「固定した世界観」一つを変えれば視野は無限に広がる~無我と業界~

あなたの視野が「無限に」広がったならば…

今から、視野が「無限に」広がる視点についてお話したいと思います。

この「無限に」ってのがポイントです。
「あなたに出会えて、なんだか視野が広がりました」
「今日の経験を通して、世界が広がりました」
「新しい世界への扉を開いた感じがします」
こういう経験は、これまでにもあると思います。
ある意味では日々の新鮮な経験一つ一つが、「新しい世界をみる」事に繋がっていると言えるでしょう。

けれど、その「広がった」には限りがあります。
これまでの自分の中の既存の「世界」のイメージがあって、
「そこに新たな世界が加わった」という感じかもしれませんし、
「知らなかった世界が一つ、明らかになった」という感じかもしれません。
いずれにしてもそれは、部分的な変化です。

もちろんそれは、とても有意義なことですし、視野や世界が広がった分だけ、自分の人生の「可能性」が広がることを意味します。
「視野」の限界は、そのまま自分の人生の「可能性」の限界に直結します。
「視野」が限られれば、「思考」もその範囲に限られてしまい、その「思考」から生み出される自分の「現実」もまた限られてしまいます。
『思考は現実化する』という有名な書籍がありますが、少しも思い描けない事は、自分の人生に実現させようもないのですね。

ということは、「視野が無限に広がった」ならば、未来の可能性は本当に無限に広がります。
「人生の可能性は無限大」なんて言葉がありますが、どこかで「綺麗事っぽいよな…」と思うかもしれません。
だけど綺麗事でもただの理想論でもなく、「無限の可能性」を本当に実感することは可能なのですね。

あなたは、自分が「視野が広い方だ」と思うでしょうか。それとも「視野が狭いなあ…」と感じているでしょうか。
広い視野を持っていないと、色んな人の話や経験などを聞いた時に、
「それは無い」と興味を閉ざしてしまったり、
「少なくとも自分の人生には関係がない」とスルーしてしまったり、
自分の人生の新たな可能性につながる情報が入ってきても、「必要ないもの」として認識すらできない事もあります。
自分はどれ程、「未知」の話を、自分の糧として活かせるだけの「視野」を持っているだろうか?

ぜひ、問いかけてみてください。
「自分の視野をどう認識しているか」
始まりはまさにここからですね。

世界という「器」は、本当にあるのか?

先程「世界が広がる」と述べたのですが、
「世界」という言葉から、あなたは何を想像するでしょうか?
200近くある国家を全てあわせたのが「世界」でしょうか。
国家に限らず、私達が住む地球の全てが「世界」でしょうか。
地球に限らず、宇宙空間全てが「世界」でしょうか。

いろいろな「世界」観があると思います。
ただ、そのように想像する「世界」は、いずれも「固定した」世界なのですね。

もちろん「世界」の中の細かいところでの具体的な変化は常にあります。
新たに新たに人や動物が生まれては、死んでゆく。
それら人や動物の営みが、環境に影響を与えて、「世界」に様々な変化を起こしてゆく。
宇宙規模では、新たな星が生まれたり、既存の星が消滅したり、さらに宇宙そのものが膨張したりしているとか…
そういう具体的な「世界」の変化は誰だって認識しているでしょう。

だけれど、「世界」そのものという存在は、ゆるぎなく固定した絶対的なもので、
そんな「器」ともいうべき「世界」が確固として存在している。
この発想からはなかなか抜けられません。
その「器」たる確固たる「世界」に、私は生まれ落とされた。そして、生きている。
一つの絶対的な「世界」の中で、私は他者と出会ったり、別れたり、様々な営みをしている。
こういう「世界」観を持っている以上、その世界は「固定したもの」と言わざるを得ません。

