「本気で生きている」と感じられない原因は〜人生の一大事とは〜

「本気で生きている」と感じる瞬間

「今、まさに人生の大事に向き合っている…」
そういう時には、とても気が引き締まりますね。

そういうものでもなければ、「なんとなく」の日常をダラダラと過ごしていたかもしれない。
いつもの時間に起きて、
いつもの時間にご飯を食べて、
いつもの職場へ出かけて、
いつもの仕事をして…
そういう、惰性で流れていっても特に支障のない「日常」を、なんとなく過ごしてしまう。
そうして、1週間は過ぎて、1ヶ月は過ぎて、気がつけば、「もう年末!?」なんて言ってる自分がいる。

けれど、
「これぞ私の、人生の大事」
そういうものを見つけて、あるいはぶち当たって、
その「大事」に取り組む人生は、
もっともっと五感を働かせて、
頭もフル回転させて、
「今、何を為すべきか」の決断に本気になることでしょう。

難関の大学を受験しようと決意した時や、
スポーツや芸事で大きな大会に臨もうとする時や、
難易度の高い資格を取得しようと決めた時や、
会社で大きなプロジェクトを任される時や、
子育てに一生懸命取り組み始める時や、
自分で何か事業を起こそうとする時など、
色々な形で「大事」と向き合い、「本気の人生」が動き出すのですね。

これは、自ら積極的に「大事に向き合う」生き方を選択する場合もあれば、
図らずとも出会いやチャンスに巡り会って、「大事に向き合う」生き方が始まることもあります。
場合によっては、望んでもいないのに、「大事に向き合う」ハメにいなってしまった、てこともあります。

人生には、望んでもいない「大事」は結構起きてしまうものですから、
「なんだか、平凡が続いていて刺激がないなあ…」
なんて思っていても、そんな「平凡」が死ぬまで続くなんてことは、そうそうないでしょう。
遠くない未来には
「何にもないなあ…」なんて言って過ごしていた日々が懐かしい…
と、しみじみと思うようになっていたりするものですね。

「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と仏教で説かれるように、
あらゆるものには「常」というものが無く、絶えず移り変わっていってしまうというのがこの世の真理です。
「平凡」がいつまでも続くことも無いし
「大事」に向き合う日だってまたいつまでも続きはしません
思いもよらない変化が周囲や自分自身に起きれば、突如「気がつけば人生の大事の渦中にいる」なんてフツーに起こりますし、
逆に、ずっと本気で向き合ってきた「大事」が環境の大きな変化で突然終わりを迎えてしまうことも、珍しいことではありません。
良くも悪くも、「一定の状態」というものは続かないものです。
「平凡」に嘆くのも、「大事」にうろたえるのも、どちらも「しばらくの間」
人生は、山あり、谷あり、平坦ありの、旅路のようなものですね。

そうやって移ろいゆくのは当然の事なのですが、ついついその「変化」に一喜一憂して振り回されてしまいがちなのが私達人間なのかもしれません。

「大事」とは比較にならない「一大事」

ところが、
そんな「大事」が現れていようと、「平凡」であろうと、
人生の旅路が「山道真っ最中」であろうと、「谷底なう」であろうと、「平坦楽ちん」であろうと、
そんな変化と関係なく、誰もが常に抱えている「一大事」があると、仏教では教えます。

「大事」「一大事」は、似ているようですが、全く異なります。

「大事」は人それぞれですが、仏教で言われる「一大事」は、誰もが共通して持っているものです。
「大事」はあったりなかったりしますが、「一大事」常に今この瞬間に存在しているものです。
「大事」も重大で深刻な問題ばかりですが、「一大事」は、そんな「大事」とは比較にならないほど深刻で重大な問題です。
そんな、たった一つの万人に共通した「一大事」があることを仏教は教えるのですね。

それが、「生死の一大事」です。
「生と死」という一大事
これ程の大問題は、他にはないのだと言われるのです。

「いや…生きていりゃ、死んでいく、なんて当たり前の事だし。」
「わざわざ『一大事』だなんて取り上げられる意味がよく分からない…」
もしかしたら、そんな風にしか思えないかもしれません。

先程から述べた様々な「大事」ならば、「深刻かつ重大」をビンビン実感できるのですが、
「生死の一大事」の方は、「どうもピンと来ない」「深刻とも重大とも思えない」という印象を受けてしまう。
これもまた「一大事」の特徴なのですね。
「一大事」というのはそういうものなんだよ、と仏教では言われます。
「生」と「死」とはそれほどとらえどころのないような問題なのですね。

