人生を本気で生きるために不可欠のこと〜生死の一大事の重み〜

「今、何してる?」「生きてる」

「生死の一大事」
という仏教の言葉があります。

「生」「死」というのは、哲学でもよくテーマとされることですね。
核心の中の核心のテーマと言ってもいいでしょう。
そしてそれは、仏教でも最も大切なテーマとしているものです。

「生」は「生きる」で、「死」は「死ぬ」ということで、
どちらも重々しい響きのある言葉ですね。

「生」はポジティブなように思いますが、それでも重いことには変わりありません。
「生きる」とか「生きろ」とか普段あえて口にする事は少ないんじゃないかと思います。

「仕事をする」とか「旅行をする」とか「遊ぶ」とか「食べる」とか「スポーツをする」とか、
何か具体的な色々な行動のことを、普通、私達は考えています。
それらについて、「どうしよう…」ということを考えたり悩んだり、またそれを楽しんだりしているのが、私達の心の状態です。

もちろん、その土台であり前提であるのが「生きている」という事なのですが、
それはもう当たり前の事であって、あえてそのことを意識したり話題にしたりする余地は基本的にありません。

だけど、遭難に遭った時のような、本当に「生き残れるかどうか」の状況に陥ったら、
この「生きる」ということを強烈に意識することでしょう。

重い病気にかかって、余命はわずかで、本当にいつ命が尽きるとも知れないという状況なら、
「今、何している?」
と聞かれて
「私は今、生きている
と、本気で答えることもあるでしょう。

戦場のような命の危険にさらされるような場に自分の生徒たちが赴くような時なら、先生は心から
生きろ。生きてくれ。
という言葉を彼らに送ることでしょう。

「生きる」という事は、「死」の影がチラつくような極限的な状況に陥ったときに、強烈に意識するような事なのでしょう。
そうでもない状況であえて「生きる」事そのものを突き詰めて考える必要性は、ちょっと考えにくいのですね。
だけど、いや、だからこそ、
哲学という学問はその「生きる」に徹底的に目を向ける学問だと言えます。
当たり前とされている事で、今さらあえて意識する必要性が考えられないようなこの「生きる」ということ。
ある意味これは、人間にとっての「盲点」とも言えることです。

全ての営みの「大前提」に光を当てると

先程も述べた通り、あらゆる行動の「土台」であり「前提」となるこの「生きる」ということ。
こんな大切なことはありません。
私達が取り組んでいることはすべて「生きて」こその営みばかりです。
「生きている」という前提から切り離した営みは考えられません。
「仕事をする」も「旅行をする」も「遊ぶ」も「食べる」も「スポーツをする」も、
「生きている」という前提で成り立つ事ばかりです。
生きているから、そしてこの先も生きてゆくから、
「仕事」「旅行」「遊び」「食事」「スポーツ」…いずれもいずれも、私の問題となり得るのですね。

たまに「終活(しゅうかつ)」と言って、自分が「死ぬ」前提で、「死んだ」後のことを想定し、
その時に起きる様々な問題を今の内に考え、そのための手を打っておくということが為されたりします。
お墓のこと、財産のこと、家のこと、行政上の手続きのこと…
こういう事に当たるのですが、
しかしよく考えてみると、これは「死んだ後の自分の問題」というより、
「自分が死んだ後に残された他人の問題」に当たりますよね。
お墓を管理する当事者は、残された人たちですし、
残された遺産に関する当事者も、残された人たちです。
もちろんその他人は「生きている」人ばかりですから、やっぱり「生きている」前提の問題ばかりです。

私達が関心を向けている営みも、その根っこをたどれば必ず「生きている」ということにたどり着くのだから、
本当は、私達は常に間接的に「生きる」ことを追求しているといってもいいわけです。
それならば、その根っこにある「生きる」という事をもっと突き詰めて考えてもいいはずだし、
もっとこの「生きる」ことの本質を明らかにする努力をしてもいいはずです。