人間の「世界」に対する様々な探求は、その「固定した世界」を前提とし、その世界を研究対象として扱い続けてきたと言えるかもしれません。
18世紀に、万物の最小単位としての「原子」が突き止められたと言われます。
この時、人間は「原子」によって構成されている確固とした「世界」を確信したことでしょう。
「原子」は、もうこれ以上分割することの出来ない最小単位として、確固たる存在なのだから、
それらが集められて造られているこの「世界」もまた、確固たる存在として認めることができます。

ところが仏教では、
「そんな確固とした絶対的な『世界』が存在する」
という思いは、実は錯覚なのだと説きます。

仏教で「諸法無我(しょほうむが)」という言葉があります。
ここで言う「我」というのは、「固定した、変わらないもの」という意味です。
先程、万物を構成する「最小単位」の追求がなされてきたと述べましたが、
ある意味それは「我」の存在を探求してきたとも言えるでしょう。
物質を、どれだけバラバラに分割しようとも、最後に「これ以上は分割できない」という固定した存在があるはずだ。
それは、何か…
どこまでバラバラにしたら見つかるか…
その探求の末に「原子」というものに行き着いたわけです。

ところが、その「原子」の構造をさらに探求してゆくと、原子を構成しているさらに細かい粒子が見つかってきました。
そう、「原子」はもう、「最小単位」とは呼べなくなってしまったのですね。
じゃあ、本当の最小単位(それを「素粒子」と呼ばれます)は何なのか…?
その「素粒子」の探求は、さらに続きます。
そんな「素粒子」を探求すればする程、
「本当に、最小単位と言える確固たる『粒子』は存在するのか?」
という疑問が深まるばかりというのが、現状のようです。

科学の専門家でもない私がかなり乱暴に述べているため、詳しい方からは叱られそうな論理展開なのですが…(汗)

仏教では、私達が「あるはずだ」と思い続けてきた、
「固定した、変わらないもの」としての「我」の存在を、
「そういうものがあると思っているのは、錯覚である」
と言われ、「あらゆるもの(諸法)には、『我』というものは無い」と教えるのですね。
それが「諸法無我」の教えです。
それはそのまま、この「世界」は、固定した変わらない存在ではない、ということです。

「世界」も「人生」も夢のようなもの…

「確固たる、絶対的な世界がまず存在して…」
ここから思考がスタートする考え方は、「キリスト教」の発想に似ています。
聖書の創世記のくだりで出てくる話はあまりにも有名ですが、
「神が6日間かけてこの世界を創造した」という話がありますね。
聖書でも、まず最初に造られたのは「世界」となっています。
そして、その後に造られるのが「人間」であり「私」。
つまり、「私」以前にまず、「器」としての「世界」が存在しているという発想なのですね。

仏教では、そんな、絶対的な存在によって創造された「世界」がある、という事を否定します。
そんな絶対的な一つの「世界」が存在するのではない。
本当は、一人一人がそれぞれ違った世界を自ら生み出して生きているのだと、説かれます。

それはちょうど「夢」のようなものです。
「世界は夢のようなもの」
これは、そんなに突拍子な話でもないのですね。
昔から多くの人たちが、
「この人生は、この世界は、夢のようなものではなかろうか」
という事を言い残していることは、よく知られています。

信長の好きな舞「敦盛」に出てくる歌には
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、ただ夢幻の如くなり」
と言われ、
秀吉が臨終に詠んだ辞世の句にも、
「露と落ち、露と消えにし我が身かな、難波のことも夢の又夢
と言われています。

この世界を表す「浮世」という言葉も、「世界」そのものを、
浮いたような存在であり、確固としてものではないというニュアンスで表しています。

あなたは、
「昨日までの、過ぎ去った過去は本当に『存在した』と言えるのだろうか?」
なんてことを、考えることはあるでしょうか。
ちょっと哲学的な思考かもしれませんが、そんなことをふと思う人も少なくないのですね。
昨日までの記憶はすべて夢であったと言われても、「そんなことはない!」と言い切れる根拠は、全くないのですから。

