「責任」にストレスなく向き合うには〜不安を断つ「責任」の活かし方〜

「逃げ道」が不安の元

「それは、お前の責任だろ」
と他人から言われるのは、結構なストレスだと思います。
プレッシャーや、ともすれば脅迫的な威圧感をも感じるかもしれません。
「責任」
それは決して悪い言葉ではないハズなのですが、それを他人から振りかざされると、とても嫌な響きを伴います。

本来「責任」というのは、自ら選択し、自ら背負うものです。
自分が選んだ「仕事」
自分が「やります」と言った「言葉」
自分が他人をも巻き込んでやり始めた「企画」
それに対して責任を持つ。
それらが招く結果は自分の問題と認識する。
それらを全うさせることにコミットする。
これはとても自然な事と言えます。

自分の意思で決めて、それを言葉や行動で表明した時に始めて
自ずと発生するものが「責任」というものです。

これは「因果の道理」に叶うことでもあります。
「因果の道理」は、仏教がその教えの根幹としているもので、
原因と結果の関係の法則を教えたものです。
それも、私達の「行い」が「原因」として、どのような「結果」を引き起こすのか。
という「行い」についての因果が教えられています。

一言でそれを「自業自得(じごうじとく)」と言われるのですね。
「行い」のことを「業(ごう)」と言い、自分の行いは、すべて自分の「結果」となる。
決して他人の結果にはならない、ということです。
自らの意思で自分の「行い」に責任を持とうが持つまいが関係なく、
自分の「行い」は自分の「結果」となるのが道理で、その結果が「他人」へ行くことはないのですね。
それが「自業自得」ということです。

自分が決意し、選択し、行動した以上は、もう他人事には出来ない。
これが「道理」なのだから、「自分の行動に対して100%自分が責任を持つ」という事は道理に叶う考え方なのです。

「道理」という事は、例外のない「真理」という事です。
自分の行いは100%、自分の責任だという事ですね。
「まあいいや、誰かが何とかしてくれるだろう」
などと思うのは勝手ですけれど、道理はそうはいきません。
自分の行いの結果からは100%逃れることはできません。

「100%逃れることはできない。」
だから、
「100%自分の責任だ」
この「100%の理解」が、とても大切です。
1%くらいは逃れられるのでは、という「逃げ道」を私達はどうしても作りたくなります。
「逃げ道」を作っておいたほうが気持ちが楽だと思うのでしょう。

しかし、本当は逆です。
「道理」を前にして、自分で勝手に「逃げ道」なんかを作っているから、
かえって不安になり、かえって苦しむことになるのですね。
決して「楽」になんか、なってはいません。
楽になろうとして、かえって不安や苦悩を増大させてしまっているのが実態です。

「なんとか逃れられるかな…」
「なんとかごまかせるかな…」
「誰かがなんとかしてくれるかな…」
そんな思いが渦巻いている間がずっと「不安」そのものなのです。
そんな不安の中にいるからますます「行い」は惑いに支配されて、悪い手を悪い手を打ってしまうハメになります。
そうして不安と惑いをますます深めてしまい、その先はもはや「自滅の道」です。

本当に楽になりたいならばまず、
「100%、自分の行いの結果からは逃れられない」
という道理を100%受け入れる事です。
その「覚悟」を決めた時に始めて「楽」になれます。
そして、真剣に自分の「行い」に向き合い、よき未来を全力で切り拓く事ができます。

「あんな奴は死ねばいいのに」と言ってしまったら…

「行い」は絶対にごまかせない。
だから、その「行い」が自分に引き起こす「結果」からは絶対に逃げられない。
私達はこのことを、心のどこかで「分かって」いるのですね。

例えば、
あなたが普段、とても世話になっている人がいるとします。
いつも優しい言葉をかけてくれて、
よく相談に乗ってもらって、
たまに食事をごちそうになることもあって、
この人がいるおかげで、こうして元気にいられる、という恩人がいたとします。
そんな恩人に対して、ちょっとした事で、とても腹を立ててしまった。
そして、誰もいない自分の部屋の中で感情にかられて、
「ちくしょう、あんな奴は、ひどい目に遭って、死ねばいいんだ!」
と叫んでしまったとします。その後すぐに、
「あ…」
と我にかえって、ひどい事を言ってしまったことを自覚しました。

そんな状況を想像してみて欲しいのですが、
もしこれを「録音」していれば、その「言った事」は記録として残りますよね。
もし誰かが聞いていたら、他人の記憶として残りますよね。
またそれを私が「覚えている」間は、その「言った事」は私の記憶として残っています。

だけど、録音もしていなかったし、他の誰かが聞いていることもなかった。
そしてやがて、自分すらもそんなことを「言った」という事を忘れてしまったしまった。
じゃあその「恩人に対して『殺意』の表明をしてしまった」という行いは、「無かった事」になるでしょうか?

