「不安を無くしたい」願いの「超」現実的な叶え方~無常をベースに挑む人生~

「不安を無くしたい」と願う私達への古来からの教訓は

「やっぱり、副業でもしたほうがいいかなあ…」

ついさっきまで色んな話題で会話が盛り上がっていたのだけど、
少し曇り気味の表情になって、ふとそんなつぶやきが出てくる。

こういう事は決して珍しい事ではないと思います。

誰もが心のどこかで抱えている
そして時折、如実に吹き上がってくるのが、
「将来の経済的な不安」
というものです。

今は楽しくても、明るく振る舞えていても、
どうにも消えない将来への不安は、
その明るく楽しい日常に陰りを落としてしまいますね。

そして誰もが、将来の不安を無くして、
「安心して笑っていられる未来が保証される」
ことを願ってやみません。
そんな世の中のニーズに答えるべく、
さまざまなビジネスや投資や保険がテレビやネットの中で宣伝されています。

そんな、不安を常に抱く現代人に対する古来からの教訓が
「無常を観なさい」
という事です。

仏教に、
「諸行は無常なり」
という教えがあります。
これは有名で、きっと知っている人が多いですよね。

全てのものには「常」が「無」い。
どんなに苦労をして築いた安心も幸せも、決していつまでも続くものではないという事です。
この事実は、私達の今の「安心」が、いかに危ういモノであるかを教えてくれます。

「安心」と言ったら、私達はとりあえず、
「お金に困らないこと」
これこそが安心要素だと思いますよね。
確かにこれは間違いない事です。
だからこそ、私達が将来に抱く不安の多くが経済的なものなのですね。

銀行口座に、ちゃんとある程度の蓄えがある。
そこから引き出せば、必要なものを購入することが出来る。
この状況がどれほど私達の「安心」を支えてくれているか。
その「蓄え」が底をついた時の不安を想像すれば誰だって分かります。

だけど、今の「安心」を支えているものって、お金だけではないですよね。
「この体にどこも異常がなく、健康が保たれていること」
「家族が健在でいてくれること」
「つながろうと思えば繋がれる、友人や仲間がいてくれること」
「スポーツやバラエティーなどの楽しませてくれるモノが何かしらあること」
意識しているもの、していないものも含めて、実に数多くの要素が揃って、
今の自分の「安心」が守られているというのが実態です。

そしてそのいずれか一つでも脅かされると、とたんに「不安」が吹き上がってきます。
そして、仏教では、そのいずれもが「無常」だと説くのですね。

そうすると、仮に自分の人生で、盤石の経済的な対策が整って、
「もうお金に困ることはない」
と言える状態になったとしても、

妻の、夫の、浮気の気配がよぎる…とか、
健康診断で、「要再検査」の通知が来た…とか、
子供が学校でいじめられているようだ…とか、

思わぬ所の「無常」から、思わぬ不安がやっぱり吹き出して来るという事なのですね。
そう考えると「無常」とはなんとも残酷な事実です。
私達がこの人生で求めてやまない「安心」を、ことごとく、色んな角度から脅かしてくるのですから。

安心を求めてやまない私達に、
仏教は、「この無常という現実を、ごまかさずに直視しなさい」と説くのですが、
その真意はどこにあるのでしょうか。

「幻想」を追い続ける苦しみから脱却すると…

「諸行は無常なり」の真理を私の人生に当てはめると、出てくる結論は明らかですね。

「私が求めているような『もうこれで安心』なんて言える状態など、本当は何処にもない」

という事です。
これは本当に、残酷な現実に違いありません。

だけど、きっとこれは誰もが薄々は気がついていることだと思います。
本当はこの地球上で誰一人として、
「盤石の安心が得られて、不安など皆無」
なんて人なんていないのだろう。
そんな事は、本当はみんな知っている事ですよね。

なのだけど一方で、
「いつかは、不安から解き放たれた盤石の安心状態になれるのではないか」
という幻想をどうしても手放せないのもまた人間です。

だけど、そんな幻想を抱いて、
盤石の経済、盤石の人間関係、盤石の…
と、「安心」の要素を必死にかき集めようとしていても、いつまでも、
「求めても、求めても、得られない」
という不安の中で生きなければなりません。

