「ささやかな平穏」が叶い難いと感じるのは…〜「平穏」を捉え直す〜

「私はただ、平穏な生活が欲しいだけ」が、叶わない…

「私はただ、平穏無事に生きたいだけなのに…」
「そんな大きなことは望まない。ただ、平和に生きることさえ出来たなら…」

いわゆる「ささやかな」望みとして語られるのが、
「平和な生活」「平穏な生活」「無事に生きられること」
こういう願いです。
別に、贅沢とか有名になるとか、そんな大それたことじゃなくていいから、
家族で仲良く団らんできる日々が続いて、
好きな人と一緒に楽しい時間が過ごせる日々が続いて、
自分の好きな趣味に没頭する時間がちゃんとあって、
そんな「ささやかな幸せ」がしっかり守られて、脅かされる不安なく過ごしてゆきたい。
それくらいは、叶って欲しい…
と、どれだけの人が望んでいることか知れません。

そんな私達の思いとは裏腹に、私達はそんなささやかな「平穏無事」さえも、なかなか叶わないのがまた現実なのですね。

一見平穏そうに見える暮らしにも、必ずどこかに「不安」が伴っているものです。
家族が病気がちで…とか、
子供がいじめに遭っているかもしれない…とか、
会社の経営が思わしくなさそうだ…とか、
夫が浮気をしているかもしれない…とか、
異動で遠くへ行かなければいけないかも…とか、
「平穏」を乱す可能性は、あっちにもこっちにも潜んでおり、たいていは何処かで既に現実化しているものです。

それはちょうど、モグラ叩きにも似ているかもしれません。
モグラ叩きというゲームは、
あっちからニュッと出て、こっちからもニュッと出て、見えないところからも、今まさに出てきそうにしていて、
そのゲームが続いている限りは、どこかしらに「モグラ」が絶えず出現してきます。

そんなモグラ叩きのように、私達の「人生」が続く限り、「不安」というモグラは、あっちこっちでスタンバイしていて、
絶えること無く平穏を脅かし、平穏を破り、常に「人生」は不安色に染まってしまいます。
「絵に描いたような平穏な生活」は、見えない部分で常に侵食に脅かされて、不安がついて回っているのが実態なのですね。
真の平穏はとても見つけがたい、シビアな世の中です。

だからこそ余計に
「平穏であれかし」
「無事であれかし」
の人間の願いは一層、切実なのでしょう。
どれだけ切に願っても祈っても、叶い難いものだからこそ、
古来より常に人間はそれを願い続けてきたのですね。

「平穏」と「無常」

「健康」「人間関係」「お金」
ビジネスをするなら、まずハズレのないビッグ市場がこの3つだと言われます。
確かに、この3つにさえ不安のない生活が送れれば、どんなにか幸せだろうと思いますよね。

体が元気で、朝もスッキリ起きられ、日中もしっかり働けて、ご飯も美味しく食べられて、夜はぐっすり眠れる。
体型もほどよくて、好感度もばっちり。
そんな「健康」を常に保っていたいと思わない人はいないでしょう。

家族からも、友達からも、仕事仲間からも、仕事上の顧客からも、
重要視されて、親しまれて、愛されて、素敵な関係がずっと保たれて、
また、新たな出会いが生まれてゆくような、「人間関係」に恵まれた生活に、誰もが魅力を感じると思います。

派手で贅沢な生活まで出来なくても、
家族で生活してゆく分には困ることなく、時に大切な人へ素敵なサプライズや旅行をプレゼントしてあげられて、
死ぬまで「お金」に困るようなことがない生活もまた、誰もが欲しいものです。

それでこの3つのテーマについての教材やコンサルタントは、手を替え品を替えて次々と世に生み出されて、大きな市場を成しています。
しかし同時に、この3つの悩みや不安は本当に絶えることはありません。
だからこそ、そこにビジネスが成り立つわけですが…

仏教ではこの世界のことを「火宅無常の世界」と言われます。
いま挙げたような、私達が心底守りたいと思っている「健康」も「人間関係」も「お金」も、
脅かされることなくずっと変わらず続くような「常」なるものは、何一つ「無」い。
「無常」とは、そんな極めてシビアな現実のことです。
そんな「無常」が世の真理だから、そんな世の中を生きることは、常に不安と隣合わせなのだと言われ、
それを「火宅(かたく)」のような世の中と言われます。
住まいとして安全を確保してくれているはずの「家」に火がついているような状態。
「安全」どころか、炎上の危機が常に迫っている、不安に満ちた世の中を生きているのが現実だということですね。

聞けば「えらいことになってるな…」というような現実ですが、
これは一部の人の特別な状況のことではありません。
万人の生きる世界の常の有様「火宅無常の世界」と言われます。

当たり前に「平穏」続かせるために

「平穏を守りたい」
と言いますが、それは「平穏」というものが存在するという前提で、
それを続かせるべく「守る」と言っているわけですけど、
真実を言えばこの「火宅無常の世界」に、固定した「平穏」なるものが存在しているというのが大きな錯覚なのですね。

私達は、一日一日…
いやもしかしたら一時一時…
安らげる瞬間を精一杯造り続けて、ようやく一定の安らぎを味わうことができている。
これが実態なのですね。

火宅無常の世界では、何も手を打たずにいたら、「無常」は容赦なく進行して、安らぎは崩壊へと近づきます。
それは、どんなに苦労して、どんなに確固たる平穏を築いたとしても、
「無常」の真理の前では関係がありません。

火宅無常の世界には、「平穏」という固定した実体がどこかにあるわけではなく、
常に、精一杯の努力で安らげる現実を造り続けるもの。

人間関係においても、健康面においても、経済面においても、
状況は常に、刻一刻と変化しています。
「誰に、どんな言葉をかけるか」
「どんな行動をするのか」
「どんな勉強を、どんなチャレンジを、してゆくのか」
そんな「行い」の連続、「打つ手」の連続を、ずっと絶やさないことで、今日の平穏、明日の平穏…と、造り続けるものなのですね。

「なんだかそれ、とってもしんどい…」
と思われるかもしれません。
それよりも
「平穏が続きますように…」
と、祈っていたい、願っていたい。
そこに希望を持ちたい、と思うかもしれません。
そんな、祈りの対象となるような「平穏」が存在すると信じていれば、
そんな「常」なるものがあると信じていれば、
「行動し続けること」、「手を打ち続けること」が、何か特別な努力のように思うかもしれません。

けれど真実は「常」なるものは無く、固定した「平穏」なるものも存在しない。
私達が「行動」を積み重ねることで、その時その時「造り続けているもの」「平穏」と呼んでいるものの実体である。
このように見れば、
「行動の連続」なんて、何ら特別なものではない。
「当たり前」のことだと気が付きます。

「火宅無常の世界」を常にベースの理解として、
当たり前のように、息をするように、常に「最善の行動」を探ってゆき、それを常に実行してゆく。
そういう「習慣」を身につけることこそが、「平穏」を味わうための道理にかなった方法と言えるでしょう。