世界は残酷な程シビアだけど「可能性」は無限に輝かしい〜「輪廻」と「出離」を知る人生観〜

「絶望」を知る強み

「人生に絶望する」
という経験をした事があるでしょうか。
「ああ…人生オワタ…」
まあ、これくらいの表現が出来るうちはまだ心の余裕があるのかもしれませんが、
未来に明かりが全く見えなくなって、一歩も前へ進めなくなるような「絶望」は、本当の危機と言えるでしょう。
本気で、自ら人生に終止符を打つことを考えてしまうかもしれません。

そういう経験を乗り越えて、今日まで生きてきたという人は、本当に強いと思います。
自分なりの絶望とはいえ、「人生に対する絶望を知っている」事は強みとなるでしょう。

突然だったり、ジワジワ追い詰める形であったり、状況は色々ですけど、
これまで信じていた可能性が見えなくなってしまい、未来に希望が持てなくなってしまう。
なんていう「絶望の経験」は、誰もがいつかは味わうもので、人によっては何度も何度も味わう事もあるでしょう。
「そういう所を乗り越えるものが人生」
という認識があるのかないのかで、その向き合い方は全く違いますよね。

そんなシビアな現実を端的に表されているのが、
「輪廻」という仏教の言葉です。

誰だって、人生に対して希望を持って生きたいですよね。
というか、希望がゼロだったら生きてはいけません。

この大学に受かればきっと、素敵な人生が開けてくる。
この人と結婚できれば、日々が幸せに満ちあふれてゆく。
この会社に入れば、充実した生活が待っている。
この仕事がうまくいけば、未来は明るくなっていく。

今、自分が苦労している事や悩んでいる事や挑戦している事の、その先に「幸せ」が待っている。
この希望なくして、私達は一歩も進むことなどできないはずです。

そんな私達にとって「輪廻」という現実は本当に残酷です。

「輪廻」とは「輪っか」が「廻る」ということで、円周の周りを終わることなく周り続けるように、
いま味わっている苦しみを乗り越えた先にはただ「繰り返し」が待っている。
車輪が廻り続けるように、新たな、新たな苦労が際限なく現れて繰り返される。
そんな現実を「輪廻」と言います。

「人間は、どう生きようが『輪廻』している」
「苦労」という坂道を乗り越えた先にあるのは「幸せ」という楽園ではなく、
「新たな苦労」という坂道がその先にも続いている。

こんな極めてシビアな現実を仏教では「輪廻」という言葉で教えられるのですが、
これでは、本当に救いがどこにもないじゃないか…
と、誰もが思うこんな事を、どうして仏教ではわざわざ教えられるのでしょうか。

思いがけない「可能性」の芽生え

仏教が究極的に目指すことは、
この「輪廻」から出て離れてしまうことなのですね。
果てのない苦しみの「輪」に、終止符を打ち、
この世に生まれてきた喜びが心から満たされること。
これを「出離(しゅっり)」といいます。

この「出離」を、果たせる可能性が開かれている所が「人生」であると仏教は説いています。

「人生には無限の可能性がある」
と声高に唱えられる事はよくあるけれど…
だけど、いくらなんでもそんな「輪廻」から出て離れてしまうなんて事は、無理なんじゃないか…?
と、反射的に思うかもしれません。

大金持ちになる事は、あるかもしれない。
ノーベル賞を取る事なら、あるかもしれない。
運動競技で世界記録を出す事なら、あるかもしれない。

よほどの努力を重ね、素晴らしいチャンスに恵まれれば、そんな「成功」を掴む可能性は開かれていると言えるでしょう。
しかし「輪廻」という絶望的な現実そのものを、解決してしまうなんて、
そんな「出離」を、この人生で果たしてしまうなんて、
そんなことはあり得ないのではないか?

それは、「非現実的な事」だとか「空想的」だとか、
或いは、それはもう「人間をやめる事だ」とか、
この「輪廻から出離する」という事は、私達の「人生」にありえない事として、捉えられてしまいがちな事なのですね。

もしかしたら、これまでこのブログを読んでくださってきた方たちもここでは、
「いよいよ、おかしなことを言い始めた…」
と、思われたかもしれません(汗)
ですが、「人生には無限の可能性がある」とか「人生、諦めてはいけない」とか世の中では言われるのに、
どうしてこの事に限っては、
「可能性ゼロ」
「それは諦める他ない」
という思考になってしまうのでしょうか。

これは、私達がそんなことを想像できないからなのですね。
私達が「これなら出来る!」と思えることとは、「想像できること」です。

「鉄棒の逆上がりが初めて出来た時」を、覚えているでしょうか。
バック転が出来る人は、その「バック転を初めて成功させた時」を覚えているでしょうか。
ああいう時の感動は、忘れられないですよね。
「自分の体で、こんな動きが出来るのか!」
という事を、身をもって知った瞬間ですから、世界が広がったような気分になります。
いや、実際「広がった」と言えるでしょう。
そして一度そのイメージが分かってしまうと、後はもう難なくできるものですよね。

