう。

汚さ、醜さの本質は、一言でいえばこの「我利我利」なのですね。

それ、私が持ってるやつでは…

この「我利我利」というのは、欲望の本性を指すものです。
「欲望」というものは本来「我利我利」という本質を持ちます。
なにせ「欲」なのだから、当然ながら他人ではなく自分の気持ちを満たそうとするものが欲です。
形はどうあれ、手段はどうあれ、目指すものは自分の心が満ち足りること。
これが「欲」の本質です。
自分を満たす事しか考えられない「我利我利」が欲の本性なのですね。

そして、
「人間は、欲以外では動けないもの。」
これが仏教が教える人間観です。
これを「煩悩具足」と言われます。
「欲望」という煩悩が、常に人間をつき動かしているのですね。

という事は、私の本性は「我利我利」だという事です。
…といっても、どうしてもこれには抵抗があるかもしれません。
「本当にその通り。私は、自分を満たす事しか考えていない、我利我利が本性だ。」

なんて、心底そう思うのはキツいと思います。

なにしろあの、私たちが「汚いな」と、眉をひそめる「我利我利」の姿が、他ならぬ自分の本性だというのだから。

私たちは、他人の「我利我利」にはとても敏感なのですね。
そして、すぐに嫌悪感を抱きます。
なにしろ他人の「我利我利」は、自分から何もかも奪ってゆく存在ですから。
敏感になるのも当然です。
他人に対して「あれは、我利我利だな」と思うことは、いとも容易いでしょう。

だけど、そんな嫌悪の対象が、自分の心の本性を成しているなんて、とても思いたくありません。
そんな思いがますます、自分の「我利我利」の本性に対して鈍感にさせてしまいます。
だから、「我利我利」の醜い姿はいつも他人の中にあるものとしてしまいがちです。

しかしそんな、
自分=清らか
他人=汚い
などという構図が本当に正しいのなら、「汚い人」なんて一人もいないことになります。

とても認めたくはありませんが、「汚い我利我利の心」という本性を誰もが自分の奥底に持っているのですね。
「人間の汚さ、醜さ」は、決して他人事ではない。
自分の心の底にも、何ら変わりのない「醜い我利我利の心」が渦巻いている。
これが現実なのですね。

そして、その現実から目をそらさないこと。
我利我利の本性を努めて自覚することは、自分の行動への最良の戒めとなるでしょう。
最大の敵は、他人ではなくて自分の中の「我利我利の本性」ですから。