「未来なんて変えようがない」の惑いを打ち砕くために〜因縁をつける〜

「因縁がつく」ものって、たいてい…

「因縁」という言葉を聞くと

「なんだか悪い意味で使われているような気がしますね」
という印象を受けるようです。

「チンピラに因縁をつけられた」
「因縁の対決」
「何の因縁があって、こんなことに…」

だいたいこんな場面で出てくる言葉ですよね。
確かに、あんまりハッピーなことに「因縁」という言葉をつけることはなさそうですね。
なんとなく「災い」と関連している言葉のようなニュアンスがあるかもしれません。

だけど「因」という言葉にも「縁」という言葉にも、
悪いニュアンスも、「災い」という含みもないのですね。
「因縁」とは仏教の言葉で、
ある「結果」が起きたときに、その結果はどのようにして起きているのかを解明した言葉です。

あらゆる「結果」は、「因」と「縁」とが結びついて引き起こっている。

これを「因縁生」と言われます。
その結果は「善い結果」の場合も「悪い結果」の場合も、両方含みます。
ハッピーな結果であろうと、悲惨な結果であろうと、どうでもいい結果であろうと、
いずれの結果も全て「因」と「縁」が結びついて起きたものだと言えるのですね。

どうして、「災い」のような結果にばかり「因縁」という言葉がつけられるのでしょうね。
色々と理由は考えられそうですが…
一つ言えそうなのは、私達が「理由」を考えずにいられないのは、どちらかというと「悪い結果」にぶつかったときですね。

幸せな結果に身を置いている時は、ただそれに浸るばかりで、「どうしてこんな結果が?」という思考は動きにくいでしょう。
口では
「どうして…?いいのかな、私、こんなに幸せで…」
なんて言葉を発したとしても、
本当に、真剣にその原因を掘り下げて考えるようなことにはなっていないはずです。

ですが、「悪い結果」の時は、別ですね。
「なんで、こんなことに…?」
「どうして、私がこんな目に…?」
この「問い」は切実で、その答えを求めてやまない気持ちで一杯なのですね。

「一体、どんな因縁があって…?」

この思考自体が、たいてい「辛い」「苦しい」結果に対してなされるものだと言えます。

「行動を慎む理由」の本音と建前

これは私達の思考パターンなのですが、
仏教は、私達がどんなパターンの思考をしようとも関係なく、ただ「道理」を説くものです。
「道理」というのは、どんな場合でも変わらない「真理」のことなので、
ハッピーであろうと、災いであろうと、どんな結果であろうと、あらゆる結果には必ず「因縁」がある。
このことを仏教は「道理」として説いています。

そして、私達一人一人の身に起きる「災い」や「幸せ」の「因」と「縁」とはどういうものかを、詳しく解明されています。
では、「因」とは、「縁」とは、それぞれどんなものなのでしょうか。

まず「因」というのは、私の「行い」です。

あなたは、自分の「行い」に対しては厳しく見ている方だと思いますか?
「自分の行動には責任を持たなければならない」
と言われるように、「行動」を律するという感覚は大なり小なり誰しも持っていると思います。

「行動を慎む」
「行動を律する」
という感覚は、大人になればなるほど抱くものだと思いますが…

どうして、「行動」を律することが大切なのでしょうか?
どうして好き放題、行動してはいけないのでしょうか?

いや、そんな今更な質問を…
と思うかもしれませんが、あなたなら、どう答えるでしょうか。

そりゃあ、社会に迷惑をかけてはいけないから。

と、答えるでしょうか。

「自分だけの問題で済むならいいけれど、社会に影響を及ぼしてしまうのは慎まないといけない」
こういう意見は多いと思います。
もちろんこれは、全くその通りなのですが、それ「だけ」ではないはずなのですね。

ただ「迷惑」をかけてしまう、ということだけではなくて、
その「社会に迷惑をかけた」ことで「自分に」その報いが必ず及ぶから、なのですね。

だって、他人事だったらそこまで「迷惑」という事実を恐れてはいないはずです。

どこかの企業が不祥事を起こしたり、どこかの政治家が汚職をして、
社会に多大な損害を及ぼしていることが、しばしばテレビで報道されます。
それを見て、「あーあ」という感じで見ていますよね。
だけど、その損害が自分に直接的に及ばない限りは、それはどこか「他人事」です。
何億円、何兆円にも上る損害であろうと、ただ「あーあ」という残念な思いをする程度なものですよね。
もうちょっと、本気で怒っても良さそうなものかもしれませんが…

では、こんな場合はどうでしょうか。
自分の勤め先の会社で、自分のちょっとした不注意のために、パソコンがウィルスに感染してしまった。
社内のパソコンのほとんどが使用不可となり、会社全体の仕事が停滞してしまった。
社員何百人の作業に、私のミス一つで、多大な影響を及ぼしてしまった…

