「願えば叶う」を阻む「迷信」とは〜「固定」と「因縁」〜

願えば叶うのか?願っても叶わないのか?

「どんな事でも、それを強く願い続けていれば必ず叶う」
こういう言葉がいろんな所で言われていますね。

「願えば、叶う」
「If you can dream it, you can do it.」

これは一つの「名言」となっています。
この言葉を前にして受ける印象は、実に様々だと思います。

「とても励みになる言葉」
と素直に受け取れる人もいると思いますし、

「ただの気休めにしか思えない」
「綺麗事にしか思えない」
と否定的になる人もいるでしょうし、

「何らかの真理を言っているのだろうけど、きっとこういう事だろう…」
と、この言葉の意図をさらに分析しようとする人もいるでしょう。

まあ私もいわゆる「分析派」なのですけど、けっこうそういう人、多いと思います。
そのまま真受けにするのもなんだか薄っぺらい気がするし、
完全に否定するのも違うような気がするし、
この言葉をどう理解して、自分の人生に活かすのかを考えるのが、やはり現実的ですよね。
実際この「願えば叶う」というキーワードを入れてネットで検索したら、
ズラーっと、この言葉についての見解を述べた記事のページが出てきました。

そこで、私もこの言葉を仏教思想に基づいて分析したいと思っているわけですが…
まず誰もが分かることだと思いますが、
「○○になれたらいいな。△△が手に入ったらいいな。」とただ願っていれば、いつかその願いが叶う。
なんてことは、ありませんよね。
そんな「願う」なら、誰でもやっている事です。
誰だって、お金を一杯欲しいですし、人から好かれたいし大切にされたいですし、
日頃から
「ああなったら…こうなったら…」
なんて願っている事は山ほどあります。

だけどそんな願い通りにならないケースの方が多いと思います。
「人生、思い通りにならないもの」
そんな諦めの雰囲気さえ、漂っています。

「願えば叶う」の言葉に反して、現実は、「願っていながら、全然叶わない」ケースが山ほどある。
どうしてこんな、残念なことになってしまうのでしょうか。

「願う心」と「阻む心」

「億万長者になれたらいいな…」
「モデルのような彼女が、出来たらいいな…」
「多くの人から感謝されて尊敬される人生を歩みたいな…」
そんな願いを抱いていてはいても、
それと同時に心の底で、
「ま、無理だろうけどね」
という囁きがある。
実はこんな場合が非常に多いのですね。

それは、自分でも察知できないくらいの小さな囁きかもしれません。
表面上の「○○たらいいな…」の願いの底に隠れて気づかないかもしれません。
だけどその「本音」として、
「どうせ無理だろうな…」
という思いがある場合が少なくありません。

そんな人の「思い」は、
「なりたいけど、なれないだろうなあ」
であり
「欲しいけど、手に入らないだろうなあ」
なのですね。
そして現実、その通りになってしまっている。
そういう意味で、「思い」が叶ってしまっています。

逆に、ものすごく「成功者気質」な人もいます。
根拠はないけれど、自分は上手く行くような気がする。
自分が願っている事は、間違いなく叶うと確信している。
自分の中で、その願いが叶っている姿がものすごくリアルに、触れさそうなぐらい具体的にイメージ出来ている。
まるで「予言」するかのように、
「私は、○○になる」
「具体的に、収入はこれくらいで、こんなパートナーがいて、こんな住宅に住んでいて、こんな仲間達がいて…」
そんな事をハッキリと宣言できる。
そんな風に「願う」事のできる人は、きっと実現するんだろうなと思いますよね。

どうしてそれだけ「確信」できるのでしょうか?
それは、その人の経験もあるでしょうし、もしかしたら天性のものもあるかもしれません。
そういう人たちにとっては逆に、
「どうして自分には無理だなんて思うんだろう?」
と、多くの凡人たちの平凡な「思い」の方が理解できないのかもしれません。

そういうのはけっこう、子供の頃の、ちょっとした「転機」の差だったりするのですね。
自分の発言が多くの人に受け入れられた、とか。
テストでいい点を連続して取れた、とか。
尊敬する先生からとても褒められた、とか。
何かをきっかけに、「自分は出来る」という思いを抱き始めた。
そんな思いで次々と行動を起こして、実現させていった。
そんな積み重ねをしていくうちに、自分の中に、「成功」のイメージを強く抱くことが出来るようになっていった。

