生きる意味を心から感じるための「第一歩」〜「生きる」ことの因果の解明〜

ふと心に沸いてくる「ある」感情

何気ない日常に突如、発生する深刻な問題と言ったら…

友達と喧嘩になったり、
恋人から別れ話を持ちかけられたり、
健康診断で「要検査」判定を食らってしまったり、
職場で解雇通告を受けてしまったり、

そんなのも深刻ですけど、
それらよりも、もっと深刻な「問題」が誰の日常にも潜んでいるのですね。

それは、「無意味感」です。

この現れ方は実に様々です。
場合よってはかなり強烈な「何もかもが無意味に思えてしまう」という感覚にとらわれてしまうこともありますし、
緩やかではあるけど「なーんか、それなりに楽しいのだけど、どこか『虚しさ』が拭いきれない」という感覚にかられることもあります。

仕事をしている時にも、家族で団らんしている時も、散歩している時も、テレビを見ている時も、
いつでもその「無意味感」という闇は、足下に潜んでいて、気まぐれに顔を出して、私の人生そのものを、脅かし始めます。

放っておけば、私達の人生はたちまち、この「無意味感」に侵食されてしまうのかもしれません。
それに抗うように、
仕事に打ち込んでみたり、
恋愛に熱を上げてみたり、
テレビやゲームに熱中したり、
夢を描いたり、目標を立てたり、
「何か」をせずにいられなくなります。

そして、その「何か」により集中できれば、「一点集中状態」になれればなれるだけ、
そこに「人生の意味のようなもの」を味わうことが出来て、「充実感」という心地よさを味わうことができます。
その「味」を知ったならばもう、次から次へと、「一点集中」になれる対象を人生に絶やさないようにして、
どっぷりと「充実」に浸れるものを常に求め続けることとなるでしょう。

だけど、そんな「充実」に身を置くことができても油断はできません。
ちょっとでも穴があれば水はそこから滲み出てくるように、
「無意味感」という得体の知れない侵食者は、ちょっとした心の隙をとらえて、たちまちその心を暗い色に染め始めてしまいます。

楽しい時間のはずなのに、突如「ふっ」と、虚しさがこみ上げてくる。
そんな感覚に襲われたことのある人は決して少なくないはずです。

「自分だけ」では、決してありません

こういう「無意味感」や「虚しさ」の原因を、
「それは、自分が心から打ち込める生きがいを見つけられていないからだ」
と思うかもしれません。

確かに、本当に心から熱中できる「何か」が見つかれば…
それが、仕事なのか、家族なのか、習い事なのか、スポーツなのか、ゲームなのか、恋愛なのか、
人によって何を「生きがい」と感じるかは異なりますが、
「これぞ、私の生きがい…」
と言える「何か」を持つことができれば、それに心から一点集中できる間は、「無意味感」を遠ざけることが出来るでしょう。

だけど、それは無意味感を「消せた」というわけではないのですね。
その「虚しさ」の本質を知り、その解決に至らない限り決して消えはしません。
「生きがい」に一点集中しているために、その虚しさを意識の外に追いやっているだけです。
その熱中の時間が終わった後に、その没頭の仕方が深ければ深いだけ、深刻な「虚しさ」が去来します。

「あーあ、終わってしまった…」
何かの大会でも、大きなイベントでも、「ここ一番」の盛り上がりの時間が終わると、心にそんな陰りが見え始めます。
もしかしたら、クライマックスの辺りからもうはや、心のどこかにその虚しさの侵食は始まっているのかもしれません。

どこどこまでもついて回り、逃れたつもりでも決して逃れられない「人生の虚しさ」に、常に脅かされなければなりません。
これは、どれだけ他人が羨むような「充実していそう」な人生であっても、例外ではないのですね。

「こんなに虚しいのは自分だけなのかな…」

と、誰もがそう思えるかもしれません。
それもそのはずで、この「虚しさ」や「無意味感」というのは、あまりにも具体性がありません。
「こないだ、彼氏と喧嘩しちゃって…」
「昨日、仕事で大失敗してしまって…」
というような悩みの話なら、具体的で、話題にもしやすいですし、解決策も見つけやすいので、外に表す甲斐もあるというものです。
ですが、この「なんとなく虚しい」ってのは、自分でもなぜそう思えるのかが分からなかったり、
誰かに言ってみたところで、何か解決に向かうような気もしませんし、共感してもらえるかどうかも確証が持てない。
だから、とても外に表しづらいのですね。