ところがその根本にある「生きる」とはどういうことかを、直接に問うようなことを、普段の生活上ではしないのですね。
むしろ、「避けよう」としている傾向さえあるように思います。
友達と楽しく会話しようとするとき、家族で仲良く団らんしようとするとき
「『人生』について考えているんだけど…」
なんていう発言、「ちょっと重すぎるよね…」という空気になることが容易に想像できてしまって、
なかなか出せない話題となってしまいます。

「生死の一大事」の重みが「生きること」の重み

では実際に、「生」を直接突き詰めるとどうなるでしょうか。
「生きてゆくために」なされる、「仕事」「趣味」「家庭の営み」「食事」などは一切削ぎ落として、
ただ「生きる」ことそのものを突き詰めて見つめると、
「生きる」とは、昨日から今日、今日から明日へと歩みを進めてゆくことであり、
その先にあるのが「死んでゆく」という事一つです。
「生」→「死」
この構図はどうあっても動かせません。

「生」を突き詰めて見つめたならば、必ず「死」に向き合うこととなります。
そうするともう、「うわぁー…」ですよね。
「一番考えたくないやつ、キター!」
ていうやつですよ。

「生」と「死」は、どうあっても切り離せないもので、そんな「生」を突き詰めて考えるほど、必ず「死」と向き合うことになる。
そういう関係になっているのが「生」と「死」なのですね。
紙の表と裏のように、切り離しようのないものが「生」と「死」です。

そして、「死ぬ」ほどの一大事は、私達にはありません。

こういうことを話すと、
死ぬことはそんなに怖いこととは思わない。ただ嫌なのは、病気とかで体が動かせなくなり、ベッドの上で管に繋がれたような状態で生きながらえてしまうこと。そうなってまで、生き延びたくない。死ぬよりもその事のほうが嫌だ。」
こういう話をよく聞きます。
たぶん、かなり多くの人がこういうことを思っているんじゃないかなと思います。

そういうことを聞くたびに思うんですね。
実際に管に繋がれて生きている人は大勢いるけれど、その人たちはどうなのだろう…?
本当に、その多くが心の中で「早く死にたい」と思っているのだろうか。

こんな場合の本人の気持ちを確かめることなんて難しいでしょうから、確認はできないかもしれません。
だけど、
「その管を外したら、自分は死ぬ」
本当にこの状況に立たされた人が、「管を付け続けるかどうか」を考えるのと、
「まだまだ今日も明日も当然に生きられる」
という「安全なところ」に立っているつもりの人がそれを考えるのとは、
それはもう天地雲泥ほどの違いがあるのは間違いありません。

もちろん、
「不自由な生活を強いられるなんて嫌だ」
「家族に迷惑をかけたくない」
その気持ちは間違いないでしょうし、その思いも決して軽いものではないでしょう。
こういうことは、かなりリアルに想像できることだと思います。
それに対して、
元気に、当たり前に生きていられる私達にとっての「死」は、想像のはるか遠い所にあるものです。
そんな私に想像できるのは、「他人の死」のみです。
他人目線でみた「他人の死」と、実際の「自分の死」は、同じハズがないことは誰だって分かりますよね。
同じ「死」でも、「他人の死」と「自分の死」とは、全く別物です。
そんな、似ても似つかないものしか想像できないのに、
「別に『死ぬこと』はそんなに怖くないけど…」
「そんな状態で生き延びるぐらいなら『死ぬこと』を選ぶよ」
というその「死ぬこと」は、一体どんなことを想像しての言葉でしょうか。

「生きている者にとっての死は、一大事です。これ以上の大問題は他にありません。」
仏教は、こう言い切って「生死の一大事」と言われています。
「生」を真面目に、突き詰めて見つめる人は、必ずこの「生死の一大事」という問題にぶち当たります。
「生」を見つめる人は、この「生死の一大事」を見つめる人なのですね。

すると、「生」の重みが全く違ってきます。そこに「生」のとてつもない重さを見ることになります。
だからこそ、「生」の営みに対しても、それだけ本気になれることでしょう。

「人生を本気で生きる」を真に実践するために、「生死の一大事」を観ることは、欠かせない事だと言えるでしょう。