得体の知れない災いの正体~「業不滅」の道理~

心の奥底に「残る」私の行い

「業不滅(ごうふめつ)」という仏教の言葉があります。
「業」とは私たちの「行い」のことですから、私たちがやった「行い」は消えない、ということです。

この「不滅(消えない)」とは「頭の中で記憶している」ということではありません。
私たちには「忘れる」ということがありますから、自分の行い一つ一つを記憶しておくことはできません。

「記憶する」というのは、私たちの「意識」と呼ばれる心の領域でなされるものです。
「忘れる」というのも、この「意識」の領域の問題です。

ところが仏教では、この「意識」の底のもっと深い心の領域に、私たちのやった行為の一切が「業力(ごうりき)」という目に見えない「力」となって残り続け、それは不滅であると言われます。
それが「業不滅」ということです。

現代は「目に見えない力となって残る」という現象はずいぶん身近のものになっていますね。
会社などで仕事をしていれば、重要な情報をデータとして入力していることと思います。
パソコンのハードディスクの中に「入力」する、ということは「目に見えない力」となって残っているということです。

考えてみれば、怖いことです。
白い紙に黒い文字ではっきりと書かれているのなら、紛れもない形として残っていることは明らかで安心できます。
だけど、よく分からない機械の中に、
「目に見えないデータという形で残っています」
と言われても、よく考えてみると、もはや「信じるしかない」というレベルの話です。

電源を入れて、ディスプレイに表示させれば、「間違いなくデータはある」と確認できますが、スイッチを切ればまた画面は真っ暗になるのですから。
「本当に同じ操作をしたらまた表示されるのか?」
そこはもう、信じるしかないですよね。

私が今書いているブログなんて、ハードディスクという目の前にある機械ですらない、「どこかのサーバー」とやらにデータの形で保存しているわけですよ。
その「サーバー」という保存場所を確保するために、ネットのWeb画面の中だけで、「サーバーレンタル」の契約を、月額いくらっていう条件で結んで、そのお金を払っている間は私のデータを保存して、アクセスがあれば表示される形にしておいてもらっています。

人との対面すらなしに、目に見えないWeb上の世界で契約を結んで、目に見えない世界に目に見えないデータを保存しておくという…昔の感覚では正気の沙汰ではないのかもしれません。
だけど現代の私たちはそういうことを日常的に平気でやっていますね。
「慣れ」というのは怖いものです。

仏教で教えられる「業不滅」ということも、そんなパソコンやスマホでやっている目に見えない世界のやりとりになぞらえて考えれば分かりやすいかもしれません。

キーボードを叩いたり、スマホ画面をタップするわけではありませんが、
私たちが体で行動する、口で何かを言う、心の中で何かを思う、そうしたら、それらの「行為」が全て、ちょうど入力した情報がハードディスクやサーバーに「データ」という形に保存されるように、目に見えない「業力」となって、私たちの目に見えない「心の奥底」に残る。
それは決して消えない、ということです。

ところで、パソコンやスマホやサーバー上に保存したデータは、「削除」することができますよね。
「削除」という操作をすれば、画面上で「削除されました」と表示されて、確かに画面上には見当たらなくなります。
だけどあれって、本当に消滅しているのかというと、そうではないらしいですね。
ただ「形が変わっただけ」「状態が変わっただけ」で、プロが操作することで「復元」することができるそうです。
本当にデータを消滅させるというのは、容易ではない、というか不可能なことなのかもしれません。

私たちの「行為」も、忘れることで記憶から消したとしても、心の奥底に保存された「業力」は決して消えません。

そして、何かの操作をすれば、保存されたデータはディスプレイ上の目に見える形で現れるように、心の奥底に残り続ける業力も、何かの「縁」(きっかけ)に触れることで、私の運命を引き起こします。

ということは「業力」の「力」とは何の力なのかというと、私の運命を引き起こす力だということです。

「因果応報」はごまかしがきかない「道理」

やった行いに応じた運命が私の身の上に引き起こる。
これを仏教の言葉で「因果応報(いんがおうほう)」と言われます。
「因に応じた結果が報いる」というのが「因果応報」ということです。
「あなたがした行いに応じた報いがあなたに現れますよ」ということですね。

