「他人の心を動かす」の真相〜ごまかせない「業」の発現〜

目に見えずとも伝わる「何か」

会社などで、取引先や顧客と電話で話をしている社員が、
電話で話をしながらしきりに頭を下げているという姿を目にすることがありますね。

ああいうのを見て、どう思いますか?

「意味のないことをしてるな…」
と思いますか?

だって、電話口でいくら丁寧にお辞儀をしたところで相手には見えないのだから、
口調さえ丁寧で感情込めた話し方をすればいいのではないかと。

理屈ではそうかもしれませんが、本当にそうだと思うでしょうか。

極端な話、
姿勢を正して丁寧なお辞儀をしながら電話で話をするのと
ソファーで寝っ転がりながら電話で話をするのと
たとえ丁寧な口調で感情込めて話をしたとしても「誠意」の伝わり方は果たして同じだろうかと考えると、どうでしょうか。

確かに、相手がよほど感覚の鋭い人でなければ、寝っ転がって話していても、
「コイツいま、寝っ転がりながら話しているな…」
と相手にバレることはないかもしれません。

とても上手に、感情込めた声や口調で丁寧に話せば、寝っ転がっていても「誠意ある会話」だと相手は認識するかもしれません。

だけど、人とコミュニケートする時に伝わっているものは、頭で認識できる情報だけではないのですね。
常に、人同士のコミュニケーションにおいては、「頭に入る情報」以外の「何か」が、相手の感情に直接伝わっています。

人と人とが会話をしている時に、理屈抜きに
「なんだかこの人、魅力的だなあ…」
「なんか、すごいオーラを放っている気がするな…」
「なぜかとても親しみを感じるな…」
と、感情を直接刺激されるようなことって、あるじゃないですか。

「どうしてそう感じたの?」
と聞いても、なかなか言葉では説明できないものです。

もしかしたら、
「話の内容が凄かったから」
と言うかもしれません。
だけどもし、別の人が同じ内容の話をしても、同じように魅力やオーラを感じて心を動かされるかというと、そうではないと思います。
むしろ、その人に何か「魅力」なり「オーラ」なりを感じさせるものがあるから、その人が話す内容もまた「凄い内容だ」と感じているのかもしれません。

「諦めたら、そこで試合終了ですよ…」

という有名な名言があります。
「スラムダンク」というバスケットボール漫画に出てくる名監督「安西先生」の名セリフです。
あまりに有名なので、世の中のあちこちで使われているんですね。
だけど、どの場面で誰が使っているのを聞いてもやはり、
オリジナルのスラムダンクの「あの」場面でそのセリフが放たれた時の感動は起こせないですね。
あれはやっぱり安西先生があの表情で、あの角度で、そしてあの流れの中で言うから、人の感情を大きく動かすわけです。

「借りてきたセリフ」として、「とりあえず」で、目の前の人にその言葉を放ったところで、重みも何もあったものではない。
「ああ、はいはい、あのセリフね」
で終わりとなってしまいます。

極端な話、「言葉」はさほど問題ではなかったりもするのですね。

「大丈夫だよ」

こんなシンプルすぎる言葉でも、どんな人が、どんな感じで、どんな場面で言うかで、時にその場の人を心から安心させることができます。

千万の「大丈夫である」根拠となる情報を並べ立てて、その上で
「…だから、大丈夫なんだよ」
と説明するよりも、強烈な安心感をその場の人に起こさせることもあります。

無意識に伝わる取り繕えないモノ

なんとなく、惹きつけられる。
その人が言うから、「本当のことだ」と思える。
理屈では説明できない「何か」が、感情を動かしている。
そういうことがコミュニケーションの中で起こっていますよね。

これは、
話の内容、でもない。
言葉のチョイスのセンス、でもない。
言葉遣いの丁寧さ、でもない。
博識さ、教養の深さ、でもない。

そういう頭に入ってくる「情報」とは別の「何か」が、コミュニケーションを通じて相手に伝わっているということです。
しかもそれは、相手の感情をダイレクトに刺激しています。

その「何か」とは、どんなものでしょうか?

表面的には、それは、
「視線」であったり
「手足の微妙な動き」だったり
「姿勢」であったり
「声のトーン」だったり、
「言葉と言葉の“間”」だったり
そういう、ごく微妙な細かいところから「なんとなく」伝わっているものなんですね。

「目」は分かりやすいと思います。
まっすぐと向かう力強い目で、「大丈夫だよ」
と言われると、安心感が違いますよね。
キョロキョロとした落ち着かない視線で、「大丈夫だよ」
と言われたら、余計に不安になります。

話している人の手足がやけにソワソワしていて、ジェスチャーがやけにうるさい。
そんな「落ち着かない」感じで、何かの商品の魅力を説明されても、説得力は半減してしまうか、逆効果となります。
ゆったりとした余裕を感じさせる動作で、落ち着いた身振り手振りで伝えられると、なんだか説得力を感じるものです。

やたら早口で、まくしたてるような「説明」をされるよりも、
たっぷりと間をとって、ゆったりとした口調で伝えられると、信頼に足る情報のように感じます。

こういう、「動作」や「会話」の中にある、微妙な、細かいところ
「話の内容」以外の、なんとなく伝わる要素
それらが相手の感情に与える影響は、計り知れないものがあります。

