他人を大切にし感謝できる視点を育むために

出来ても出来なくてもモヤモヤする“自分”

「頑張るほどにモヤモヤは増してゆき、頑張るほどに理不尽さに苛まれる。」

こういう世の中は本当にどうなのか…と思うわけですが、決してこういうことが珍しくないのですね。

仕事でも何かの活動でも、基本的に人が集まって、それぞれが自分の役割に従事しています。

その役割を、人並み以上にこなせる人と、そうでない人がいて、

その“差”はとても複雑なモヤモヤやストレスを生み出してしまいます。

そして、人並み以上にこなせていても、そうでなくても、いずれにしても

「自分って何なんだろう…」

という根深い悩みに苛まれてしまいます。

他人より仕事が出来ない、役割を十分にこなせない…

そんな日々が続くと、仕事をすればするだけ、

「出来ない自分」

という思いが増大し、深まってゆく一方となります。

周りに申し訳なくなったり、さらに深刻になると「自分」という存在に価値を感じられなくなったり…

周囲がそれを責めればもちろん、さらにその思いは深まってゆくのですが、

周囲が「大丈夫だよ。」「一つ一つ、向上していけばいいから。」と慰めてくれても、

そんなことを周囲に言わせている「自分」がさらに情けなく思えたりもします。

反対に、人並み以上に出来る人は、どんどん自信をつけて生き生きしているかといえば、必ずしもそうはいきません。

出来れば出来るだけ、段々と周囲はそれを「普通の事」と認識するようになってしまうからです。

本当は、こんなに頑張って、こんなに結果を出しているのは全然「普通」じゃないのに、

日常的にそれをこなす人を日常的に見ていると、感覚が麻痺してしまうのでしょう。

頑張る本人にとっては、一つ一つの仕事が、チャレンジの連続で、苦労の連続で、

その都度その都度、大変な思いをしているわけだから、「普通」なはずがありません。

ですが「見ている人」からすれば、「いつもの光景」になってしまうのでしょう。

そのギャップに苛まれて

「こんな風に扱われる自分って何なんだろう…」

というモヤモヤが心を覆って行きます。

本当は、「普通に活躍している人」ほど、敬意を持って大切にすべきだっていう認識を持つべきですよね。

“普通の事”に見えるくらいに、絶えず、継続的に、頑張って、貢献しているのだから、それは凄まじい苦労と努力の連続です。

そういう「凄い行動の連続」という視点で見たならば、明らかな事実なのですが、

「なんか凄い人」という固定化した存在として見てしまうために、その“固定化”によって、一つ一つ凄まじい苦労が埋もれて見えなくなってしまいます。

「見えていない」大切なもの

良くも悪くも、他人を“固定化”して見てしまうことは、危ういことです。

常に一つ一つの行動が積み重ねられていて、その“行動の連続”で、“他人”という存在は成り立っています。

「なんか凄い人」も「当たり前に凄い人」なんてのも、存在しません。

ただ、「凄まじい行動」の連続があるだけなのですね。

その行動の一つ一つに、悩みがあり、ジレンマがあり、苦労があるのです。

そういう戦いや葛藤の連続で、“凄い人”と言う存在は成り立っているのです。

さらに言えば、そこに“他者との関わり”も加えられますね。

「凄まじい仕事」の連続には、その一つ一つに同僚や取引先や顧客などとの“関わり”が付随しています。

“独立した仕事”も“独立した行動”も存在しません。

様々な“関わり”があって、「凄まじい仕事」の一つ一つは成り立っています。

仏教では、「行動」のことを「因」と言い、「関わり」のことを「縁」と言います。

自分も他人も、瞬間、瞬間ごとに積み重ねられる「因縁」の連続であると言うのが、仏教における視点です。

そして、その「因縁」の他に、何か固定した「凄い人」「凄くない人」なんてものは存在しないと説きます。

人を「因縁の積み重ね」として観る。

これは、自分に対しても他人に対しても、極めて大切な視点と言えます。

この視点を忘れて、ただ「凄い人」「出来る人」「面白い人」「優しい人」と言う“固定化”の視点で人を見てしまうと、

「そういう人なんだから…」と言う歪んだ見方でもって他人と接してしまいます。

そうではなくて、

「努力と苦労に満ちた行動を今この瞬間も積み重ねてくれている…」

「楽しませようと一生懸命考えてくれて、一言一言を投げかけてくれている…」

「他人の立場に立って、救いになるような言動を今まさに努めてくれている…」

このように、目の前に展開している「因縁」を、ちゃんと見るべきなのですね。

これが出来ず、“固定化”した目で、「こういう人」と見てしまい、一つ一つの「因縁」をスルーしているから、感謝すべき相手に感謝できず、敬意を持つべき相手に敬意を持てません。

