「理不尽」だらけの出来事を突破し続ける「指針」とは

何の脈絡もなく展開されてゆく人生…?

「人生不可解なり…」
そんな出来事は、世の中に溢れています。

過去のどんな行動が、今の結果につながっているのだろうか…
今の行動は、どんな未来につながってゆくのだろうか…

この「しんどさ」は、なんだ…?
この「気分の沈み」は、どうしたことか…?
なぜこんなに、仕事の調子が悪いのか…?
どうしてこの人、こんなに機嫌が悪いの…?

人生の一コマ一コマに現れる不可解な出来事を挙げれば、本当にキリがありません。

ドラマや映画だったら、一応ちゃんと「脈絡」ってのがありますよね。
「そうか、さっきのは、この場面のための伏線だったのか…」
「そうか、この主人公の苦労は、こういう形で報われていくのか…」
「この悪事は、こんな風に裁かれていくのか…」
「ドラマ」や「映画」の決められた時間の中で、そんな風にちゃんと腑に落ちて、見応えを感じられるようになっています。
そりゃ、当然ですよね。
あまりに脈絡が無くて、
「結局あれは、何の伏線だったの…?」
「この人、無駄な苦労の連続だったの…?」
「コイツ、悪いことやり得で終わってない…?」
そんなことばっかりなストーリーでは、後味が悪すぎますよね。

まあ逆に、あまりに伏線回収も、報いも見事にスッキリ片付いていると、「いかにもフィクション」感があるのですが。
なので、あえて幾ばくかの「後味悪さ」を残して、物語にリアリティを出すような物もあるみたいなのですね。

とはいうものの、私達が生きている「リアル」はとてもドラマや映画を観るように、
「伏線回収」がきっちり行われたり、「報い」が誰もが納得出来るように現れたり、
というようには行かないように思えるのですね。
むしろ、脈絡のない、一コマ一コマの連続のようにさえも思えます。
「なんで、こんなことに…」
「どうせ、そんなものなのかな…」
そんなつぶやきが世の中にあふれて、やっぱり「人生不可解」になってしまいます。
こんなもんが「ドラマ」や「映画」で描かれても、誰も納得しないだろうし、後味悪すぎじゃないか?
と思っても無理はありません。

「思考停止」が生み出す「惑い」

人生に対して、「不可解だ」「もうわからん」という思いを強めてしまうと、そこから色々な「惑い」が起きてきます。
人間の「心」ほど無常なものはないと言われますから、それほど惑いやすいものが私達の心なのですね。
仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と教えられ、あらゆるものには「常」が「無」く、変わらないものは何一つない。
全て、激しく変わるか少しずつ変わるかだけの違いで、常に移ろいゆくものと説かれます。
そんな「移ろうもの」だらけの中で特に移ろいやすいのが「心」なのですね。

「よし、家に帰ったら、あれをして、これをして…」
そう心に決めて、家路を急ぎ、家のドアを開けて、自分の部屋に入り、荷物を下ろして
「ふう…」
と気が抜けた瞬間に、あの帰り道での「決意している自分」とは、まるで別人のようにダラダラモードへと移行してゆく…
こういうのは「あるある」なのですが、「心」の移ろいやすさを実感する場面は、日常の至る所にあります。

「縁の影響で、どれだけでも惑いやすいものが私の心」
そう思うぐらいがちょうどいいでしょう。
置かれた環境によって、確実に私の「心」は、どんどん、どんどんと変わっていきます。
そんな私の「心」なだけに、どんな「惑い」や「ヤケ」や「他人への八つ当たり」を起こしてもおかしくないのですね。
だからこそ、確固とした「人生観」に基づいた信念を築いて、
そんな自分の惑いに歯止めをかけ、是正するための「軸」「指針」を持つことが大切になるわけです。

しかし「人生不可解なり」と言って、人生の根本的な所に対して「思考停止」状態になってしまうと、
そこから「人生観」も「軸」も「指針」も築きようがありません。
色んな縁をきっかけに、色んな「惑い」を起こして、その「惑う心」に振り回されっぱなしとなってしまいます。
ただ「人生不可解」で、何の軸も指針も定まらないという事ほど、辛いことはないのですね。

