「人に情けをかけるとモヤモヤする」を払拭するには〜「情け」の結果の行方を知る〜

「情けをかける」に伴うジレンマ

「情けは人の為ならず」
という言葉の誤用率が4割ぐらいだと最近聞きまして、
「そんなに多いの!?」
と思ってネットで調べてみると、4割をゆうに超えているようでした。

確かに、
「よく誤って使われている言葉」
の代表格の一つのようなイメージはありました。
ただ、いろんなところで「誤用ですよ」と言われているのを聞くので、
もうだいぶ知られているのかなと思っていたのですが、
「誤用」って、意外になかなか正されないものみたいですね。

誤用として言われているのは、この意味ですね。
「情けをかけてあげるのは、かえってその人の為にならない」

あまり他人に甘くしていたら、いつまでも甘えてしまって、その人自身の成長の機会を奪ってしまうことになる。
こういうことですよね。
「情けは人の為ならず」の意味としては誤用なのですが、
「あんまり甘やかすな」
ってこともよく言われるので、そんな意味でこの言葉が一人歩きしてしまうのも無理はありません。

正しい意味はこうですね。

情けをかけるという行いは、一見すると情けをかけた相手の為になっているようだけど、本当はそうじゃない。
情けをかけられた人よりも、情けをかけた人が、もっとも素晴らしい結果を得る。
だから、人の為ではない、自分の為になるのだ。」

え…長い…?

いや、もっとコンパクトに言えればいいんですけど、これぐらい砕いて言いたいんですよね、この言葉は。

ちなみに、辞書を引いたらどう書いてあるかというと
「情けをかけておけば、巡り巡って自分の為になる」
こんな感じで書いてあります。
とっても簡潔で分かりやすいですね。

「辞書に書いてあるなら、それが正しい意味じゃないか」
と言われれば、全く返す言葉がありません(苦笑)

しかも、この言葉には続きがありまして、

「情けは人の為ならず、
めぐりめぐって己が為」

という言葉なのですね。
だからまさに、辞書通り「巡り巡って自分の為になる」というのが正しい意味となります。

ただ今回は、辞書通りの意味だけでなく、
仏教の教えから「情けは人の為ならず」という事についてもう少し掘り下げてみたいと思います。

「情けをかける」行いは誰に何をもたらすのか

「情けは人の為ならず」
この言葉は「自業自得」という仏教の教えをとても分かりやすく表しています。

この「自業」というのが「自分の行い」ということで、
ここでは「他人に情けをかける」という行いに当たります。
その「自分の行い」の結果は、自分が受けるというのが「自業自得」ということです。

ということは、「他人に親切にした」という行いの結果は、他人の所へは行かない。
自分自身にその結果をもたらす、ということになります。
まさに、「人の為ならず」ですね。

他人の仕事を手伝ってあげた。
仕事で分からない所を丁寧に教えてあげた。
人の悩みを聞いてあげて、色々とアドバイスをしてあげた。
病気の友達の看病をしてあげた。

「親切な行い」は様々ですが、
それらの「行い」の結果が、親切してあげた相手の所へ行くのではない。
その結果はすべて自分に起きるのだ、というのが「自業自得」ということです。

私たちの感覚だと、
「自分のした行いによって、相手が得している」
と思いますね。
だけど、私がした親切な行いによって相手が本当に幸せになっているか、それは私には分かりません。
それは、私に決められることではありません。

私の行いによって、他人の結果を造ることなんて、出来ないのですね。
「自業自得」というのは、そういうことです。

私が造ることができるのはあくまで、自分の結果だけ。
その人の結果は、その人にしか造ることはできません。
だから、私がその人の為にと思って行いをしても、他人に結果を「与える」ことは出来ません。

じゃあ、他人にとって私の行いは無意味なのかというと、もちろんそうでもありません。
あくまで「私の親切な行い」は、他人にとっては「縁」です。
そして「私の親切な行い」を「縁」として、その他人が本当に幸せな結果を受けるかどうかは、その人の「行い」次第だということです。

