ベストパフォーマンスを引き出す「心」とは〜言葉に「重み」が帯びる時〜

「言ってしまった事」を悔いるよりも大切なことは…

友達と色んな話をして、楽しい時間を過ごして、
「じゃあね」
って別れた後に、にわかに「思い返し」タイムが始まる事って、ありませんでしょうか。

友達と話しているその時は、場のノリや勢いで話せたことを
後になって振り返ると、
「え…さっき僕、よくあんなことを言ったよな…」
と、血の気が引くような思いをしたり。
「こんなことを言って、どう思われたかな…」
と、心配になったり。
相手は「あははっ」て笑っていたけれど、内心ではドン引いていたのではないか。
「あー、こういう人なのかー」って、すごく残念に思われていたりはしないか。
そんな心配が次から次へと出てきたりしませんでしょうか。
こういうことって、本当に考え出したらキリがありませんよね。

だけど考えてみると、後になって思い出せることなんて、「ほんの断片的な事実」です。
「あんなことを言ってしまった」と言ってもそれは、切り取られた「断片」でしかありません。
実際にはその前後に色々な話の流れがあり、お互いの様々な感情があり、
時々刻々と激しく動き続ける「場」があっての「一言」です。
その言葉の断片だけを切り取って思い出しても、「その場の現実」そのものとはまるっきり違うわけですね。

そう考えると、断片的な記憶を対象に、
「ああでもない、こうでもない…」
とウダウダ考えても、全く的はずれな思考をめぐらせてる場合が少なくないでしょう。

こういう表面的なミステイク(と思われること)よりも遥かに大事なことは、
「その会話の真っ最中に、自分の奥底でどんな心が動いていたか」
ということです。

月並みな言い方ですが、
その場で相手に伝わっているのは結局のところ「自分の心」だってことです。
私達は「伝わる」と言えば、
「言語情報が、その言葉の意味通りに相手の脳によって理解される」
という認識になりがちですが、
人と人とが向き合って会話をした時に「言語情報」が持つ影響力は、思っている以上に小さいものです。

ただ「言葉」だけが伝わるわけではありません。
その「言葉」に、私達の「心」色々な「要素」を加味して相手に届けているのですね。

「言葉に重みを感じる」
という感覚は、誰でも分かりますよね。
それは、その「言葉」に、
声の力強さ、声のトーン、話すスピード、
またその時の視線や目力、身振り手振りなど…
実に様々な「要素」が伴っているということです。

「大丈夫だよ、まかせて」

文字にすればこれだけの短いセリフに、さっき挙げた要素がどのように加わるかによって、
「本当に大丈夫」が伝わるか、
「全然大丈夫じゃない」が伝わるか、
まるっきり分かれますよね。
この場合「ダイジョウブダヨマカセテ」の言語情報そのものには、さほどの意味はないのかもしれません。

口から放たれる全ての「言葉」に、常に様々な要素を加味しているのが、「心の働き」です。
「心」は、ただ言葉を選ぶだけではない。
その「言葉」に、「言葉以外の伝わるもの」を常に加味しているのです。
その「心」の働きにこそ、最も目を向けるべきなのですね。

「用意した言葉」が不発に終わってしまうのは

「この決めセリフを言おう」
そう事前に決めて、用意したセリフを相手に向けて放ってみた時、期待したような反応が得られなかった…

そんな経験はないでしょうか。
自分の中で練りに練ったはずの言葉なのに…
頭の中で何度もイメージして、いい感じの反応になるイメージは出来ていたのに…
いざその「言葉」を放つと、返ってくるのは何とも「寒い」反応だった…
こういうことが、結構あるのですね。

どうしてこういうことになるのでしょうか。
それは、「そのセリフを言う」ことが目的になってしまっていて、
そこに伴う「心」が実に中身のないものになってしまうからなのですね。

ちょっとイメージしてみますと…
ある時、思いつくわけです。
「あ、このセリフいいな。これを言えばバシッと決まりそうだ!」
そして、
「よし、今度の機会に言ってみよう」
と心に決めます。
そして現場に臨み、入念に準備してきた「セリフ」を、言えるタイミングを待ち構えて、
「来た…このタイミング!」
というタイミングで放つ。(そして不発。)

