自分の信念に生きる人の「土台」〜「孤独な旅路」の人生〜

みんなやっているから

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」
誰が言ったのか、とても共感を呼ぶフレーズですね。

それだけ人間の特徴を絶妙に言い当てたフレーズと言えます。

「これはちょっとマズい行動かな…」
と思えることも、みんながやっている事なら、わりと平然と踏み込んでしまえるものですね。
なんとなく安心するのでしょう。

「みんなと一緒」
行動を促す大きな要素が、これです。

「みんな持ってるから」
「みんなもう始めてるよ」
「みんな買うのがこれ」

と来れば、
「そうか、それなら…」
と心が動きやすいものです。

場合によっては、意識するまでもなく、当然のように「みんなの行く道」を進んでいたりしますね。
みんなが大学に行くから、「大学進学」の選択肢をとる
みんなが会社に就職するから、就活を始める
みんな結婚しているから、自分もそろそろ…と婚活を始める

「みんなそうしている」
という事実が周囲にあるだけで、人間の行動が強烈に決定づけられてしまいます。
誰も「こうしなければいけない」なんて言わなくても、
「みんながしている」という事実が周囲にあるだけで、「考えるまでもなく行動する」ように促してしまう。
考えてみると恐ろしい影響ですね。

ややもすると、「それが正しいか」どうかよりも、「みんなと一緒かどうか」ということを重視するぐらいです。
「みんな、やってることだから…」
と言ってしまえば、ルール違反のことでも、マナー違反のことでも、不正に手を染めるようなことでも、してしまいます。
みんながサボり始めたら、自分だけ頑張っているのが損な気がして、自分もサボり始める。みんなが特定の人をいじめているというだけで、「みんなと一緒」であるために、自分もそのいじめに加担してしまう。

「本当にこの行動は正しいのか?自分の進みたい方向へ繋がる行動なのか?」
という判断が出来なくなってしまうのですね。

それほど、「一人だけ違う」ということを恐れて、「みんなと一緒」を求めてしまうのが人間なのかもしれません。
たとえその行動が良からぬ結果を招いても、「みんな一緒なら」と、その結果さえも許容してしまう。

本当は「みんなと一緒」ではない

ただ、この「安心感」には、大きな見落としがあります。
それは、
「みんなと一緒に結果を受ける」なんて、できないということです。

「みんなと一緒に行動しているなら、結果もみんなと一緒に受けることになる。」
なんとなくそんな感覚になってしまいそうですが、事実は、そういうわけにはいきません。

確かに、みんなで一緒に勉強をサボったり、みんなで一緒に誰かをいじめたりして、
それがバレて、みんなで一緒に先生に叱られた。
みんなで「あーあ」とか言って顔を見合わせ、なんとなくそこには連帯感がある…

そんな情景だけみれば、「みんなで一緒に結果を受けている」とも思えそうです。
だけどそれは、ほんの表面的で瞬間的な部分しか見ていません。

自分のやった行動がもたらす結果が、「先生に叱られる」なんていう一時的なものだけで終わるハズがありません。
「叱られる」なんて、ほんの表面的な結果ですよね。ただ他人から注意の言葉を受けるだけです。
やるべきことをサボったり、他人を傷つけるような行いをした報いが、「ただの他人の言葉」だけで終わるハズがありません。
本当の報いは、「それからの一人一人の人生に遺恨を残してゆく」という形で如実に現れていきます。

友達と一緒に「あーあ」なんて言っていられるのは、人に叱られた直後に隣同士で顔を見合わせた瞬間ぐらいのことです。
その後、一人一人、帰路について家に帰っていきます。
そして一人一人の生活が続いていきます。
そしてやがては、一緒にいた仲間とも離れ離れになって、それぞれの場所でまたそれぞれの生活が続いていきます。

その一人一人の人生がどんな人生になってゆくか。
それを決めてゆくのが、一人一人の「行動」です。
どれだけの努力をして来れたか。
どれだけ他人に思いやりの気持ちで接することができたか。
そういう「行動」は、一人一人の人生に大きな影響を及ぼすことは言うまでもありません。
その影響は、それぞれがたった一人で受けていかなければならないということです。

仏教では「自業自得(じごうじとく)」と言って、
「自分の行動」は、「自分の人生の結果」となって必ず現れてゆく
と教えられます。

その行動が、他人と一緒にやったのか、自分一人でやったのか、などは関係がありません。
「自分がやったのか、やらなかったのか」
それのみです。
そしてその行動の結果は、一人一人が、自分で受けていきます。
たった一人で、過去の行動の報いを受けていく。
これが「人生」の実態です。