しかも、こういう部分は中々、意識的にコントロールすることが難しいのですね。
やっている方も、無意識で「出てしまっている」のが殆どです。

そして私達が会話の中でコントロールしているものは、「話の内容」や「どんな言葉を選ぶか」というところです。
そういう、相手の頭に「情報」として入る部分を精一杯練りに練って、現場でも力を入れて伝えている。
その一方で、無意識に出てしまっている、視線、動作、間、声のトーンなどの要素が相手の感情にダイレクトに伝わって、相手の行動を左右してしまっている。

こんな、ある種、皮肉な事態が私達のコミュニケーションの中で日常的に起こっているのかもしれません。

「言葉」や「話の内容」は、いくらでも取り繕えますし、いくらでも「盛る」ことができます。
つまり、「ごまかし」がきくということです。
ところが、それ以外の「微妙な」部分は、なかなか取り繕えません。「盛る」こともできません。

私達の「信念」「自信」「誠実さ」「思いやり」といった心の要素が、人と向き合ってコミュニケートする時に、実はこういう形で「伝わってしまっている」という事実を私達は知るべきなのですね。

時間差で伝わる「積み重ね」

人とコミュニケートする時、私達が意図的に伝えている「情報」以外に、無意識に伝わっている「何か」
ということについてお話してきましたが、
「何か」って、何なの?
というその答えは見えてきましたでしょうか。

先程、「信念」「自信」「誠実さ」「思いやり」といった心の要素が、人とコミュニケートしている時に出る微妙な部分(視線、言葉の間、挙動etc…)に現れる、ということを言いました。

ざっくり言えばそういうことになります。

そして、こういった内面の部分は、これまでの「行い」の積み重ねで造り上げられていきます。

仏教では「行い」のことを「業(ごう)」と言います。
さらにその行い(業)を3つに分類されて「三業」と教えられます。
身体の行い「身業(しんごう)」
口の行い「口業(くごう)」
心の行い「意業(いごう)」
この3つです。

身体でどんな行動をしているか
口でどんなことを言っているか。
心の中でどんなことを思っているか。

「業」というのは、これら一切を含んだものです。

そして、これら「行為(業)」は、一度行ったならそれは全て、自分の中に「目に見えない力」として残っていると、仏教では教えられます。
これを「業力(ごうりき)」と言います。

ここに、仏教で「行為は絶対にごまかしがきかない」と教えられ、
「行いは必ず自分の報いとなって現れる」と言われる根拠があります。
それをズバリ示している言葉が「自業自得(じごうじとく)」です。
自分の行い(自業)は、必ず自分の結果(自得)となって現れるということです。

それは、私達が日々、身体で、口で、心の中で、造り続けている「業」は、他人が見ていようといないと関係なく、全て自分の中に「業力」として残っているからです。

「信念」や「自信」や「誠実さ」や「思いやり」などのいわゆる「人格」は、いわばその人のそれまでの「業」の積み重ねと言えるでしょう。
「習慣」が「人格」を造ると、よく言われます。
「習慣」とは日頃から繰り返し行っている事であり、まさに「業力」の積み重ねと言えます。

人の見ているところでは、いい格好を取り繕っている。
だけど、誤魔化せるところはどこどこまでも誤魔化す。
そんな人の場合、
「取り繕っている」のも行いですけど、「誤魔化して、サボったり責任逃れしたりしている」のもまた行いです。
いずれも平等に、私の「業力」となって私の中に蓄積されています。

上司に夕食をごちそうになって、「ごちそうさまでした」とお礼を言って、その上司が背を向けて歩いていっている。
そんな上司の背中に向かって、深く一礼をする。
その一礼は、その上司には見えていません。
だけど、そういうことは構わず、感謝の気持ち一杯、上司に対して深い「礼」を継続している。
その行いも間違いなくその人の業力となって、残ります。

電話口で、相手に対してのお礼の気持ち一杯から、たとえ相手に見えないと分かっていても、深々と「礼」をしている。
そんな行いも、業力となって残っています。

尊敬する先生から貰った本を、とても大事に、丁寧に扱っている。
そんな真心一杯の行いもまた、その人の業力です。

いずれもいずれも、相手に直接認識されない行為です。
だけどそれらも、私の「業力」となって私の中に蓄積されます。
むしろ、「相手の目の届かないところであっても、する行い」というのは、ある意味その人の本心からの行いですね。
だから余計に、心の籠もった強烈な行いであり、非常に強い力をもった「業力」となるでしょう。

そんな行いの積み重ねは、何らかの形で相手に伝わるものだということです。
それも、頭で認識できる形ばかりでなく、ダイレクトに相手の感情を刺激する形で、伝わるのですね。

その人の前で語る私達の「言葉」が、本音なのか、取り繕いなのか、「情報」としては分からなくても、相手の感情には、ダイレクトに「なんとなく」伝わっているはずです。

「目に見えない所を大切にする」

この習慣こそが、人の心を動かすか否かを本質的に左右しているのですね。