知識を「本物の自信」に変えるために~「知識コレクター」にならないために~

「新しい知識」が大好きな私たち

知識欲が旺盛で、「新しい知識を得ることが大好き」という人の気持ちには、
私もとても共感します。

「知らなかったことを知る」
「これまでになかった視点を得る」
「これまで持っていなかった考え方に触れる」

それに伴って自分の中に起きる「変化」というのは、とても新鮮で心地よいものです。

食べたいものを食べたり、
友達と楽しくおしゃべりをしたり、
面白い漫画を読んで楽しんだり、
温泉に入ってゆったりしたり、

そういう「楽しみ」も、もちろん素敵な楽しみですけど、
「新たな知識を得る」
この楽しみはまた、感情的に刺激を受けて楽しんでいるのとは一味違った、
「自分の中の高度な変化」を味わうような感じがしますね。
そして何より、自分のこれからの人生の大きな糧となり、善き変化を起こす元になります。

だから「高度で有益な知識を得る」価値は、世の中でもとても高いものとされています。
セミナーの参加料金が何万円もする、というのはよく聞きます。
またそんな高額のセミナーに喜んで参加する人がいても、おかしな感じはしません。
だけど、遊園地のアトラクションに何万円もかかるとか、映画を観るのに何万円もするというのは、ちょっと聞きません。
どんな素晴らしい映画でも、千円単位というのが普通ですよね。
「高度な知識を得る価値」は一般的に、「感情的に興奮や感動が得られる価値」よりも高く認識されているのかもしれません。

「感情」は、その場限りの一時的で、時間がたてば冷めてしまいますが、
「知識」は、それが有益なものなら、今後ずっと私の人生を助け続けてくれることもあります。
人生の価値を、どんどん高めてくれる力を秘めているものが「知識」なのですね。

「知識」を得たら、気を付けよ

そういう力強いものが「知識」なのですが、それ故の危うさを持つのもまた「知識」です。
それは「知識を得た」ことに対する過信ですね。
他の人の知らないような知識を得て、世界が広がったことから、自分のレベルが上がったような感じがして、
それを知らない人と差を付けた、という気持ちになりやすいのですね。
いや、もちろんそれは事実です。
価値のある事を「知った」ということは、「知らない」人よりも、一歩リードした、という面があることは、もちろん否めません。
そこに「自信を持つ」事は、むしろとても大切なことです。

だけど、その自信が「過信」となることが、危ういのですね。
そこから「他人を見下す」ということになると、これはもう、「とてつもなく嫌な奴」になってしまいます。
多分あなたも、遭遇したことがあるでしょう。
何かと自分の知識を誇り、それを誇示して、知らない人を見下すような態度をとられるような場面に。
「凄いことを知っていることは認めるけど、あなた、そんなに偉いの…?」
と言いたくなるような…

「知らないことを知った」ことによって得られる変化の大きさ故に、
「他の人と差を付けた」感が大きくて、その知識を自慢したくなる、ひけらかしたくなる。
こういう気持ちが起きるのがまた、人間です。

仏教で教えられる「煩悩」の中に、「慢」というものがあります。
文字通り「慢心」のことで、「自惚れ心」とも言います。
自分に何か優れた所があるとなれば、すぐさまそれを他人に誇示して、見下したくなる心です。
誰でも大なり小なり持っている心なのですね。煩悩のない人はいないわけですから。
だからこそ、誰もが気をつけるべき事なのですね。この「知識を得たが故の慢心」というものには。

「他の人の知らないことを知った」事は確かに凄いです。
だけどまだ、ただ「知った」だけでもあります。
その知識を、どれほど自分の人生に取り入れて活かしているのか…?

「知識を得た」後には、そのことを自分に問うべきでしょう。
得た「知識」が「本物の自信」になるのは、それを自分の人生の糧と出来た時なのですから。

もし、その段にも至っていない段階で、ただ「知った知識」を掲げて、ドヤ顔全開で、
耳新しい専門用語を口から乱発して、気持ちよさそうにその知識の凄さを語っている人がいたら、どう思うでしょうか?
残念な印象しかないかもしれませんね。
「実践の伴っていない薄っぺらさ」は、恐ろしいほど相手に伝わってしまうのですね。

だけど、私自身がそんな姿を晒してしまうリスクは、常にあるのですね。
(自戒を込めて(苦笑))

「知識」が「本物の自信」に変わる時

とはいえ、

「新しい知識を得て、その知識を元にある程度イメージできるくらいに理解した」
まずこれは、素晴らしいステップを踏んだと言えますよね。
「イメージが広がる」という事は、やっぱり凄いことなのですね。
それが無いと、自分の可能性が広がる余地がないのですから。

仏教では「行動」のことを「業(ごう)」と言いますが、
「イメージする」という行動は、心の中だけでの行動ですね。
そのような、心の中だけの行動のことを「意業(いごう)」と言います。
あらゆる行動の元は、この「意業」です。
「意業」がまずあってそこから体での行動、や口で発する言葉となって、現れてゆきます。
知識を得ることは、その第一歩を踏ませる貴重な「縁」となるわけですね。

だけど、イメージの世界だけは広がっても、
依然として私達の「行動」は、日常においては「これまで通りの繰り返し」となっているのが実態です。

だいたい「行動」と言っても、実にほとんどが、無意識下のルーティンの行動が占めているわけですね。
実際に、1日の行動を振り返ってみて、どうでしょうか。
その1日の中に、「これまでになかった新たな行動」がどれくらいあったでしょうか?
間違いなくその1日に、あなたの無数の「行動」があったわけです。
その中で、「これまでになかった行動をした」と言える行動が、いくつぐらいあるでしょう?
驚くほどに少ないのが実態なのですね。

よほど意識して過ごさないと、本当に「同じような行動の繰り返し」で、1週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎ、そして1年が過ぎてしまいます。

いかにその「繰り返し」の中に、新たな知識から得られたイメージ(意業)通りの行動を、取り入れるか。
これが私達の課題となります。

そのチャンスの一つが、「不測の事態」や「不測のトラブル」に遭遇した時です。
もちろん、あまりに深刻な事態や洒落にならない事態はできれば避けたいところですが。
それでも、
「あ…どうしよう…」
と、若干のストレスを伴うイレギュラーな事態は、ちょいちょい起こってくると思います。

ルーティンの行動ばかりになってしまうのは、「これまで通りの行動で通用してしまう場面」の中で生きているからですね。
そんな中、時折、
「これまで通りの行動だけで通用しない場面」
に遭遇してしまいます。
ストレスが高まる瞬間ですね。

だけど実は、この時こそが、「新たな行動」を、私達の日常に取り入れるべきタイミングなわけですね。
「不測の事態」は、これまでにない「行動」を必要とする場面ですから、
そこに立ち向かえば、必然的に「行動」は変化します。
そこに学びの知識を生かすことができれば、得難い「実践」の場を得ることにもなります。

そう考えると、不測の事態はチャンスにもなり得るのですね。

新たな「知識」と、新たな「行動」とをバランスよく積み重ねてゆく。
そうやって「本物の自信」を養ってゆき、知識を真に生かす生き方にしてゆきたいものです。