これは、ただの「教訓」ではありません。
仏教が教える道理であり、真理です。
その真理のしくみが先ほどお話しした「業不滅」ということです。
なぜ、私たちの行いが、私たちの結果となって報いるのか。
それは、私たちの行いは消えることなく残るからです。
たとえ記憶から消しても、心の奥底に業力となって残るからです。
そして、覚えていようがいまいが、「縁(きっかけ)」に触れればその業力はあなたの結果となって必ず現れるということです。

これが真理であるということは、ごまかしがきかないということです。
やった行為を残らないようにすることも、できない。
残ってしまった業力を消去することも、できない。
そして業力が私の結果となって現れることを防ぐことも、できない。

ここが、意識上の記憶と違うところです。
意識上では、ある程度のコントロールが効きます。
「意識を切り替える」
「意識をリセットさせる」
といったことを、ある程度は意図的にできますし、私たちは日々これをやっています。

だけど、業力を切り替えたりリセットしたりすることは、できません。
抗いようもなく、行いは業力として心の奥底に残り続けています。
それは必ず、私にその行いに応じた結果をもたらします。

得体の知れない災いの正体

ごまかすこともスルーすることも出来ず、着々と残り続けている不滅の業の数々…
私たちはその業を、どのくらい把握できているでしょうか。
「9割ぐらいは把握できてますよ」
なんて言える人はもちろんいないでしょう。
じゃあ、半分くらいは?
せめて、1割ぐらい?

私たちの「意識」は、どのくらい、不滅の業を把握できているだろうかと考えると、「ほとんど出来ていない」が実感ではないかと思います。
「意識」は忘れてしまいますから。
それも、都合の悪いことを優先的に忘れていきます。

逆に、周りへの貢献となる行為は忘れないですよね。

会社にこれだけの貢献をしている。
地域のためにこれだけの活動をしている。
家族に私はこれだけ尽くしている。
友達にこれだけの親切をしている。
などなど…

「え?いやいや、私は何もやっていませんよ。」
本気でこれを言える人は本当に凄い人ですよね。
まあ普通は、なかなか忘れられません。
忘れるのは基本的に自分に都合の悪いことでしょう。

「忘れられた都合の悪い業」が、果たして私にどれだけあるか。
「自覚のない恐ろしい業」も合わせたら、どれほどになるか。
考えるとゾッとする程ですね。
だけど、この事実を無視するわけにもいきません。
「イヤなことだけど否定できない真理」
これに向き合うことが人生の多くの苦難を乗り越える糧となります。

誰もが経験している通り、
「なんでこんな目に遭うのか…」
そう思わずにいられない、理不尽で、得体の知れない災いに翻弄されることが人生には起こりますよね。

「こんなの私だけ?」なんて思っていたらとんでもない、大抵の人は「あるある」なんですね。
Googleの検索窓に「なんで私ばかり」と打って検索したら、そんな事態への向き合い方や対処法を書かれたサイトの一覧がズラーっと出てきます。
大勢の人が「なんで私だけ?」と思わずにいられない目に遭っている証拠ですね。

特別な人だけではない。
誰もが遭遇する「得体の知れない災い」。
その正体は何か?
神の与える罰?先祖のタタリ?悪霊の呪い?不幸になることに決定づけられたある種の宿命?

いろんな迷いが起きてきます。
こういう迷いは、余計に苦しみを深めることになります。
「自分の行動」を見失い、解決とは真逆の方向に走ってしまい、状況は悪化する。
悪化した状況がさらに迷いを深める。
深めた迷いがさらに状況を悪化させる。
この「迷い」→「悪化」→「迷い」→「悪化」…のスパイラルに陥ってしまいます。

しかし、「業不滅」の道理をよく理解し、誰もが持つ「忘れられた都合の悪い業」の存在を知っていれば、そんな迷いの歯止めになるでしょう。
業不滅という道理の深い理解から生まれる「確かに原因を私は持っている。」という自覚。
これが「迷い」と「悪化」の歯止めとなります。

理不尽の多い人生を切り開く糧となるのが、業不滅の道理の深い理解なのです。

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