「良かれ」と思った行動に歪みが生じていないだろうか〜縁起する世界〜

「この人のため」の思いが歪んだものだったら…

大切に思っている人のために「良かれ」と思って為すこと、言うこと、そして思うこと。
そんな行動の積み重ねが、本当に望ましい結果に向かっているのだろうか。
もしかしたら、何もかもが間違っていて、その人も自分も苦しまなきゃいけない方向に向かっていたりはしないだろうか。

「良かれ」の行動に、歪みが生じてはいないだろうか。
相手を思う気持ちが強ければ強いほど、そういう不安にかられることがあるかもしれません。

相手のことを「大切だ」と思う心が強いほどに、
その思いが皮肉なことに、目をくらませてしまって、
見落としちゃいけない様々なことを、見えなくさせてしまうものですから、
その不安はあながち「考えすぎ」とも言えないものでしょう。

世界は「私」と「大切な人」だけで構成されているものではないのであって、
周囲の人、未来に出会う人、様々な環境、様々な状況の変化…
それらの「因縁」の中に「私」や「大切な人」が、いま現れているわけです。

決して、「私」と「大切な人」が独立して存在しているわけではありません。
だからこそ、周りが見えなくなるのは、とても危ういことなのですね。

B’zのヒット曲で「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」という歌がありまして、
私の青春時代にヒットした曲で、当時もよく聴いていて思い出深い曲です。
すごい長いタイトルですけど、その「愛のままに、わがままに、僕は君だけを傷つけない」がそのまま、
サビの歌詞になっています。
きっと、この言葉を見ただけでメロディーが脳内再生されている人が多いんじゃないかって思うくらいに、
この歌詞は多くの記憶に残っていることでしょう。

個人的には、今もこの歌詞はとても好きです。
「僕は君だけを傷つけない」って、
本当にこの歌詞の通りに行動してしまったら、破滅の未来しかありえないのは分かるのですけど、
「正直な人間の思いは、こうだよな。」
「いっぺんくらい、こんな思いの通りに生きてみたいものだな。」
「誰かから、こんな風に思われてみたいな。」
というロマンを感じる歌なんですね。

「わがまま」というのは、この歌詞の通り、
「私」と「私の大切な人やもの」しか見えていない状態と言えるでしょう。
それがまた「愛情」の本性なのかもしれないというわけですね。

それは、極めて多くの「因縁」によって成り立っている自分の人生に対して、
「私」と「この人」というあまりに限定的な視野でしか臨めていない、危険極まる状況であって、
お互いの未来のための「最善手」とは程遠い手を打ち続けて、
「今だけの快楽」を味わうのみで、その先は完全な「闇」という状況に陥ってしまうわけですね。

映画やドラマなら、そんな展開がまた「美しい悲劇」として、とても惹きつけられるのですけど、
現実の人生で、本当に真っ暗な未来に突っ込んでしまっては、目も当てられません。

とはいっても、特定の人を「大切だ」と思う気持ちは、人間である以上は誰だって抱くもので、
その心を否定してもどうしようもありません。
だけど、その心のままに盲目的に行動すれば、「大切な人」ともども、共倒れになってしまう…
ここに、「大切な人ほど守れない」という皮肉な現実があるわけですね。

行動の指針は「縁起」の道理

「私は、この人が好き」
「私は、この人が大切」
そんな、人として抱いている「強い思い」は、否定するものではありません。
それは私達が生きるための強いエネルギー源でもありますから。

だけど、「行動の指針」はまた別です。

こういう「人間の感情まかせ」とはまた違った、
「道理に基づく行動の指針」を自分の中に確立させることが、何より大切なことなのですね。

仏教はそういう、「行動の指針」を築かせる「道理」を説くものです。
内心に抱く強い思いを本当の意味で満たしたいならば、
決して見落としてはいけない「道理」があることを指摘するのが、仏教なのですね。

仏教は、2600年ほど昔にインドで説かれた教えですが、
当時のインドでは、様々な思想が盛んに説かれていました。
古代ギリシャに、ソクラテスやプラトンやアリストテレスなどの有名な思想家が現れていたように、
当時のインドにもまた、古代ギリシャの哲学者にも比肩するような思想家が多く現れていたようです。
その中には、唯物論者、物心二元論者、宿命論者、懐疑論者など、「世界の道理はこうだ」と論ずる人たちが色々といたわけです。
「世界も人間もただ物質のみで出来ているいるのだ」と主張したり、
「人間は肉体と魂とで出来ているのだ」と論じたり、
「人間の運命は、全てはじめから決まっている」と説いたり、
「あれも間違い、これも間違い、これも疑わしい…」すべてを疑ってみたり、
さまざまな「論者」が名を馳せている中で、釈迦という偉大な思想家が説いた教えが仏教でした。