物理的には、記録にも記憶にも残らない。
だから、認識できる形では何も残っていません。
だけど、もうあなたは「言って」しまったわけですね。
その「言ってしまったこと」は、本当に「無かった」も同然という事になると思えるでしょうか?

「理屈の上では、何も残らないような気もするけれど…」
だけれど、心から思いきれないものがあると思います。
「恐ろしくひどいことを言った」という「行い」
この「行い」を自分がやってしまった以上は、それは未来を生み出す重要な「原因」となって、
決して消える事なく残り続ける。
このことをどこかで私達は感じているのでしょう。

仏教ではその「行い」「業(ごう)」と言いまして、
一度自ら造った「業」は、自分に結果を引き起こすまでは決して消えることがないと教え、
これを「業不滅」と言われます。
そして必ず、自分にその結果を引き起こすのであって、その「結果」から逃れることは決してできないのですね。

これが仏教が教える「道理」であり、
あらゆる「行い」は、他でもない「自分」に必ず結果をもたらすのですね。
この「道理」を、自分の問題としてよく理解して、自分の人生の指針とすれば、
「逃れよう」「ごまかそう」「誰かがなんとかしてくれる」
という惑いは、
「決して逃れられない結果から逃れ続けようとする不安」
でしかないことが分かります。
犯罪を犯してしまい、しかも証拠を残してしまって、指名手配がなされた状況で、
日本中を逃げ回っているようなものです。
どれだけ逃げても逃げても、ずーっと「不安」がつきまとい続けます。
逃げるくらいなら、100%向き合うスタンスに立ったほうがよほど楽ですよね。

そうすれば自然と
「自分の行いは100%自分の責任」
という認識が芽生えてきます。

「100%の理解」が要

「100%自分の責任ですよ」
これを他人から押し付けられると、反発が先に立つかもしれませんが、
「自業自得の道理」を理解して、自ら「行いに対する責任」を自覚し、覚悟を決めた時には、
「100%自分の責任」という信念が芽生えて、人生を切り拓く何よりの強みとなります。

「責任のなすりつけ合い」という言葉があるように、「責任を他人に負わせよう」という惑いが、
人間にはどうしても起きてしまい、そんな発言や行動が多くなってしまう結果、
「責任」という言葉に、「他人から押し付けられるもの」という歪んだニュアンスが込められてしまっているのかもしれません。
だから、この言葉には、嫌な重み、嫌なプレッシャー、嫌な脅迫感が感じられるのでしょう。

本来、そんなものではありません。
自らの「行動」から、自らに対して自然と起きるものが「責任」であって、
それを他人が他人に「負わせる」とか「負わされる」なんて事はできないものなのですね。

自分の「行い」によって、自分に100%発生するもの。
これが「責任」です。
この「自業自得」の道理に則って、自分の行いに対して自ら自覚すること。
これが「100%の責任を負う」という事です。

道理に則っての自覚ですから、
「半分くらい」でもありませんし、
「99%くらい」でもありません。
「100%」という事が重要なのですね。
「100%の理解」でなければ、たとえ99%でも、残りの1%が台無しにしてしまうという事です。
ちょうど、水を満々と湛えた水槽に、1点でも穴をあけてしまうと、たちまち漏れ出てしまって、水位はみるみる下がってしまうようなものです。

「1%くらい、自分の行いの結果から逃れられる事もあるだろう」
なんていう「逃げ道」をわざわざ自ら作ってしまっては、自ら惑いを深めてしまう一方です。
それくらい人間は惑い易いものなのですね。
「道理」からついつい、逃げ惑ってしまうものです。
だからこそ、せめて理解の上では、その「惑いの逃げ道」は断っておくべきです。
「100%」の理解にしておくべきなのですね。

自ら、
「自分の行いに100%の責任を持つ」
その覚悟を決めた時から、自分の望む未来を確実に拓いてゆく人生が始まることでしょう。

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