「諸行は無常なり」
の事実をどうしても受け入れられない。
実はここに、いつまでも苦しまなければならない原因があるわけです。

「諸行無常」の真理を心から理解して、「無常」をベースとして生き方を模索してゆく
この考え方にシフトしなければ、幻想を追いかけ続ける苦しみからは脱却できません。

あらゆるものは無常で、
いつ何時、今の安心要素が崩れて、
「さあ、どうしよう、どうしよう…」
という危機が訪れてもおかしくない。

これを前提として生きることを覚悟する必要があるのですね。

どうしても私達は、
「こうしていれば、大丈夫、このペースでやっていれば心配はない」
というような「安定」を欲してしまいます。
その「安定ペース」を乱すようなイレギュラーなんて、来てほしくないわけです。

けれど、それは叶わないことです。
来てほしくないイレギュラーは、私の人生にはガンガン来ます。
誰の人生もそんなようになっているのですね。
この事実から逃げられないなら、もう向き合うしかありません。

どんな「安定」を築いても、それを乱すイレギュラーはどこからでもやってくる、いつでもやってくる。
そんな「無常の世界」を前提として、
そのイレギュラーの連続に立ち向かっていくのが人生だ。
そういう覚悟をするしかありません。

最も現実的な「不安の解決」とは

「無常を観る」と聞くと
「あれも、当てにならない」
「これも、心もとない」
「この人も、いつ裏切るか分からない…」
という疑心暗鬼に陥って、不安いっぱいに陥る事のように思うかもしれませんが、そうではありません。

「無常を観る」事は、「人生そのものに対する向き合い方」をガラリと変える事につながるものなのですね。
私の生きる世界は、そういうものなのだ。
いつ、何が崩れて、どんなイレギュラーが現れてもおかしくないものなのだ。
そういう世界観、人生観を持つという事です。
そして、その理解をベースとして生きるという事です。

確かに、イレギュラーは手を変え品を変えやってきます。
「こんなの、どうすればいいか分からない…」
そんな「ご新規」のトラブルも現れるでしょう。
この現実は、どんな人生を送ろうとも変えようがありません。

だけど、
「どんな問題が現れようとも、必ず『打つ手』はある」
という事を確信して人生に挑んでゆけるようになることは、出来ます。

「何でも解決出来ます」
とは、さすがに言いません。

「もう、治らない病気にかかってしまった」
という事もあるでしょうし、
「大切な人を亡くしてしまった」
となれば、もうその人との幸せな日々を取り戻すことはできません。
そういう意味で「取り返しのつかない」事は幾つもあります。

だけど、それでも生きている限り、私の人生は続いてゆくのですね。
そして命のある限り、「何も出来ない」なんてことはありえません。
どんな過酷な運命に見舞われたとしても、
その現実を前に「自分の打つ手」は、必ずある。

この事を教えているのが「因果の道理」です。

人生は、因縁次第でどうにでも変わるものと仏教では教えられます。

「因」は、自分の「行い」のこと。
「縁」は、自分以外の人や物や様々な環境のことです。

この「因」と「縁」とが揃って、私の人生は善くも悪くも展開してゆきます。
今の自分の人生の現状は、これまで自分が積み重ねてきた「因」と関わってきた「縁」とで造られています。
これからの自分の人生は、これから求めてゆく「因」と「縁」とでまた、造られていきます。

どんな状況に陥っても、
次に自分が
どんな因を造るか
どんな縁を選ぶか
によって、現実は確実に変わってゆきます。
善き因、善き縁を求め続ければ、必ず善い方向へと現実は変わってゆきます。

「因縁」は、必ず自分の人生の結果を生み出す。
これが「因果の道理」だからです。

この事は、別にあえて「因果の道理」とか「因縁」とかいう話を聞かなくても、日頃から心得ている事だと思います。
「行い」を大切に
「縁」を大切に
そして、常に、「行動」と「環境」を整えて善い人生を送ってゆこう。
誰もがそう思って生きているはずです。

ところが、嫌〜な不安がよぎったり、
予想外のトラブルに見舞われたり、
信じていたものに裏切られてしまったり、
そんな逆境が積み重なった時に、私達に「惑い」が起きてきます。

「因果の道理が見えなくなる」という「惑い」です。
一度惑い始めると、
選ぶべき「因」も「縁」も見えなくなって、
「打つ手」を見失ってしまい、
活路が閉ざされてしまいがちなのですね。

そんな時に問われるのが、
「無常」をどれほどごまかさずに観ているか、
そして、
「因果の道理」をどれほど自分の指針と出来ているか、という事です。

不安に見舞われ、イレギュラーな事態に遭遇した時こそ、
「因果の道理」に照らして、「因」と「縁」を真剣に模索する「実践」をすべき時なのですね。
その積み重ねがいつしか、イレギュラーに負けない、不安に負けない自分を築き上げることでしょう。