こういうことが、
わりとすぐに出来る人と、
出来るのに時間がかかる人、
あるいは一生出来ないままで終わる人と、
そこには差が出るのですが、この差はまさに「イメージ出来るか、出来ないか」の差と言えます。
逆上がりぐらいなら、たいていは、先生か誰かが補助してくれて、その力を借りて「出来た」というイメージを一度もたせることで、
最後には出来るようになっている事が多いでしょう。
だけど、最後までどうあっても自分で「出来る」というイメージが持てなかったら、最後まで出来ないままです。

これはどんな事にでも言えるのですね。
「『起業』なんて、とても自分に出来ることではない」
と言う人の多くは、「自分が起業する」姿が全然イメージ出来ない人でしょう。
「自分に美人の彼女を作るなんて、あり得ない」
と言う人の多くは、「自分の隣に綺麗な彼女が楽しそうに歩いている」なんて情景をリアルに想像しようがないはずです。

仏教では、私達は「輪廻している」と説かれます。
その現実そのものなら経験上、理解できると思います。イメージも出来ると思います。
「なんだか、繰り返しているなあ…」
と、しみじみ実感する人は本当に少なくないのですね。
だけど、
「その輪廻から出てしまう」
なんて、自分がそうなれるイメージが、沸きようがないのですね。
仮にイメージしたとしても、何やら怪しげな「神秘体験」なるものか、インチキ教祖に騙された思い込み体験ぐらいです。
「本当に出離する」とは、どういうことなのか…
これは想像も及ばないことです。
「そんな想像の及ばないことは、自分には不可能」
という思考に至ることは無理からぬことです。

だけど本当は、
「今は想像出来ない」という事と「不可能」という事は、違いますよね。
「想像が出来ない」というだけで「可能性ゼロ」と決め込むのは、大きな誤りです。
それはただ、現在の私にそのような因縁が揃っていないだけです。

この先の人生の因縁次第で、
これまで出来たことのない事だって、
自分の想像出来ないことだって、
ほとんどの人が想像できないことだって、
起きる可能性はいくらでもあります。

「『輪廻』から、私が本当に出て離れてしまう。」
そんな因縁が自分に揃ったならば、自分の人生にそれが果たせる事はあり得ます。

「0」と「0.000・・・1」が天地雲泥の差に

「まあ、確かに…『可能性ゼロではない』ということは言えそうだけど…
だけど、そんな微々たる可能性を認識した所で、何か変わるのか?」
そう思うかもしれませんが、
「輪廻から出離する」ことが、
「全く不可能」と思って生きるのと、
「可能性はゼロではない」と思って生きるのとは、
全く違います。

「0」か「0でない」の違いは、とてつもなく大きいのですね。
「0」には、どんな大きな数字をかけても「0」のままで変わらない。
だけど、
「0」でなければ…
たとえ「0.00000000・・・・1」であっても、何度も何度も数をかけあわせるうちに、巨大な数字となることがあります。

これまでは
「この人生で『輪廻』から離れることなどは不可能」
という「可能性ゼロ」の考えで生きてきた人は、
今日、この瞬間から、「可能性ゼロではない」という考えで生き始めれば、その後の人生の「意味」が、とてつもなく変わってゆきます。

仏教で教える「輪廻」の現実は、ある意味本当に残酷です。
この実態を深く理解すればするほど、
こんな「輪っかをグルグル回ることの繰り返し」に、どんな意味があるのか?
という虚しさが、日頃のあらゆる努力について回ります。

だけど、
これからの人生で求める「因縁」次第では、この輪廻から出離できる可能性は、ある。
そう理解した時から、その「絶望」や「虚しさ」に変化が起きてきます。

自分の人生に「輪廻から出離できる因縁」が揃う可能性は、ゼロではない。
その因縁について知っている人と出会えるかもしれない。
何かの本で見つかるかもしれない。
何かの経験で、その手がかりを掴めるかもしれない。
たとえ、もう治らない病気に倒れて余命が僅かとなっても、臨終の間際に答えに辿り着くかもしれない。

私の人生のどこかで、この輪廻から出離できるという可能性はゼロではない。

そうだとすれば、
その「出離の因縁」を知るまで「生きる」ことにはとてつもない価値があると、言えます。
「輪廻」の現実の中で生きる「絶望感」も「虚しさ」も、
「輪廻からの出離」を知った時から、一転し、それは、限りない希望となり、意味に満ちた生活と変わります。
何一つ無駄なことは人生には無いと言い切れるわけです。

今、あなたが感じている可能性が「0.1%くらい…?」な感覚だったとしても、
これからの学びや経験から、「1%」、「2%」…と確信が増してくるかもしれません。
その確信が高まれば高まるだけ、日々の努力の意味に対する確信が高まります。
「全ての努力には、紛れもない意味や価値がある」
この事が、より深く感じられるようになっていきます。

「可能性はゼロではない」
は、ただの気休めではありません。
まず、「そう思える」という所から何でも始まるのだから、とても大切な第一歩です。
その第一歩を、踏み出したのか、踏み出さなかったのか、
この違いは人生に天地雲泥の違いを生み出すことでしょう。

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