心の底に抱えていながらも、それをおおっぴらに垂れ流している人が周囲にいない場合が多いため、
「自分だけなのかな…」
と思わざるを得ないのでしょう。

だけど本当は、一見、「明るく楽しく充実一杯の生活」に見える人の心の底が、驚くほどに「虚しさ」という空洞がぽっかり空いているものなのですね。

「無意味感」の根本解決へ挑む第一歩は

人生は色々で、生き方は様々ですから、誰一人「同じ人生を生きる」なんてことは、あり得ませんが、
それでも共通していることは、いくつかあります。

どこからともなく、「人間」として生まれてきたこと。
そしてやがては命を終えて、死出の旅へと出てゆくこと。
その「生」から「死」へと、今まさに抗う術もなく突き進んでいること。
その本質だけは、誰一人変わることはありません。

どこから生まれてきたのかも、分からない。
人生を終えた後に、どこへ旅立ってゆくのかも分からない。
そしてそんな「生」も、毎日毎日、飛ぶように過ぎ去ってゆき、
年末の「一年、早いなあ…」のつぶやきを、毎年毎年繰り返しているうちに、人生の終末へと猛スピードで追いやられている。

そんな「生」を見れば見るだけ、深い虚しさが深まるのも無理はありません。

一体、「生きる」って、何なのか…?

この問いは、この上なく切実に心の底で鳴り響いているのですね。
「この問いかけを、いつまで放置しているのか」
心に去来する「虚しさ」は、そんな警鐘なのかもしれません。

仏教はまさに、この問題に切り込んでゆきます。
「生きる」とはどんなことなのか。
それを「因果」という切り口で、仏教は徹底的に明らかにしています。
まずはこの「生きること」の因果を知ることが、人生そのものの「虚しさ」や「無意味感」を解決する第一歩となります。

それをズバリ表した言葉が、日本人のほとんどが知っている「自業自得(じごうじとく)」という言葉です。

「それは、あんたの自業自得でしょ?」
そんな、他人の落ち度をたしなめる言葉のように使われていますが、
「自業自得」は、人生の因果の本質を明らかにした言葉であり、
人生そのものに漂う、無意味感や虚しさを解決するための第一歩を踏み出す、とても重要な仏教の教えです。

これは、私達が常に為している「行い」に、とてつもない「力」がある事を教えている言葉です。
行いを「業(ごう)」と言われ、その業の持つとてつもない力を「業力(ごうりき)」と言います。

この「業力」だけは、間違いなく未来に残るものだと仏教では教えられます。

私達が過ごす日々は、過ぎ去って過去となればもう、夢の如く消えてゆきます。
もちろん記憶にしっかりと刻まれる事もありますが、
どんなに楽しくて幸せな日々も、またどんなに苦しくて辛い日々も、
過ぎてしまえばもう過去であり、時間が経てば経つだけ、「これぞ現実」と感じていた日々もどんどん夢や幻のように感じるようになりますね。

私も高校時代までは、超体育会系のノリでサッカーに打ち込んでいました。
学校の昼休みには、弁当を食べ終わったらすぐに体育館の2階に置いてあったダンベルなどを使った筋トレをして、
プロテインパウダーの入った水をゴクゴク飲んで、また5時間目の授業へ戻るという毎日を過ごしていました。
すっかり、スポーツから遠のいた生活を10年、20年の過ごしてきている今となっては、
自分にそんな日々があったことがまるで夢のようにさえ思えます。

どれほど本気で打ち込んだ日々だって、過ぎ去れば過去で、やがて風化して夢・幻となる。
そう考えるとやはり「生きる」ことの虚しさを感じずにいられません。

太宰治の小説『人間失格』のラストに、印象深い一節があります。

いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
ただ、一さいは過ぎて行きます。

ただ「過ぎてゆく」だけならば、一体その日々にどんな意味があるのだろうか…?
そんな疑問が嫌でも沸いてきますよね。

だけどそんな一切の過ぎゆく、消えてゆく中にあって唯一消えないものがあるのだと、仏教では教えられます。
それが「業力」です。
飛ぶように過ぎ去ってゆく日々の中で、
どんな思いを抱いたのか。
―それは「意業(いごう)」呼ばれる心の行いであり、決して消えない「業力」となって残ります。
どんな言葉を口から放ったのか。
―それは「口業(くごう)」呼ばれる口の行いであり、不滅の「業力」となって残ります。
どんな行動をその体で為したのか
―それは「身業(しんごう)」呼ばれる体の行いであり、時が経っても消えることのない「業力」となります。

意業・口業・身業、これらを「三業(さんごう)」と言いますが、
三業はすべて、自分の未来を生みだす「種」として、消える事なく残り続けるのですね。
そして縁が来れば、その「業」に応じた結果を生み出してゆく。
今、あなたが味わっている幸・不幸などの現実もすべて、あなた自身が過去に造った業の種が、縁に触れて現れたものだということです。

「業」だけは、消えることなく残り続ける。
ここに、「生きる」という事の意味を見出してゆく手がかりがあります。
「己の業に向き合い、見つめてゆきなさい」
と仏教では教えられますが、これこそ、「生きる」ことの意味を見つけ出し、「人生の虚しさ」を根こそぎ解決するための第一歩なのですね。