「生」と「死」という話題を出すと、
「私は、こういう死に方はしたくないですね…」
という「死に方」の話題になることがあります。

たぶん誰しもあると思います。
「こういう死に方だけはしたくない…」というのが。
「めちゃくちゃ痛い、しかもしれが長く続くような死に方」とか
「ものすごく恥ずかしい死に方」とか
「大勢の人に多大な迷惑をかけてしまうような死に方」とか
確かにどれも、嫌ですよね。それはよく分かります。

そして、そんな嫌な死に方よりも、
穏やかに、あっさりと、できれば眠っている間とかに、死にたい。
そんな「ポックリいきたい願望」みたいなのは、結構聞きますね。

傍目からみれば、「死」の苦しみといったらそういう死に際の肉体的な苦痛が一番分かりやすいですから、
そういう意見や願望を持つのはもっともなことです。

また、「私はあんまり長生きしたくはない」という話もよく聞きますね。
年老いて、体の自由が効かなくなって、楽しみもほとんどなくなって、
体の痛みをいつも感じながら、ほとんどの時間をベッドの上で過ごす生活で、
さらにひどくなれば、体中に管を付けての入院生活で命を長らえて…
そうまでして生きたいとは思わない。
そうなる前に、もう人生は終わりでいい。

今は若くて健康で、やりたいこともできて、食べたいものも食べられて、人の役に立つこともできて、生きがいの感じられる人生だけど、
若さと健康を失った後の、楽しみもなければ、人に迷惑かけこそすれ、役に立てることがなくなって、生きがいが感じられそういない…
そうなってしまうのが辛い、嫌だというのは、よく分かります。
そうなる前に「死」が訪れたならば、そんな辛さは味わわなくて済むということも。

こういった意見や願望は、いずれも「死」そのものではなく、「死ぬ直前までの状態」を取り上げているに過ぎません。
「死」そのものについては、ただの「終わり」としてしか語られておらず、全く触れられていないと言ってもいいくらいです。

この私が、「死」という壁にぶつかってゆくとは、一体どういうことなのか。
その「死」の瞬間に私のみる世界はどうなってしまうのか、その先はどうなってゆくのか…
この「死そのものの問題」には、どうしても目が向けられないのが人間なのかもしれません。

「生」の重みを本当に知らされる時

「生と死の一大事」
これは、「生」も「死」も、いずれもごまかさずに観てこそ知らされる「一大事」なのですね。
それで仏教では、「命の無常」を切々と説かれます。
人間が「死」にぶつかるとはどんなことなのかを、明らかにしています。
そうして初めて「死そのものの重み」を見つめることができます。
底知れない恐怖やら、不安やら、逃れたい一杯の心やら、そこに潜んでいる深刻かつ重大な問題にようやく気が付きます。

この視点を抜きにして「生」を語るのは、片手落ちもいいところというわけです。
「死」の重みを感じられなければ、「生」の重みもまた感じられません。
「生」と「死」は、決して切り離すことの出来ない、表裏をなすものなのですね。

なんとなく「生」と「死」は、対局を成すもので、お互い遠く離れた存在同士のように思うかもしれません。
今は「生」を味わっていて、そのずっとずっと遠い先に「死」が控えている。
こんな風にどうしても「生」と「死」とを切り離して考えてしまいます。
だけど本当は、「生」が「死」へと移るのは一瞬のことで、
ちょうど時計の秒針が夜中12時を刻んだ瞬間に「今日」が「明日」へと切り替わり、
大晦日の夜中12時を刻んだ瞬間に「今年」が「来年」へと一瞬で切り替わるように、
一呼吸、一呼吸の連続がどこかで途切れたならばその瞬間に、「今生」が「死後」へと切り替わります。
「生」と「死」とは、常に触れ合っているというのが真実なのですね。

今、私達が味わっている「生」にも、そのすぐ裏側に「死」が触れ合っている。
すなわち、「生死の一大事」は常に、「今ここ」に潜んでおり、
そんな一大事を伴う「生」の一瞬一瞬には、限りのない重みがあるのですね。

この「生死の一大事」をごまかさずに観つめた時に初めて、
このかけがえのない「生」の中で、本当に果たすべきことは何か、
人生のミッションを本気で考えることができます。

山あり谷あり平坦ありの様々な旅路のいずれの時にあっても、
「本気で生きる」
というスタンスを崩さないための鍵が、まさに「生死の一大事」を見つめることなのですね。

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