「格差」を冷静に眺める視点が、真の可能性を開く

「格差」を問題にする心の源泉は

「格差を無くそう」
こういうことは、昔からどこでも言われていることですね。

この日本という国の中での「格差」ももちろん、みんな実感して問題意識を持っている事に違いありませんが、
もっと大きな「格差」は、やはり世界規模の格差です。
そしてそれだけ大きな規模の格差となれば、意識して視野を広く持たないと認識すらできません。

「知らなかった…こんな環境の中で生活している人がいるなんて」
そういう事を、テレビ番組や本や人の話を聞いたり、実際にその場へ行って見てきたりして
愕然とすることがあります。

「今日一日の生活のための『水』を確保するために、何時間も歩いて取りに行ったり…」
という現実や
「ゴミの山のようなモノの中から、生活に役立つものを必死でかき集めて、そうしないと生きる手段がない」
という現実や
「子供の頃から学校など行く余地もなく、トウモロコシやコーヒーの栽培のため、あり得ないような低賃金で働かされている」
という現実など、
おそらくもっとシビアな現実の中で生きることを強いられている人たちがいることでしょう。

私達人間の思考は常に「相対的な思考」だと言えます。
「長い」とか「短い」とか「重い」とか「軽い」とか「速い」とか「遅い」とか
そういう思考は、必ず「何か」と「何か」を比較することでのみ行われています。

「幸せな生活かどうか」を考える時も必ず、いくつかの要素を「比較」しながら考えているはずです。
時間的余裕、経済的余裕、住む家の大きさ・丈夫さ・清潔さ、食べる物の量や質、人との関わりの多さ・多様さなどなど…
様々な要素を、必ず「何か」と比べながら「幸・不幸」を計るような思考をせざるを得ないのが私達の智慧の限界と言えるでしょう。
だからこそ、問題になるのが「格差」なのですね。
それも、私達が日頃の生活の中で「気になっている要素」についての格差です。
先程挙げたような「時間」「経済」「家」「食事」「人間関係」は、まさに私達が毎日「気にしている」事です。
「会社で働いて、ようやく帰宅できると思ったらもう日付が変わっている…自由な時間なんてないな…」
とか
「給料日の直前になるともう、缶コーヒーを買う余裕もなく…本当にギリギリの生活をしているな」
とか
「友達の家へ行くと、広さや立地の良さに本当に羨ましく思った。ウチなんて…」
とか
私達の生活の中でいつも感じている「幸・不幸」の要素と思っている事は色々ありますね。

その、私達が「気にしている」要素について、際立って自分や周囲よりも劣っている「環境」を見たときに、
「とんでもなく可愛そうな人たちだ」
というように感じるのがまさに「相対的な思考」からくる同情心です。
当人たちが、そんな「私達の尺度での相対的な違い」に対してどう感じているかなど、想像もつかないことなのですが…

「他人の幸せ」の因縁は計り難い

学校のクラスで、一人だけ誰と話すこともなく独りで本を読んで過ごしている生徒がいた場合に、
その「生徒」を、「寂しくて可愛そうな生徒」と断定するのは早計ですよね。

「クラスの友達が多い」という事が「幸せ」の大事な要素だと信じていれば、
「一人だけ友達がいない」という「格差」をなんとか是正すべきという価値観が働くかもしれません。
だけど必ずしもそうとは限りません。

「クラスで友達を作る」事に何の価値も感じない子供がいてもおかしくありません。
「たまたま同じ学校の『クラス』という枠で集められた人間との関わりにこだわるよりも、
本を書いた著者との関わり、ネット上で自分が興味を持ったコミュニティの人との関わりの方がよっぽど大事だ。」
と感じている子供がいてもおかしくないし、実際にいますよね。