たとえどんなシビアな内容であっても、
自分の人生に次から次へと起きる現実に対して「因果」を観ようとする視点を持つことが、大きな救いとなることでしょう。

「不可解」な人生を貫いている「道理」とは

私達はとかく「結果」に翻弄されてしまいがちなのですね。
「他人からひどいことを言われた」
「仕事がうまく行かなかった」
「あの人から嫌われてしまった」
「急に気持ちが沈んでしてしまった」
「体の具合が悪化してきた」
本当に、次から次へと、一日の中だけでも、色んな事が起こりますよね。
それら一つ一つ、人生に起きている「結果」と言えます。

それら一つ一つに対して、
「一体どんな因果で…?」
と考えてしまうわけですが、それらすべての「因果」を、具体的に
「これは、こんな因果。これは、こんな因果。」
と明快に説明することは、現実問題、人間の頭では不可能でしょう。
情報があまりにも多すぎですよね。

それでも、その大量に押し寄せてくる「人生の結果」に対して、私達が明確に理解できる道理があります。
それが、「自業自得(じごうじとく)」という道理です。

「自得」というのが、自分が得る結果の事であり、大量に押し寄せてくる人生の様々な結果です。
その人生の様々な結果の「原因」は、「自らの業(ごう)」である。
それが「自業自得」という事です。

「業(ごう)」とは、仏教で「行い」のことを言います。
私達の「行い」は、人生における「因」となります。
なので、「業」のことを「業因(ごういん)」とか「業種子(ごうしゅうじ)」などと言われます。
「行い」は、「因」であり「種子(たね)」であるという事です。
何の「因」なのかと言えば、もちろん先程から述べている「人生の様々な結果」の「因」です。
「原因は、必ず結果となる」
この「因果の道理」を曲げることは叶いません。
原因があるのに、何の結果となることもなく「無」となってしまう、
なんてことはあり得ないというのが「因果の道理」です。

ということは、私達のやった「行い」は「因」となり、
それは「結果」となるまでは決して消えること無く残るのですね。
私達には色んな「行い」があります。
私が今このようにブログの文章をタイピングしているのも行いです。
あなたが今このブログを読んでいるのも行いです。
朝、起きるのも。
着替えるのも。
通勤・通学の道を歩くのも。
仕事中の様々な業務やコミュニケーションも。
絶えることなく、何かしらの「行い」を次から次へと為しています。

それらの「行い」は、終わってしまえばもう「消えた」かのように思えますね。
録画や録音でもしていれば、「記録」としては残るでしょうが、
そうでもなければもう、「人の記憶」というあいまいな形でしか残りようがないもの。
「『行い』は、過去のものとなればもう、消えたも同然のもの。」
表面上はそんな感じもするのですが…
だけど本当は、私達の「行い」は「因」となっているので、たとえ「行い」が終了してどれだけ時間が経とうとも、
目に見えない形で私達の心の奥底に、「業因(ごういん)」となって残り続けていると、仏教では教えられます。

「行い」が、やり終わった後も、目に見えない形で残り続ける。
そんな「業因(ごういん)」を、「業力(ごうりき)」とも言います。
「行い」は、目に見えない「業力」という「力」となって、私達の心の奥底に残るという事です。

という事は、私達の心の奥底には、次から次へと、非常に激しく「業力」が収まってゆくわけです。
先程、「人生の結果が、大量に押し寄せてくる」ということを述べましたが、
実は「人生の因」もまた、常に大量に造り続けているわけですね。
そして、その「因」と「果」は、自業自得の道理に則って、対応している。

私達が「生きる」ということは、
因を造り、果を受ける。
ひたすらこの連続である、という事なのですね。
それが「人生」であり、それが「私」です。

そんな、膨大の「因」と「果」が織りなしているのが人生なのだから、
「不可解」なように思えたり「脈絡のない」ように思えたりするのは当然といえば当然です。
だけど、決して、何の脈絡もない、何の法則もないのが人生ではありません。
ただ、造っている「因」は膨大であり、受ける「結果」もまた次から次へと果てしなく連続してゆくため、
「因」と「結果」の一つ一つの把握が困難極まるのであって、
その「因」と「結果」の関係そのものは極めてシンプルなのですね。
それが、「自業自得」ということです。
この道理の理解こそが、色々な「惑い」を破る指針となり軸となります。

複雑に展開される「因果」を前にたじろいでしまうのは、確かに無理もないことです。
そこからいろんな惑いが起きてくるのですが、
そこに横たわる「道理」を見極めて、惑いに負けることなく人生に挑んでゆきたいものです。