「人の思いの力を信じる」にも色々あって…〜「怨念が残る」の真の意味〜

「怨念による呪い」とか信じます?

昔々…この場所ではこんな恐ろしい事件があって、
その事件で死んだ人の激しい憎悪がこの場所にはずっと残り続けて、
ここでは夜な夜な、苦しみの声が聞こえるのです…
そしてその声を聞いてしまった人は、その怨念に取り憑かれてしまい、毎晩、幻覚に怯えて生きることになってしまい…

こういう類のホラー話はよくありますよね。
ホラーってのはやっぱり、「なんとなくありそう」な話だからこそ怖いわけですよね。
「その因果関係はちょっと無理があるよね」
と思わず突っ込んでしまうようは話では、あまり生々しい恐怖は感じられません。
「呪い」とか「憎悪の残影」などが生み出す恐怖がよく取り上げられるのはやはり、「なんとなくありそう」な話だからなのでしょう。

「人間の激しい憎悪の心は、消えること無く残り続ける」という感覚が、確かに私達にはあるのかもしれません。
「人間の恨み」とはそれほどに恐ろしいものなのですね。

あなたは、他人から激しく恨まれた経験はあるでしょうか。
「他人から激しく恨まれてしまう」って、想像するとやっぱり恐ろしいなと思います。
それは、具体的に「刃物で刺されるかもしれない」とか「嫌がらせを受けるかもしれない」という以前に、
「恨み」の心を向けられること自体が嫌なことであり、極力避けたいことです。
「人間の恨みの心」そのものが、何かしら「恐怖」の対象となるのですね。
一時的に「カッ」となって燃え上がる「怒り」も確かに恐ろしいですが、
ああいう一時的な爆発と異なり、「恨み・憎しみ」というのは、執念深くて、いつまでも残り続けるものです。
いつまでもいつまでも恨まれ続けて、その終わりが見えないというのがまた怖いものです。
「お前を一生恨んでやる…」
という言葉があるように、場合によっては一生涯続くこともあるものです。

そして、
「その負の執念が、本人が死してもなお、『怨念』としてどこかにこびり付くように残り続ける」
とか
「その『怨念』が、その周囲の人々に影響を与え続ける」
ということまで信じられることがあるのですね。

人の「思い」は形もありませんし目に見えないですが、私達にとってはとても興味深いものであり、
強い力を持っているものと信じられ、時には不思議な現象を起こすものと信じられたります。

じゃあ実際のところ、『怨念』の力なんてものが本当にあるのでしょうか?

「怨念」は確かに「残る」、けれど…

仏教では、「人間の思い」のことを「意業(いごう)」と言います。
「業(ごう)」は、「行い」のことで、
で為される動作を「身業」といい、
で為される発言を「口業」といい、
の中で色々なことを思うのを「意業」といいます。

そして、「業」は決して消えることなく残るものだと教えられます。
「行為」とはこの肉体という「物質」と、それを動かす「力」とで構成されていると言えますが、
この「物質」と「力」とで為された「行為」とは、
その為されている「瞬間」は、その存在は見れば誰でも分かりますが、
為し終えた後は、録画や録音でもしない限りはもう誰も認識できません。

だけど、その「物質」と「力」とで為された「行為」は、一度為されたからには決して「無」にはならない。
目に見えない「力」となって残っていると仏教では教えられます。
それを「業力(ごうりき)」と言います。

科学的に言っても、「質量保存の法則」「エネルギー保存の法則」として知られているように、
「物質」も「エネルギー」も、形や状態が「変化」することはあれども「無」になることは決してないものです。

そんな「物質」や「力」で造られた「行為」は、それが「無」になることはありません。
為し終わればもう「形ある状態」としては残りませんが、目に見えない「業力」という状態で、消えることなく残るのですね。

それは、で為された行いである「身業」も、での発言である「口業」もそうですが、
の中で密かに思うという「意業」もまた、消えることなく残ります。
「意業」は「身業」や「口業」とは違い、最初から外から認識することはできないものですが、
その「思う」という行為もまた、そのまま目に見えない「業力」として、消えることなく残り続けるのですね。

ただその「残る」というのは、
どこかの特定の場所に、固定したモノとして残り、周囲の人たちの運命を狂わせる力を有する、
というようなものとは全く異なります。
そういう意味では、世の中で信じられている「怨念が残る」という類の話とは大きく異なります。

