「絶望感」への立ち向かい方~惑いに隠された「道」~

勝負は絶望感が芽生えた時から

さてブログを書こうか、とキーボードに向かったものの…
ネタが、ぜんぜん出てこない。
ただ時間だけが過ぎてゆく。
30分、1時間、2時間…

端末機の画面に開いたワードのシートは真っ白なまま、
前へ進んでいるのやら進んでいないのやら、
「考えている」ようで、実はぼーっとしているのか、
とにかく手が動いていないので、「何もしていない」ようにも思えるこの状況
つ…辛すぎる…

この状況は、本当に避けたいのだけども、たまに陥ってしまいます。
その時に出てくるのは、ちょっとした絶望感です。

仕事にしろ、家庭にしろ、友人関係にしろ、
「先が見えない」
「状況がよくなるイメージが沸かない」
というような話を周囲から聞くこともありますが、
これも一種の絶望感なのかもしれません。

文字通り、「望み」が「絶たれて」いるかのように、状況が好転する道が、見えない。
この状況がまさに「絶望」というわけですね。

私の「記事を書く目処が立たない」なんてのは、世の中の多くの絶望的状況と比べたら、
きっと些細なものなのでしょう。
とはいえ、私の気持ちとしてはそれでも、絶望感に似た思いが起きてきてしまいます。

さて、まさに勝負はここからなのですね。
誰だって、
追い詰められたら
困難が複数同時にやってきたりしたら
自分の持つ武器が枯渇してきたら
「絶望感」がムクムクと立ち昇ってきます。

そんな時、

このまま「絶望感」に飲み込まれてしまうのか、

嫌〜な「絶望感」の匂いに苛まれながらも、
「道が無いなんてありえない」
という「鉄則」を守り続けられるか。

ここが勝負どころなのですね。

絶望感の「向こう」に広がる世界

私のブログネタ切れの危機には、まあまあ悩まされて来ましたが、
なんだかんだで、切り抜け、切り抜け、また切り抜けて、
気づけばもうすぐ100記事、という所まで来ていました。
少しずつ、読んで下さる方も増え続けて、色んな手応えと自信を感じているところです。

考えてみれば、これまでの危機は私にとってほどよい「絶望感」だったかもしれません。
というのも、これを一つ一つ乗り越えることが、間違いなく糧となっているからです。

危機を前に解決の道を模索した結果、一度「道」が見えたなら、
「なんだ、いくらでも道なんてあるじゃないか」
という感覚になれるのですね。

打つ手はいくらでもある。
リソースは世の中に溢れている。
手を打ち続ければ、分厚い壁のように立ちはだかる困難も、必ず突破できる。

こういう現実が見える瞬間を味わえるのですね。

「絶望感」の向こうには、必ずそういう世界が広がっている。
「絶望感」に阻まれている間は見えない、「道が開けた世界」が、その向こうに必ずある。
こういう感覚を、「絶望感」を突破するたびに味わうことができます。

本当は、選択肢は、道は、いくらでもあって、歩み続ければ行きたいところへたどり着くことはできる。
「因果の道理」に立ったならば、得たい「結果」に対する「原因」は必ずあるというわけですね。
結果には必ず原因がある。
これが「因果の道理」と言われる教えです。

「どんな結果を自分は得たいのか。」
このイメージが明確に出来るのなら、それに対する「原因」も必ずあり、それを見つけることができる。
だから、行きたいところへの「道」は、必ずある。
これが「道理」というものです。

「道理」はそうなのだけど、自分の中に色々な原因があって、その「道」が見えなくなってしまっている。
これが「絶望的状況」の実態なのですね。

「道」を見えなくさせる自分の中の原因は様々です。
失敗続きによる自信の喪失だったり
因果の道理を信じられなくさせる種々の惑いだったり
単純に疲弊して頭が回らないのかもしれないし
精神的に疲弊して、考える気力が沸いてこないのかもしれない
色んな原因はありますが、あるはずの「道」を見つけられない、見つけようすることもできない。
こういう状況が「絶望」ということなのですね。

今いくつか挙げた、「道」を見つけられない原因の一つで、
「疲れている」
という原因がありましたね。

これは結構大きいです。
肉体的にでも精神的にでも「疲れている」「疲弊している」
このエネルギーの枯渇は、「絶望」の状況を生み出しやすいと言えるでしょう。
何しろ、解決策という「道」を模索するためのエネルギーそのものが枯渇しているのだから。
「道」が見えない状態に、必然的になります。

しかし、人間は意外に自分のことが見えないもので、
その「疲れている」という原因にも目が向けられないことがあるのですね。
ただ、疲れていて「道」を見つけられないだけなのに、
「解決の道」の絶たれた「絶望的状況」に自分はいると、錯覚してしまいます。

「絶望」はあくまで、自分の中の種々の原因が生み出している、主観的な状況なのですね。

絶望とは「惑いのため道が見えない」こと

仏教は常に「因果の道理」を根幹として説き明かされ、
自分の人生の「因果」を観つめることを教え勧めます。

ということは、
私はどんな「結果」を求めて行きているのか。
どんな結果を得たいのか。

そして、
そのためにはどんな「因」があるか。
どんな打つ手があるか。
どんな「道」があるか。

これを見つめ、着実にその道を歩むことです。

こんな風に言葉にすれば、当たり前すぎる、シンプルすぎる話なのですが、
実際はこれが驚くほどできないのですね。

なぜなら人間は、現場に立たされると「惑う」からです。
「因果」を見つめる心を失った「惑い」の状態に立たされがちだからです。

「これ、困ったな…どうしたらいいんだろう。」
「この状況は、嫌だなあ、何とかならないかな…」
「まさか、こんなことになってしまうなんて…どうしよう…」

やっかいな状況に立たされてこういう思考が始まってしまうと、
いつしか、もともと自分はどんな結果を求めていたのか、ということが心から抜け落ちてしまいます。
ただ目の前の「困った状況」ばかりに、心を奪われてしまいます。
確かに無視できないやっかいな状況というのは、あります。
だけど私達が求めているのは、ただそれを取り除くということではないはずです。
「その先」に、自分が心から望んでいる「結果」があるはずです。

「あの人が思い通りにならない…」
「この上司が、話が通じない…」
「社会の情勢が変わってきた…」
などなど、いろんな複雑な目の前の状況に心を奪われて、
自分が本来行きたかったところ、たどり着きたかった「結果」が何だったのかを、忘れてしまいがちです。

「目的地」がぼやけては、「道」も何もあったものではありません。
「行きたいところへの道」が薄れた先にあるのは、やはり「絶望」です。

にっちもさっちもいかない複雑な状況に苛まれた時こそ、
私はどんな「結果」を求めていたのだろう?
そして
その「結果」への、どんな「道」を描けるのだろう?
この「因果」をみることがとても大切です。
ただ、「目の前の困った状況」ばかりを見ていた時には思いもよらなかった突破口が開けてくるかもしれません。

それと同時に、「因果」をみつめて「道」を描けることのできる最低限のコンディションを確保することが
地味なようでいて、とても大切ですね。

コンディションの悪化で「因果」をみるための最低限のエネルギーさえも枯渇したならば、
ただ「絶望」が広がるのみですから。
「因果」を観て「道」を描けるための最低限の体力面・気力面でのコンディションを保つ。
その上で、
自分が心から求める「結果」を見つめる。
そして、そこに至る「道」を描く。

惑いに陥り、「絶望」が見えた時こそ、この基本に立ち返るべきなのですね。