私は、高校三年生まで、ほとんどサッカー一筋で打ち込んできました。
来る日も来る日もグラウンドでボールを追いかけて走っていた日々。
それからもう二十年以上経った今では、まるでそんな日々が夢だったかのようにおぼろげとなっています。
打ち込んでいた真っ最中は、「これぞ現実!」と思ってド真剣なのに、過ぎ去った今では、
本当にそんな現実があったのやらなかったのやら、霞のかかったようなおぼろげなものとなってしまいます。

確かなのは、「今」「ここ」を生きているというこの「瞬間」だけです。

そんな一人一人が生きている夢のような「世界」を、仏教では「業界(ごうかい)」と言われます。
「業(ごう)」とは、「行い」の事です。
この世の全てを「夢」の如き不確かなもの、と説く仏教が、
「これだけは確かの事だ」
と説かれるのが、「業を造り続けている」という私達の実態です。

そしてその一人一人の「業」が、一人一人の「世界」を生み出している。
そしてこれからも、未来の「世界」を生み出し続ける。
これが仏教が説く因果の道理です。

夢の如き、私の生きるこの「世界」は、自分の行いの集積である「業」によって生み出されているということです。

さて、この「業界」こそが、私の生きている世界と認識した時から、
私の「可能性」が、果てしなく広がることとなります。

世界は、固定したものではない。
「業」次第で、どんな世界でも生み出されてゆくもの。
それは、誰も知らない世界でも、自分がまだ見ぬ世界でも、「業」次第で、どんな世界が未来に現れてもおかしくないという事です。

あなたは、今あなたが生きている世界とは、まったく異なる世界の存在を信じるでしょうか。
…て、そんなことを言い始めると、なんだかオカルトチックになってきたと感じるかもしれませんが。
別にそんなオカルト的なものを持ち出さなくても、「異世界」なんていくらでも存在することを、私達は知っています。

道端を歩いている猫や、公園に群がる鳩たちは、人間からみれば、「あ、動物がいる」という事ですが、
「彼らはどんな世界を生きているだろう?」
あのサイズの体で、あんな肉体構造を持って、あんな動きをしながら生きている世界なんて、正直なところ全く想像がつきません。
私達人間とは全く違う世界を生きていると言えます。
そんな動物たちの生きる世界を仏教では「畜生界」と言われます。
それに対して私達人間の生きる世界は「人間界」です。
ところが一口に「人間界」と言ってもまた、私が生きる世界とあなたが生きる世界は全く違うのですね。
このブログを読んでいるあなたがどんな世界に生きているのか、
たとえお互いが目の前にいたとしても、お互いの世界を垣間見ることさえも叶いません。

ただ言えることは、私は私の「業」が生み出した世界を生きていて、あなたはあなたの「業」が生み出した世界を生きているという事だけ。
私とあなたの「業」が異なる以上、お互いに「異なる世界」を生きているという事です。

こんな、「世界」の違いの原因が「業」の違いであるならば、
私の造る「業」次第で、いま自分の生きる世界と、全く異なる世界を未来に生み出しても決しておかしくありません。

その「業」によって生み出される「異なる世界」を、仏教では「人間界」とか「畜生界」などと教えられているのですね。
そして、この2つは私達がその存在を認識している世界なのですが、
さらにその存在すらも知らない世界をあと4つ加えて、「六道」とか「六界」と教えられています。

「六道」という内容にまで踏み込むと、それはもう生物学でも科学でも天文学でも、その存在さえ確認できない「世界」を認めることとなります。
だけど、
「『業』次第で、どんな世界を生み出してもおかしくない。」
そんな「無限に」視野が広がる視点を持った時に、全く未知の世界さえも、自分の現実問題となり得ることを理解できるはずです。
本当の意味で、
「世界は無限に広がっている」
を理解することとなるのですね。
それはそのまま、自分の未来に本当の意味で「無限の可能性」が開かれることを意味します。

そこまで広がった視点を持ったうえで、この「人間界」という「人生」に挑むとき、
驚くほど柔軟に、そして本気で、この人間としての「生」に挑んでゆく事ができるでしょう。