“大事な場面で力を発揮できない”を克服するには〜ブレない“強さ”の根源〜

目指せ“平常運転”

「大事な場面で力が出せない」

「ここぞという時に緊張して、ちゃんと会話出来ないし、何をしたらいいか分からない」

こういう悩みは大なり小なり、誰にだってあるのではないかと思います。

この悩みは掘り下げれば掘り下げるほどに根が深く、実にあらゆる悩みがここに集約されるといっても過言ではないと思います。

逆に言えば、

「どんな場面でも、しっかりと自分の持つ力を出すことが出来る」

これを可能とすること一つで、人生のあらゆる問題は解決できると言えるのかもしれません。

別に、自分の持つ力以上のことをしなきゃいけないと考える必要はないわけです。

自分に「出来る」ってイメージの沸かないことをやろうとしてしまうと、たちまちチグハグな行動に陥ってしまいます。

好きな人と一緒に会話をしていると、

「何か気の利いたことを言わなきゃ」

「格好いいと思われることをしなきゃ」

そんな、普段から普通にしていないことを、しようしようとしてしまって、

結局その「気の利いた言葉」なんて何一つ思いつかないし、「格好いい行動」なんて夢のまた夢のようなことになってしまう。

こういうことはよくありますよね。

「出来る」ってイメージの沸かないことをしようとした途端に、フリーズしたパソコンみたいに、言葉も行動も滞ってしまいます。

“平常運転”でいいのですね。

普段から言えていることを言えれば、出来ていることを出来れば、そこからいくらでも“可能性”は開けて行きます。

“平常運転”をするから、そこから“加速”が生まれます。

基礎プレーができるから、そこからファインプレーも生まれます。

大事な面接の場面でも、大事な取引先との交渉でも、好きな人との会話でも、平常運転で動けていれば、十分オッケーです。

普段のルーティンをこなす時のような、家族と何気ない会話をする時のような、宿題の練習問題を解く時のような

そんな思考と発言と行動が出来ていれば、それがベストだって思うくらいで良いのですね。

それが出来ていれば、どこかで“加速”が起きます。

碁打ちや将棋打ちが“絶妙の一手”を対局の中で見出すように、“ここぞの絶妙の行動”や“ここぞの相手の心を掴む発言”が自ずと発見できます。

それは、平常運転で行動している中でのみ見出せる一手なのですね。

だけど、最初から“絶妙の一手”を狙うと、普通の一手すら打てません。

最初から“心を掴む一言”を言おうとしても、大抵思いつかないか、空振ってしまうかのどちらかです。

普段通りの行動を、普段通りにしているって状況から、流れるように出てくるのが絶妙の一言・絶妙の行動だということです。

いつでも“平常運転”出来る人に見えているもの

「目指すところはまず、大事な場面でも平常運転できること」

ここに焦点を絞ることが、まず第一でしょう。

間違っても、「大事な場面でファインプレーをすること」を目指さないことです。

さてここまでお話しすると、

「いやいや、その“平常運転”が難しいんだよ…」

という思いが出てくるのではないかと思います。

まさしくその通りです。

「それが難しい」

からこそ、人生がうまくいかないのだし、ましてファインプレーなど中々望めないわけです。

もし誰もが大事な場面で普段通りの行動を簡単に出来るのなら、おそらく“人生の成功者”は続出することと思います。

「いつだって、その場面、場面に応じて“自分に出来る事”をちゃんと見つけ出して、それを着実に行う」

これが出来るということが、どれほど凄いことか。

大事な取引の場面でも、自然な表情で挨拶が出来て、相手の話していることもちゃんと理解出来て、何か疑問が湧いたらちゃんと質問して、問題点があればその解決策を考える。

そんな“当たり前”の事が、重要な場面で出来ることが、凄いことなのですね。

好きでたまらない人の前で、相手のことをちゃんと見ていて、何か気になる変化や行動にちゃんと気付けて、普通にコメントできる。

一緒に過ごしながら目に入ってきたものや聞こえてきたことや感じたことを、普通に話題にできる。

そんな“普通の事”が、とても気になる人の前で出来ることが、凄いことじゃないですか。

こう考えていくと、

「その場、その場に応じた発言や行動をする」

という極めて自然なことを、いついかなる時でも貫き続けられることが、最強の世渡り術といってもいいのかもしれません。

求めるべきは

「いい契約を取る」でも「勝負に勝つ」でも「好印象を与える」でもなく、

「場面に応じた“行い”をすること」です。

この「行い」のことを仏教では「業(ごう)」とか「業因(ごういん)」とか、単に「因」とも言われます。

