「変われそうだったのに、変われなかった」と失望する前に~消えない因縁~

あの時確かに「変われる!」て予感がしたのに…

「自分を変えたい」
と思って、
自己啓発系の本を読み漁ってみたり、
心理学や成功哲学のセミナーに出て話を聞いてみたり、
ブログを読んでみたり、

そういう勉強をすることで、自分の心に確かな変化を感じることがあると思います。

「そういう考え方があるのか」
「そんな視点を持つことができるのか」
「そんな生き方があるのか」

熱心に勉強すれば、そんな気付きを得ることは少なくないはずです。

現代は、そういう価値ある知識を得るチャンスがとても開かれていますよね。
インターネットで探せば、
書籍でもセミナーでもイベントでもブログでも、
「知識」を得るチャンスはいくらでも見つかります。

当たり外れはもちろんあるでしょうけど、知識を得ること自体は、今はそんなに難しくないのかもしれませんね。

では、そんなチャンスの増加に伴って、多くの人が、
現実に、自分の生活に思い通りの変化を起こせていて、望む人生を堂々と歩めるようになれるものかというと、
必ずしもそういう訳でもなさそうなのですね。

よく言われるのは、
セミナーに参加した時は、確かに心の変化が感じられた。
書籍を読み切った時には、自分の中に熱いものが感じられた。
変われる「予感」が、確かにあった。

そうなのだけど、現実はやっぱり毎日同じような日常の繰り返し。
朝、決まった時間に起きて、会社へ行って。又は学校へ行って。
いつもの同僚や友達と一緒に過ごして、一日が終わる。
そんな「日常」を繰り返しているうちに、あの時に感じた「熱い変化」が、だんだんと薄れていって、
あれ…?あの時、あんなに変わりそうな予感がしたのに。
結局現実って、そうそう変わらないものなのか…
そんな、失望にも似た思いにかられるのですね。

「自分を変える」の構造を解明

仏教では、私達一人一人の日々の「現実」は、「一人一人の因縁が揃って生じているもの」と教えられます。
「因」「縁」とで、私達の現実は構成されているということですね。

ここで「因」と言われるのは、私達の「行動」のことです。
生活するということは、「行動の連続」と言えます。
朝、目を覚ましてから、顔を洗って、着替えて…といったルーティンの行動も「因」となりますし、
家族や友人にどんな言葉をかけるか、困っている人を見てどんな行動をするか、イラついたときにどんな言動をとるか、
これらも全て私達の「因」となります。
日々、何かコツコツ勉強したりトレーニングしたりしている事があれば、それらも「因」の積み重ねとなります。
私達は意識する、しないに関わらず、様々な「行動」の連続で生きている、
ということは、膨大な「因」を日々積み重ねて生きているのですね。
それが、私達の現実を生み出す「因」です。

一方で「縁」とは、私達の「環境」のことです。
どんな町に、どんな家に住むか。
どんな人と付き合うか。
どんなサイトにアクセスしているか。
どんな物に囲まれて生きているか。
これまた意識する、しないに関わらず様々な「縁」を選び、私達はその「縁」の中で生きているのですね。

日々、積み重ねている「因」が、様々な「縁」と結びついて、
すなわち、因縁が揃って、
私達の現実は時々刻々と展開されているというわけです。
もっと言えば、それが私にとっての「世界」です。

普通、「世界」と言えば文字通り「この世の中」のことで、
宇宙があって、地球があって、日本という国があって、自分の町があって…
その「世界」の中に、私がいて、この人がいて、あの人がいて…
そんな「絶対的な一つの器」みたいなものを「世界」としてイメージすると思います。

仏教の世界観は、
「絶対的な一つの器」としての「世界」は、始めから存在しないと説きます。
私達一人一人の独特の「因」と「縁」によって、一人一人の独自の「世界」を生み出して、私達は生きている。
だから、みんなそれぞれ違った世界に生きている。
共通した一つの世界などというものがあると思うのは錯覚である、ということです。