「業力(ごうりき)」とは、そんなどこかの場所に固定して残るものでもなければ、他人の運命を左右する力を持つものでもありません。
その「行い」をした人自身の心の奥底に、残り続けるものなのですね。
「業力」は、どこかの「場所」に残るものではありません。
その行為をした本人の心の奥底に、残るものです。
そして、その「業力」のはたらきもまた、他人の運命をどうこうするものではありません。
その「行い」をした人自身の未来の運命を生み出すものが「業力」です。

この、「自分の行い(業)」と、「自分の未来の結果(運命)」の関係を言った言葉が「自業自得(じごうじとく)」です。
自分の造った「業」は、自分が未来に得る「運命」を生み出す。
この「業」のはたらきを教えた言葉が「自業自得」なのですね。

つまり「業」とは、その「行い」をした人の心の奥底に、「業力」という目に見えない力となって残り続け、
それがその人自身の未来の運命を生み出す種となる、というものです。
だから「業力」のことを、「業種子(ごうしゅうじ)」とも言われます。
「業」は、その人自身の未来を生み出す「種」なのですね。

「思いの力」を大切にするための視点

私達にとって、「人の思い」とはとても大切なものです。
ただその「大切さ」とは、何といってもまず、一人一人の未来を生み出す「種」としての大切さです。
「意業」とは、あくまで一人一人のこれからの未来の問題に関わるものなのですね。

そう考えると、「怨念がいつまでも残る」という恐ろしさの意味が、だいぶ変わってきますね。
その「怨念」によっていつまでも苦しむのは誰かというと、他ならぬその「怨念を抱いている」本人だということです。
だから「怨念」とは、悲しいものだとも言えます。
苦しい目に遭った人が怨念を抱いてしまうというのは、無理からぬこととはいえ、悲惨な事だと言えます。
その「怨念」という「意業」は、他人の運命を狂わせる力ではなく、そのまま自分の未来を造ってしまう力なのですから。

「恨みや呪いの心」をいつまでもいつまでも抱いてしまう、
しょっちゅう「憎い…」と思ってしまう、
これは、その人の「苦しみ」の他、何物でもありません。
この思いをどれだけ強く抱いても、それが他人の人生を変えるような力はなく、
全部、自分の未来を生み出す種として残り続けるという事なのですね。
そういう「自業自得」の恐ろしさが、仏教が教える「怨念の心」の恐ろしさです。

では、「人間の思い」は、他人に影響することはないのでしょうか。

それは、「思う人」と「思われる人」との「縁」の問題です。
たとえば、「他人が私の幸せを強く強く念じていてくれている」という状態は、
やっぱり私にとって幸せな事ではありますよね。
私も、自分のことをそんな風に思っている人がいると感じられれば、とても幸せな気持ちになれます。

「人の思い」って、たいがい何らかの形で伝わりますよね。
もちろん、はっきりと言葉や行動で表されるのが一番伝わるので、それが大切なことはもちろんなのですが。
だけど、自分の幸せを念じてくれている人とのちょっとした関わりを通して、
「なんとなく」それを感じることはできます。
明確に意識で認識できなくても、無意識のどこかにそれが伝わっていたりもします。
「心で念じながらその人に接する」
たとえ直接的に言えなくても、そんな気持ちや行動は決して無駄ではありません。
そんな「心のこもった言動」は、必ず相手にとっての「縁」となっています。

「他人の思い」は、自分にとっては「縁」となります。
だけど、自分の未来を生み出す「種」となる「因」は、あくまでも自分の「思い」や「行動」です。

「因」と「縁」とは、また別のものなのですね。
「因」は、自分の未来を生み出す「種」のようなものです。
その「種」がなければ、自分の未来の結果は現れようがありません。

だけど、「種」があっても、それだけでは「結果」は現れないのですね。
「種」が、結果という「実り」となるためには、たとえば土や水や気温や日光のような、「種」が「実り」となるための「環境」が必要です。
その「環境」にあたるものが「縁」です。

その「因」と「縁」とが揃ってはじめて、「結果」は現れる。
これが仏教が教える「因縁生」という道理です。

なので「縁」も大事です。
他人の自分に対する「思い」は、そんな「縁」となるのですね。
この「因縁」をよくわきまえた上で、「自分の思い」や「他人の思い」を大切にしていきたいですね。