この「自業自得」の道理からすれば、「みんな一緒」というのは、実は錯覚なのですね。
ほんの表面的、ほんの一時的な部分だけを見た感覚です。

表面的に、みんな一緒で嫌な思いをして、お互いその気持ちをシェアしたり愚痴り合ったりしているように見えますが、
「ねえねえ、本当に嫌だよねー」
「やってられないよねー」
そんな表面的な言葉を交わしていても、お互いが本当に思っていることなんて、知りようがありません。

隣の友達とグチを言い合っていても、
その隣の友達が実際のところ、どんな「思い」を抱いているのか…
本当に自分と同じような「モヤモヤ」が他人の心中に渦巻いているのか…
表面的な言葉では「同意」していても、その言葉の底にある本当の「気持ち」は、理解しようがありません。
同様に、相手が自分の「嫌な気持ち」「モヤモヤした感覚」を、本当に理解してくれているはずがありません。

結局のところ、一人一人が、自分独自の「モヤモヤ感」を抱えて生きているのが実態です。
せめて言葉だけで、他人とシェアした気になっているだけということです。

そして、その「言葉と表情だけでも他人とシェアする」時間さえもまた限られていて、やがては別れて、それぞれが一人で、モヤモヤした感覚を引きずって生きていかねばなりません。

表面的・一時的な「みんなと一緒」の感覚が、本質的・永続的な孤独感をどれほど救ってくれるのか。
それは焼け石に水というのが実態なのかもしれません。

「一人旅の人生」を理解したとき…

「行動」の結果は、結局のところ、それぞれがたった一人で受けて行かなければならない。
この「自業自得」の道理を理解することが、判断を誤らないためにとても重要なことです。

「みんな一緒だから」
という、表面的・一時的な安心感にだまされて、たった一人で遺恨を残す人生に染める行動をしてしまうことだけは、防ぎたいものです。

周りの人が何を言っていても、たとえ一緒に行動をしてくれても、それらの人はあなたの行動の責任を取ってはくれません。
というより、取りようがありません。
本当の意味で、他人の行動の結果を一緒に背負うことなどできないからです。

人に何を言われようと、周りが何をやっていようと、私が行動したなら、その責任は自分一人で背負う覚悟をするべきなのですね。
それが「自業自得」の道理を理解するということです。

仏教では、
「人間は、本質的にはたった一人で旅をしているようなもの」
と教えられます。
昨日から今日、今日から明日へと、自分の人生はどんどん進んでゆきます。
去年から今年、今年から来年へと、生活の場面はとどまることなく展開してゆきます。
それは、あたかも「旅」をして、情景が、場所が、どんどん変化してゆくようなものだから、「人間」は「旅人」だと、よくたとえられるのですね。

しかもその「旅」は、「一人旅」だと仏教では教えられます。
「私の旅が、どんな旅になってゆくか」
その結果は、結局は私一人で受けてゆくからです。
他人と一緒に、同じ結果を受けることなど、構造的に不可能だからです。

自分は自分で、自業自得の道理にしたがって、自分の行動の結果を受けてゆく。
他人は他人で、同じく、その人の行動の結果を受けてゆく。

だからこそ、自分の人生の決断は自らの責任のもとに下していく必要があるのですね。
「みんな一緒」の仮染めの安心に自分の行動を委ねてしまったなら、その結果をたった一人で受けてゆくときに後悔しなければなりません。

さてここまで話すと、
「では仏教では、他人との関わりは軽視するのだろうか?」
という疑問が出てくるかもしれません。

もちろん、
そういうことではありません。
軽視するのではなく、「縁」を選べきだ、と教えられます。

もし、自分にとって望ましい行動を促してくれる仲間がいたら、それを一緒にしてゆける友達がいたら、これは逆に心強い縁となりますよね。
「周囲の人の行動」という、人間にとって非常に強烈な刺激が、私に望ましい行動を促してくれるのだから。
そのような「縁」の中にいられたら、私の人生が加速的に輝き出すことでしょう。

だからこそ、「縁」を選ぶ、という視点がとても大切になります。
ただその選ぶ基準はもちろん、
「自分が本当に送りたい人生に向かえる行動を促してくれるか否か」
です。

あくまでも前提は、
「人生は、たった一人の孤独な旅路」
この理解があってこそ、行動においても、縁を選ぶにおいても、後悔のない選択ができるのですね。