だから、
「自分を変える」
ということは、そのまま
「自分の世界を変える」
ということになるのですね。

その「変われた…?」は、まやかしではない

私達は、自分の現実を変えようとして、つまり、自分の世界を変えようとして、
何か新しい知識を得ようと勉強する、という事があります。

これは、「セミナー講師」や「書籍」や「サイト上のブログ」のような「縁」に触れて、
一生懸命勉強するという「因」を造り、
その因縁によって、新たに世界を生み出していっているという事なのですね。

新たな知識に触れているのであれば、それは間違いなく、新たな因縁が出来ている事になります。
だから、確かに自分の「新たな世界」は造られているのですね。

「勉強をして、確かに自分の心に変化が起きた。熱いものがこみ上げてきた。」
これは確かに、新たな因縁によって、自分の世界に変化が起きて、新たに世界が広がった事に他なりません。

ところが、「それが一時的で終わってしまう」と感じることも少なくないのですね。
その「変化」の後に、またこれまでの日常の生活が続いてゆくうちに、
「あの変化」が過去のものとなってしまい、
「あの時は、燃えたよね、熱くなれたよね。だけど、結局私は変わらなかったなあ…」
そんな感覚を覚えるかもしれません。

だけど、本当に「結局変わらなかった」のかというと、決してそうではありません。
新たな因縁を造った以上、間違いなくあなたの世界は広がっています。
たとえ、その後またいつもの日常に埋もれてしまって、
あなたの意識からその世界の認識が消えかかっているとしても、
「あなたの世界」が広がっているという事実は消えません。
ただそれを忘れているか、認識しなくなっているだけです。

「学びに無駄なことなんてない。学んだ以上、必ず自分の中に何かしら残っているのだ。」
とよく言われますが、それは全くその通りで、
新たな因縁によって、新たに世界の広がりが得られていることには、間違いありません。

それが、日常の因縁に埋没してしまい、まるでその「広がり」が無かったように思えるだけです。
もし、改めてセミナーを聞いたり、本を読み返したりして、「縁」に再び触れたならば、その世界の広がりの感覚を思い出すことでしょう。

という事は、私達の課題は一つです。
その「新たな因縁」を、日常の中に取り入れるという事なのですね。

ただ勉強して知識を得た、というだけの段階では、
私達の「因」は、ただ「学び」のみであり、「イメージする」という事ぐらいですよね。
だから、世界が広がったといっても、それはあくまで私のイメージ上の世界に過ぎないわけです。
もちろんイメージであろうが、私の世界には違いありません。
だけど、リアルに五感で感じられる世界では、まだないのですね。

まだ、イメージ上の世界でしかないものを、いかに、リアルに五感で感じられるぐらいの世界にするか。
そのためのステップが、
その新たな因縁を、自分の日常に取り入れてゆくという事です。

自分の日常の中で、そんな新たなチャレンジをするチャンスは、いろんな場面にあるはずです。
あなたが「価値ある知識」として学んだものは、日常と何ら関係のない知識ではないでしょうから。
少しずつでも、小さな形でも、日常の中に新たな「因」を取り入れていく。
そのステップを踏むことは、自分の世界をリアルに感じられるように変化させるためには欠かせません。

また、新たな「縁」を、自分の日常に組み込むのも、大切ですね。
たとえば、新たなコミュニティに参加して、継続してその縁を持つ。
それが週に一回でも月に一回でも、続けて関わることでその縁は日常に取り入れられていきますね。
自分の目指したい人と、良い関係を継続的に持つことができれば、それも大きな縁の変化が日常に起きていると言えますね。

そうして、新たな「因」と「縁」とを自分の日常に取り入れる。
それによって、せっかく勉強をして広がった世界が、もっともっとリアルに感じられる世界へと変わっていくでしょう。

「学んだこと」「勉強したこと」
それは決して無駄ではありません。
確実に、その因縁によってあなたの世界は広がっています。
広がった世界を、リアルに感じられるものとする「次のステップ」がその学びの上に重ねてゆくかどうか、
ただそれだけの事なのですね。