これはもちろん、「出来ない人」「嫌な人」「つまらない人」と言う“固定化”も同様です。

「うまくいかない行動が積み重なっている状態」

「不快な言動が続いている状態」

「刺激的な言動が見当たらない状態」

という現実が今のところ展開しているだけであって

「出来ない人」「嫌な人」「つまらない人」なんていう“固定化”された人など存在しません。

今のところの「因縁」がそのように見えているだけであって、これからの因縁次第でどう変化してもおかしくありません。

それどころか、今の「因縁」の中にも、どう展開してもおかしくない可能性は満載のはずです。

個人的には「ツッコミどころ」というのは、“可能性”の典型でないかと思っています。

本当は、どんな人の言動にも、ユニークさやアイデア性などの思わぬ展開を呼び込む可能性が必ずどこかにあるはずで、

ただその“可能性”を周囲がスルーしてしまっているわけですね。

見る人が見れば、「面白いやん、それ」と気づけるような「ツッコミどころ」があって、

そこをスルーせずにツッコんであげると、その可能性が爆発するわけです。

漫画やドラマなどでよくある、それまで周囲から「つまらない人」と思われているキャラクターが、

ある奇抜な人物と出会い、その人から「面白えな、お前」なんて言われて、その可能性が開花してゆくというのがまさにそれでしょう。

そんな可能性を秘めた因縁も、「出来ない人」「嫌な人」「つまらない人」なんて“固定化”した視点で見てしまうと、みんな埋もれてしまいます。

「因縁の積み重ねとして観る」という視点を持つことで、その可能性に気づける人となるでしょう。

周囲が世の中がどうであれ…

 “固定化”から離れて“因縁をみる”という視点に立つ。

これは、感謝すべき人に感謝し、大事にすべき人を大事にするという本来あるべき態度を失わず、

また、他人の伸ばせる可能性をピンポイントで伸ばしてゆく、

他人に対する接し方の“基礎”とすべき視点と言えるでしょう。

同時にまた、“自分”に対してもこの視点でもって捉えることがとても大切です。

「因縁の積み重ねとして観る」という視点を周囲が持ってくれれば良いのですが、

そうでなくても、せめて自分だけでも、自分を「因縁の積み重ね」として観ることが出来れば、

いろんなモヤモヤから解放されることでしょう。

優れた仕事が出来ても出来なくても、

「“自分”って何なんだろう…?」

と、苛まれる。

この“自分”というのがまさに、“固定化”された自分なのですね。

私たちは他人のことを「出来る人」「出来ない人」「凄い人」「平凡な人」などと“固定化”してしまいがちなのですが、

実はそれ以上に自分自身のことを“固定化”してしまいがちです。

ミスが続いたり、迷惑をかけたり、他人を不快にさせてしまったり…

そのような因縁が続くと、その「因縁」を束ねて固定化して、「ダメな自分」という虚構の自我を造ってしまいます。

そんな「自分」は、責められて当然、大事にされる値なんてない…

そんな思いに縛られて苛まれてしまいます。

反対に、優れた仕事をこなして、人並みはずれた働きをし続けている…

そんな因縁が続くと、またその「因縁」を束ねて固定化して、「こんな自分」という自我を造ってしまいます。

そんな「自分」がどうしてこんな扱いに…、そんな思いにまた縛られて苛まれてしまいます。

思わしくない因縁が続いているのであれば、

まだまだ改善の余地があるということであって、

またその可能性が多分にあるということであって、

何もそれを“固定化”して責める対象にする必要はありません。

淡々と、どの因縁をどう改善すれば良いかを追求すれば、必ず状況は好転して行きます。

優れた因縁が続いているのであれば、その因縁は、必ず未来にさらに素晴らしい結果を結ぶに違いありません。

その「因果」だけを観ていれば、未来に希望を持って、自信を持って、突き進むことができるでしょう。

その因縁を“固定化”して、「こんな自分」という自我を造ってしまうと、それと周囲の“普通視”とのギャップに苛まれなければなりません。

“固定化されたもの”は、どうしても周囲と自己とでギャップを生じてしまうものですから。

誰がどう思おうが、立派な因縁を積み重ねていることは誰も否定できない道理であって、自分が心から望む未来に間違いなく一歩一歩近づいています。

そんな「因縁」をちゃんと観てくれている人の言葉にだけ、耳を傾ければいいのですね。

ベストな因縁を積み重ねることに一点集中して、道理にかなった道を突き進んでゆけば、

その道を歩む姿は、やがて間違いなく周囲を感化してゆくことでしょう。

「因縁の積み重ね」という視点で観ることが、

本当の意味で自分も他人も大切にする基礎となるのですね。