「時間」「経済」「家」「食事」「人間関係」
これらは、常識的に「幸せ」の要素だと信じられている事であり、その格差がそのまま「幸せ」の格差だと思われがちな事です。

だけど、本当にそうなのかは分からないのですね。
「株や投資による収入で、働かなくてもお金に困ることなく、好きな場所で生活して好きな物を食べて好きな人とだけ付き合って生きている」
なんて人が、実際にはどんな苦しみ・悲しみ・孤独感・焦燥感を感じて生きているかは分かりませんし。
「その日の水や食料を確保するのにいつも必死で、やっとやっと生きている」
なんて人が、実際にはどんな楽しみや喜びや安心感を得られているかも分かりません。
その「心」が感じている「幸せ」に、本当のところはどれほどの「格差」があるのか、それは目に見えない事ですし、一人一人の問題ですから、分からないのですね。

「『金があって、やる事がない』これほど辛い事って、ないんですよ。贅沢な悩みだと思うでしょうけど。」
そうしみじみと呟いた人がいましたが、その顔決して冗談でも嫌味でもなく、
心底からそう思っているんだなという事が伝わる顔でした。

仏教では、
「あらゆる結果は因と縁とが揃って生ずる」
と教えられます。
これを「因縁生」と言います。
「因」は、一人一人の「行い」のことで、
「縁」は、その人と取り巻く「環境」のことです。

「因縁生」と言われるのは、
一人一人が「幸せだ」「不幸だ」と感じる「結果」は、
それぞれが積み重ねてきた「行い」という「因」に、様々な「環境」という「縁」が加わって、
一人一人に起きているものである、ということです。

先程からお話している、私達が問題にする「格差」とは、その「因縁」の中での「縁」の問題であり、
またその「縁」の中でも、多くの人が常識的に「気にしている」事柄についての「縁」の事です。
だから、他に私達の常識では測れないような「縁」がどれ程あるか分かりませんし、
またその人自身がどんな「因」を造っているかについては、もっと分かりません。
その「因縁」次第で、その人の「幸・不幸」は大きく変わっています。
そんな「因縁生」の道理によって生ずる「幸・不幸」は、他人の安易な感覚によって計ることなどできません。

人間最大の強みは平等に持っている

もちろん、人間にとって、
「食べること」
「暖をとったり涼んだりすること」
「体を休めて眠ること」
「人との繋がりがあること」
などは、本能的に求めている要素ですから、それらがある程度満たされる事の必要性は、
「生きるため」
そして、
「ある程度の因縁を求められるため」
に欠かせない事は否めないでしょう。

ですから、そのための世の中の努力を否定する余地は、さらさらありません。
あまりにそれらの事欠く状況を是正する努力はもちろん大切でしょう。

ただ、それが私達の幸せの「因縁」の中の限られた要素であるという視点もまた、大切なのですね。

そして何より大切なことは、
私たち一人一人が、自分の「幸せ」を作る「因縁」を見極めるための視点を持つことです。
だからこそ仏教では、その教えの「根幹」として「因縁生」の道理を徹底して説きます。

どんな結果にも必ず、その「因」と「縁」とがある。
逆に言えば、「因縁」次第でどんな結果でも生み出せるという事です。
ですから、
自分の身に起きた結果に対しても、
これから求めようとする結果に対しても、
常にその「因縁」を探るという視点が何よりも大切です。

その視点を持つだけで、最も冷静に自分にとっての幸せな「結果」への道を見つける事ができます。
「自分は幸せになれない星のもとに生まれてきたんだ」
「何かの祟りで不幸が止まらないんだ」
「あの人を引きずり降ろさないと気がすまない」
などといった、「因縁生」の道理に外れた「惑い」を払拭させ、
「どんな状況にあっても、幸せを求める因縁は必ずあって、そこから必ず道は開ける」
との確信を失わないための土台が「因縁生」という道理の理解なのですね。

心地よく、安心できる「環境」が整うことは、もちろん大切です。
だけど、自分の求める結果のための「因縁」を探る視点は、
どんな「格差」があろうとも、平等に持つことの出来るものです。
「因縁生」の道理だけは、どんな「格差」にも関わらず、いつでもどこでも通ずる道理ですから、
その「道理」を深く理解している以上の強みはないのですね。