一方で、
友達から否定されたり、認めてもらえなかったりして、
「自分は上手くいく」
というイメージが持てないまま、パッとしない平凡な日常ばかりが続いて、
ところが周囲にはちらほら、「キラキラした」現実を生きているように見える人たちがいる。
よけいに卑屈になって、
「自分は、あんな風にはなれない側の人間なのだろうな」
の思いを強める一方で、これまで人生を送ってきた。
その積み重ねで、「自分に大きな成功なんてありえない」というイメージを固めてしまった。

こんな具合に、これまでの「思い」の積み重ねの力が、自分の人生の設計図を固めてしまっている場合が少なくないのですね。

「人生の固定イメージ」を打ち破る「道理」

何かしらの転機で、抱き始めた「思い」
その「思い」が、さらなる「思い」を生み出して、その積み重ねで、
「自分の人生」に対する強い「イメージ」を自分で創り出してしまう。

「自分はモテないんだ」
「自分はパッとしないんだ」
「自分はきっと貧乏暮らしからは抜け出せないんだ」
又は
「自分は他人とは違う、大きな結果を残す人間なんだ」
「自分は周囲の人に受け入れられる人間なんだ」
などなど…

善くも悪くも、そんな風に自分に対する「固定したイメージ」を造ってしまいがちです。
そして、自分はそんな人生を送るんだと、根拠もなく信じてしまっているのですね。

どうしてそんなことを信じるようになったのだろうか?
と振り返ってみれば、もしかしたら思い当たる出来事があるのかもしれませんし、
「いつの間にか思うようになっていた」という人もあるかもしれません。

どこかの時点でそういうことを「思い」始めたのでしょう。
その「思い」の方向性の違いで、全く違う「自分に対するイメージ」を固めてしまい、
それが、それぞれの人生の「設計図」のようになってしまっている。

そしてもし、「自分の人生はうまくいかない」という固定したイメージを抱いてしまっているなら、
それはある意味、根拠のない迷信を持っているようなものです。
「上手く行かないことに固定した人生」なんて、あり得ません。
自分の現実も運命も、そんな「固定」したものではないと、仏教では教えられます。

仏教という教えは、いわば私達が何かのきっかけで抱いてしまった「自分の運命」に対する固定観念をうち破るものと言えます。
固定した、定まった運命など無い。
一人一人の運命は、一人一人の「因縁」によって生み出されてゆくものだ。
その運命の「因縁」を明らかにしているのが仏教なのですね。

私の「行動」という「因」と、
私を取り巻く「環境」という「縁」と、
その「因」と「縁」が合わさって、私の運命は造られてゆく。

だから、
「因(行動)」が変われば当然、運命は変わりますし、
「縁(環境)」を変えることでも、自分の運命は変わります。
私達が求める「因」と「縁」次第で、「運命」はどれだけでも変わってゆく。
決して「運命」は固定したものではない。
これが仏教の運命観です。

私達が望む「現実」には、必ずそれを実現させる「因」と「縁」とがあります。
どんな「因」と「縁」とを積み重ねれば、私が本当に望む現実は叶うのか。
それを見つけさえすれば、願いが叶う「道」は必ず開かれます。
この道理を確信して、その現実を強く願うならば、必ずその突破口となる「因」と「縁」とを見つける事が出来、
その因縁を積み重ねて「願いが叶った」という事があるのですね。

ところが、「固定した自分の運命」なるものを信じていては、
願いを叶える「因」や「縁」を見つける可能性までも閉ざされてしまいます。
結果的に、「固定した運命」を作る因縁ばかりを選び続けてしまうハメになるのですね。

まずはその固定観念を打ち破る事が、「願えば叶う」を実現させる第一歩です。
そしてその鍵となるのが、私達の運命の因縁を教えた道理を理解する事です。
古くから伝わる「因縁」という言葉には、自分の現実を望む方向へ動かす価値が潜んでいるのですね。