もしそんな状況に自分が置かれたらと想像したら、どうでしょう?
もう「悪夢」そのものですよね。
針のむしろとはこのことで、想像しただけでも嫌な気分になります。

テレビで報道されているような、何億円、何兆円もの損害を引き起こす「迷惑」と比べたら、
1日、1つの会社の業務が停滞したなんて、些細なものかもしれません。
だけどそれを「私がやってしまった」となれば、その深刻さは計り知れません。

だけどそのウィルス感染の原因は、実は私の不注意ではなくて、隣の同僚の不注意だった。
こういうことになったらどうでしょう?
途端に、「なんだ、そうだったのか」と、気が楽になりますよね。

別に、損害自体は、何も変わらないわけですよ。
だけど、「私の責任ではない」となった途端に気が楽になり、「ああよかった」とさえ思うはずなのです。

私達は「社会に発生する損害」を恐れているのではなく、
「その損害が私の責任になる」ことを恐れているのですね。
「真に恐れているのは、私に返ってくる報い。」
これが正直な私達の気持ちなのですね。

私達が行動を律する理由は、「私にその報いが返ってくるから」に他なりません。

私の「行動」は、私の身に「報い」として結果を引き起こす「因」である。
これが仏教で教える「因」ということです。
この「報い」から逃れることは、できません。
「行動」という「因」は、必ず「報い」を引き起こす。
これはどうにも曲げられない「道理」であり「真理」であるから、私のやった「行い」は、必ずやがて私に報いる覚悟は持っていなければなりません。

未来の結果はもう変えられないのだろうか

このように、
「私の行為は必ず、私の報いとなって現れる。」
この「因」「結果」だけを見ていると、

「じゃあ、すでに過去に色々な「因」を造ってしまっている以上、
それが必然的に「結果」を生み出してゆくことになるから、
もう、私の未来の「結果」は決まってしまっているようなものではないか?

こんな風にも思える人もいるかもしれません。
「行い」という「因」には、未来の運命を引き起こす「力」がある。
ならば、過去に繰り返してきた「行為」という「因」の力の前には、
もう私の意志でこれからの未来をどうこうできるものでは、ないのでは…
過去の「因」の重さを思えば思うほど、自分の未来を変えてゆくことに絶望を覚えるのも無理はありません。

ところが、あくまで「結果」は、「因縁」によって引き起こされるのですね。
「因」だけでは、結果は起きない。
その「因」に、「縁」が加わって初めて「結果」となる。

これが「因縁生」という道理です。

そして私達は、その「縁」を選ぶことができます。
特に現代は、その選択肢は非常に開かれています。

携帯電話の連絡先一覧から、誰と連絡を取るのか
SNSで表示される人たちの中、誰と繋がるのか
ネット上に出てくる無数のページのうち、どのページを開くのか
Amazonで売られているどの商品を購入するか
YouTubeのどの動画を閲覧するか

やっぱり、インターネットによって「縁」を選ぶ可能性は極めて拡大していますよね。
このブログを読んでくださっているのもその一つです。

この「縁」の要素が加わると、その選択次第で運命はどれだけでも変わる余地が出てくるのです。

もちろん、これから造ってゆく「因」もまた、「縁」次第でどれだけでも変わって来ます。
誰と関わっているのか、
どんな場所にいるのか、
どんな環境に身を置くか、
それによって、「因」となる「行動」は大きく変わるのは明らかです。

それだけ、「縁」の影響もまた非常に強いものなのですね。
結果を引き起こすための重要性という点で、
「因」も「縁」も、どちらも重要と言えます。
優劣がつくものでは、ありません。
同じくらい重要なものです。

「過去に造った「因」で、もう私の未来は決まっているようなもの」

なんてことは、言えません。
あなたがこれからどんな「縁」にあうかで、
これまでの過去に造った「因」がどんなものであれ、あなたの未来は変わってゆきます。

決して、「未来はもう決まっている」なんて、言えないと説くのが仏教です。
自分の意志で、
これからどんな「縁」を選ぶのか
そして
どんな「因」を造ってゆくのかを
どれだけでも決めてゆけるし、未来はどれだけでも変わります。

とかく、思い通りにいかないことだらけなのが人生ですよね。
悪戦苦闘の連続という面が、確かにあります。
その苦戦のあまりに、どこかで、
「この運命の前には、自分の意志ではどうにもならないのでは…」
という気持ちが出てきてしまうのですね。
そんな気持ちに支配されては、事態を好転させる以前の問題ということになってしまいます。

そんな状態で、どんな方法論をどんなビジネス書やハイツー本から取り入れても、活かせるはずがありません。
まずすべき事は、
自分の未来の運命は、自分の意志でどれだけでも変えてゆけるということを確信することです。
そのために大切なことが、
「運命は、因縁生である。」
「因と縁によって、自分の運命は必ず変わる。」
この道理を理解することです。

因縁生の道理の理解という土台から、自分の選ぶべき「因」と「縁」を模索してゆく。
この「土台」づくりは、決しておろそかにできない大切なことなのですね。