その時に自分の中で動いている心は、どんな心でしょうか。
「さあいよいよ、このセリフを言うぞ!」
まあ、こんな心ですよね。
その本音をさらに掘り下げれば、
「これでいい反応をとってやる!」
こんな心でしょう。

「いい反応が取れる」なんて、表面的な出来事に過ぎません。
「バシッと決まる」なんてのも、上っ面の事です。
そんな表面的な中身のない目的に向けられた「心」が、
どんな洗練された言葉をも、「薄っぺらいもの」にしてしまっているのですね。
当然、返ってくる反応もまた薄っぺらなものです。

どれほど洗練された言葉を持っているか、よりもずっと大切なことがあります。

「私にとって、目の前の人はどういう存在なのか」
「今その人はどんな興味を持っていて、どんな悩みを抱えているのか」
「私はその人とどんな関係を構築したいと望んでいるのか」
「そしてそのために、自分が出来る事は何か…」
そういうことがクリアーであるか、あるいは全力で模索する姿勢であるか。
この心の姿勢が、最も大切と言えるでしょう。

これら全てがクリアーである必要はありません。
だけど、「全力で模索する体制」になることなら出来ます。
その「心」さえいつも大切に出来たなら、
その上で、他人と関わり続けることが出来たなら、
常に自分のベストパフォーマンスを引き出すことが出来るでしょう。

ベストパフォーマンスを引き出す「心」とは

仏教の言葉で言えば、
「『因』と『縁』と『果』に目を向ける視点を失わない事」
これが、常に持つべき「心」です。

目の前の人と私との関わりが「縁」であり、
私の出来る行動や発言が「因」であり、
それが合わさって現れる未来が「果」です。

「因」と「縁」とが結びついて、「結果」が起きる。
これを仏教では「因縁生」と言い、
「全ては因縁生である」
この事を、何時でも何処でも変わらない道理であると説くのが仏教です。

そんな「因縁生」の道理をみつめる視点を常に持ち続けられる人こそが、
自分の本当の望みを見失わず、それを叶える道を歩み続けられる「智者」なのですね。
どんな知識も、どんなテクニックも、この視点を持つことには及びません。

常に「ベストな結果とは何か」を模索し続ける心
常に「周囲の」を大切に考える心
常に「自分の出来る行動()」を模索し努めようとする心
「因」と「縁」と「果」をバランスよく観る心を保ち続けられる間は、
己のベストパフォーマンスを引き出し続けることが出来るでしょう。

そしてこの「因縁生を観る視点」を心に保ち続けることが、
単純なようで、最も困難なことでもあります。

人間が本来的に持っている「惑い」が、それを妨げるからです。
因果を観る目を曇らせる「惑い」は、隙あらば心を支配して、迷走に拍車をかけてしまいます。
そして、心と言動とが全く噛み合わない喜劇を演じてしまいます。

急に、「嫌われたらどうしよう」と恐れる心が起きて来たりして、
突如、「とにかくいい所を見せたい」と結果を焦る心が出て来たりして、
相手の状況も打つ手も全く見えなってしまうのが、私達の常であります。
「因縁生を観る視点」を狂わせる惑いの煩悩は、いつ顔を出すとも知れません。
そして人間である限り、この「惑い」を無くするという訳にはいきません。
そんな「惑い」と「因果を観る智慧」とのせめぎ合いが常になされているのが私達の心の実態なのですね。

気がつけば「惑い」に引きずられているところを「いかんいかん」と、なんとか「道理」に立ち返り、
だけど気づけばまた「惑いの煩悩」が顔を出してきて…
こんなせめぎ合いが延々と繰り返されるのですね。
これがいわゆる「自己との戦い」です。

大事なことは、仏教が明かす「道理」も、それを見失う「惑い」も、両方ともよく理解しておくことです。
どちらの理解が欠けても「自己との戦い」は上手くいきません。
因縁生の道理に暗いことも、
自惚れて自己の「惑い」に気づかないことも、
いずれもベストパフォーマンスから遠ざかる原因となってしまいます。

己の心との戦いに目をそらすことなく、日々を「智者」へと近づく糧としたいものです。