あえて今列挙した様々な思想家と比較して言うならば、
釈迦は「縁起(えんぎ)論者」だと言われます。
「縁起(えんぎ)を説いた人が、釈迦である。」
これが一般的な評価であり、そしてまた、他のあらゆる思想と一線を画する特徴だと言えるでしょう。

「縁起」というのは、「縁(よ)って、起きる」ということであり、
「全てのものは、他のものとの関わりの中で生じているものである」
ということです。
逆にいえば、
「独立して、それだけで存在しているものは何もない」
ということです。

私達は日頃から「私は」「僕は」「俺は」と言って、
一応は独立した「自己」という存在がある前提で、物事を考えているはずです。

では、その「私」と「他」との境界線はどこにあるのでしょうか?
物質的なことだけを考えても、目、耳、鼻、口、体、内蔵…と様々な「私」のパーツがありますが、
いま、コーヒーを一口飲んだとしたら、そのコーヒーは喉を通って胃袋へと入っていきます。
その胃袋の中のコーヒーは、私でしょうか?
消化されて血液に取り込まれてからが、私でしょうか?

また体内には、おびただしい数の細菌も生息しており、生命の維持に欠かせないものたちもいるそうですね。
それらの細菌がすべて消滅したら、私は生きていけない。
ではその「細菌」も、「私」に含まれるのでしょうか?

私達は常に息を吸ったり吐いたりして命を保っています。
あなたが今、吸い込んだ酸素は、どこから来たのでしょうか。
地球の裏側のブラジルから漂ってきた酸素の一部なのかもしれません。
それを取り込んで、私の身体も生命活動も維持されています。
そうすると、ブラジルにあったものが「私」になったのでしょうか。

オーストラリア産の牛肉や、ドイツ産のウインナーや、ベルギー産のワッフルなど
世界各地にあったものが、今は「私」の一部になっているというわけです。

「私」と思っているものと「他」と思っているものとは、絶えず入り混じったり、離散したり、また入混じったり…
そんなことを繰り返して存続してゆきます。

このように、「独立して存在しているもの」など何もなく、
すべては「縁起」のものばかりである。
「関わり」の中で存在しているとしかいいようのないものが「私」であり「他者」であるということです。
「人は、一人では生きていけないのだよ」
とは、言い古された教訓なのですが、本当は「教訓」ではなく「事実」であり「真理」であり「道理」なのです。

本当の意味で「この人を大切にする」とは

「私は、あなたのことを大切に思っています」
この言葉の中の「私」も「あなた」も、
普通の感覚なら周囲の世界から切り離されて独立した存在である「私」であり「あなた」でしょう。

だけど、
「私」も「あなた」も縁起している存在である。

そういう視点で見た瞬間から、
「私」の意味も、「大切な人」の意味も、大きく変わってきます。
「この人を大切にしたい」の「この人」とはどんな存在なのか。
自分の視界に入っている、その人の輪郭の外側から切り話された独立した「この人」なのか。
そうではありません。
「この人を大切にする」
とは、独立して存在する「この人」だけを大切にするということではありません。
それでは「この人」観は、狭きに失すると言わざるを得ません。

縁起している「この人」を見たとき、
もっともっと、大切にすべき様々なものが見えてくるはずです。
「この人を大切にしたい」
の思いの対象は、もっともっと、広がってゆくはずです。
「この人」の家族
「この人」の友達
「この人」がこれから必要とするであろう人たち
「この人」を大切に思ってくれるであろう人たち
「この人」が助けたいと思うであろう人たち
「この人」が生きるに欠かせない様々な環境…
それら一切の因縁を含めての「この人」です。
その視点で見たとき、「見落としてはいけないこと」が、どんどん視野に入ってきます。
そして、本当の意味での「この人を大切にする」行動が現れてきます。

それらの因縁を切り離した、独立した「この人」など、本当は存在しないのですね。
存在もしない独立した「この人」を勝手に作り出して、その幻想に、自分の執着心を注いだ行動は、
「縁起せる世界」の中では、歪んだ結果につながってしまいます。

人間にはどうしても、
「私にはこの人が大切なんだ」
という思いが湧いてきます。
繰り返すようですが、その思いを否定してもどうしようもありません。
またその思いは、自分の精一杯の行動を起こし、継続させるための大きな原動力でもあります。

そんな強い思いを抱いた上で、「縁起せる世界」を見つめてゆく努力をすることが、大切なのですね。
そうして真の意味での「この人を大切にする」行動に全力を注げば、
私達が人として抱く自然な感情は、真に満たされてゆくことでしょう。