「縁」というのは、植物の種が芽を吹き、実りを生み出すための「土壌」や「空気」や「水」といった環境のようなものです。
だから大切なものには違いありません。
だけど、どれだけ土壌があっても水があっても良い空気があっても、
そこに「種」を蒔かなければ、「実り」は絶対に得られません。
その「種」こそが、その人自身の「行い」です。

私がどれだけその人のために様々な行いを一生懸命してあげても、
それはあくまでその人にとっての「縁」です。
土壌や水や空気のような「環境」となってあげるのが精一杯なのです。
「種」を蒔くことができるのは、その人だけなのですね。
他人の「種」を蒔いてあげることは、私にはできません。

「大切な人」がいる人にとって、この事実は本当にもどかしいことです。
出来ればその人に代わって、苦しみを受けてあげたい。
出来ればその人の「幸せ」を、私が精一杯努力して与えてあげたい。
それぐらいに大切に思う人が、あなたにもいるかもしれません。

ですが、他人の「自業自得」を、自分がコントロールすることは決して叶いません。
この事実はどうしても、受け入れる必要があるのですね。
その上で、考えるべきことは、
「その人にとって、どんな縁になってあげられるだろうか」
ということです。
その人が、その人の自業自得に則って幸せになるための、最良の縁に自分がなってあげる。
これが私たちが他人にできる精一杯ということです。

「情け」は巡り巡らなくても己が為

そして、「他人に親切をする」という行いは、私の未来の結果を造る種となります。

それを一般的には、
「人に情けをかけておけば、いつか、巡り巡って、自分に他人からの親切が返って来るものだ。」
というように言われるのですね。
これは、「親切」が、「親切」という形で自分に返って来るという、とても分かりやすい報いの形です。

だけど、それはあくまで報いの一つの形に過ぎません。
本当は、巡り巡らなくても、同じ「他人の親切」という形でなくても、
私の行いの結果は必ず私に現れてゆきます。

他人に親切をするという行いのことを仏教では「布施(ふせ)」と言います。
困っている人、
苦しんでいる人、
悩んでいる人、
そんな人に対して、助けとなる精一杯の行いをすること、
この「布施」の行いが、自分の幸せな未来を切り開いてゆく種になるのですね。

「布施」を実践できる、
まずこの事実が私の自信となり、元気となり、貴重な経験となります。
そういうことを積み重ねていること自体が、自分の歩みたい道を歩むための大きなエネルギー源となります。
「他人が同じような親切を返してくれる」
という分かりやすい結果にあうまでもなく、自分に素晴らしい結果が満ち溢れて来ることが、実践をすれば分かります。

もし、「巡り巡って、同じような親切が自分に返ってくる」という形の報いばかりを待ち望んでいると、
じれったい気持ちにばかり、なってしまうかもしれません。
「こんなに周りに親切しているのに、自分は全然、周りに親切にしてもらえない…」
こんな声は、あちこちに満ちているのが実態ですよね。

もちろん、分かりやすい形で「同じような親切」をもらえる場合もあります。
だけど、報いはそんな形ばかりではありません。

だいたい、私が本当に望む未来は、
「ただやった行いの「お返し」が誰かから返ってくる」
それだけの未来なのでしょうか。

報いにただ「お返し」が来るだけなら、それだけで終わってしまいます。
そんな一時的な満足が本当に私の望む未来なのでしょうか。

私たちが心から望む未来は、
継続的に、自分の人生が好転してゆく未来であって、ただの一時的な「お返し」だけではないはずです。
自分の行動に自信が持てて、さらに継続して、もっともっと善い種を蒔き続けられる。
その為の第一歩が、他人に対する「情けをかける」行動と言えるでしょう。

情けは人の為ならず。
それは、己の限りなく恵まれた人生を開く、第一歩。

これぐらいの信念を持って、「布施」の行いを実践してゆきたいものですね。