そして「行い」には必ず何かとの「関わり」が伴っています。

会社での仕事、家での家事、店での買い物、顧客との交渉、部下への教育、友達との食事…

これらの「会社」や「家」や「店」や「顧客」や「部下」や「友達」などの、行動に伴う「関わり」のことを仏教では「縁」と言います。

「因縁」なんて言葉がありますが、「因」と言われる「行い」と「縁」と言われる「関わり」とが合わさった「因縁」を積み重ねて、私たち一人一人の人生は構成されています。

人生のどんな場面も、この「因縁」の積み重ね以外の何者でもありません。

このことは、大事な場面もつまらない場面も関係なく、仕事もプライベートも関係なく、ルーティンも勝負どころも関係なく、人生のいかなる場面においても変わりません。

「生きる」ということは「因縁の積み重ね」です。

そしてその「因縁」がそのまま、未来の運命という「結果」を生み出して行きます。

これが、仏教が教える「因果の道理」です。

結果を生み出さない「因縁」などはありません。

蒔かれたどんな“種”も、適切な“環境”にあれば必ず“芽”を出すように、

「因縁」とは、確実に人生の「結果」を生み出す原因に違いありません。

その「因果の道理」は、毎日のルーティンでも特別なイベントでも会社でもプライベートでも、

あらゆる場面で変わらず成り立っている「道理」なのですね。

どんな場面にもその本質には「因果の道理」が横たわっています。

「ただ、種を蒔く」

このシンプルな本質が、人生のあらゆる場面においても平等にあります。

私たちは、「これはルーティンだから」「これは本番じゃないから」「この人との付き合いはそんなに重要じゃないから」などと、手を抜く場面と本気で取り組む場面とを差別しています。

だけど本当は、どんな場面にも「因果の道理」が平等に貫かれていて、その「道理」で全ての場面は繋がっているのですね。

「未来の結果を生み出す“種”を蒔いている」という事実は、どんな場面でも全く同じです。

その本質を見つめる視点を持っていることは、どんな特別な場面でも「為すべき行動」を堅実に貫ける土台となることでしょう。

「道理に則って生きる」と心に決めた時…

「ここ一番という大事な場面で“平常運転”が出来る」

こうなるために大切なことが、「ここ一番」であろうと「ただの日常」であろうと、平等に貫かれている「因果の道理」を観ることだと述べてきました。

因縁という本質に目を向けて、「因縁を積み重ねる」という本質に則った生き方をすることが、

「いつだって、その場面、場面に応じて“自分に出来る事”をちゃんと見つけ出して、それを着実に行う」

という最強の世渡り術を自分のものとする鍵なのですね。

だから、ルーティンや日常を決して侮ってはならないわけです。

こういう場面で「ルーティンだから」と言って手を抜いている人は、

逆に「ここ一番」という場面になると、「ファインプレーしなきゃ」と思って空回る人でもあるでしょう。

それは、「因果の道理」という本質を見ないで、移り変わる状況に振り回されているのですね。

だから場面によって、気持ちがブレて “平常運転”が出来ません。

逆に、人が手を抜くような場面にこそ、

「為すべきことは何か」「より良い仕事は出来ないか」「より良い行動を…」

という、善き「因縁」を求める姿勢を持ち続けるなら、

それは「いかなる場面でも因果の道理に則って、場面に応じた行動をちゃんとする」事を実践しているに他なりません。

それは「道理」に則った実践である故に、逆に「ここ一番」の時でも、「場面に応じた行動をちゃんとする」ことに繋がっているのです。

日常やルーティンでこそ、「因縁を観る視点」は育むことができます。

そこで育んだ視点が、ここ一番という場面でも、「因縁を観て行動する」ための土台となります。

それがあれば、重要な取引の場面でも、好きでたまらない人の前でも、大丈夫です。

ちゃんとそこには、求めるべき「因縁」があります。

普段から心がけているように、相手をよく見て、場面をよく見て、その場面に応じた行動や発言を、“普通”にすれば良いのです。

普段から「より良い因縁を追求する」という習慣が育まれていれば、必ずその“平常運転”は、“加速”へと変わって行きます。

そこから自ずと“絶妙の行動”や“絶妙の一言”も生まれてきます。

結果的には、安定したベストパフォオーマンスが発揮できるのですね。

それは、まぐれでもラッキーでもありません。

これからも、いかなる場面でも、何度でも何度でも、最高のパフォーマンスは発揮されます。

だからこそ、そのベストパフォーマンスを支える「因縁を観る視点」は、最高の宝となるのですね。

その最高の宝を育むチャンスは、いつでも日常の中にあるのです。