「あの人の行動がどうしても許せない…」その心の正体は〜心に抱く「善悪」〜

うっかりと「他人の正義」を犯してしまい…

「ちょっと…あなたのその行動は、どうかと思うけど…」
急に、思わぬところから「咎め」の声が入ることがあります。

え…何か気に触りました?
あなたに何か、危害を加えることがありました?

なんて、思う相手が、自分に腹を立てて咎めてくるという事があります。
…経験、あるでしょうか。

自分のせいでその人が恥をかくことになったのなら分かる。
その人の食べ物を私が食べてしまったのなら、分かる。
何かしらの「損」をその人にさせてしまったのなら、分かる。

だけど、何の損害も被らせていない相手から、
「あなたのその行動は、気に入らない」
という咎めが入ることが、時に起きてくるのですね。

それは一言で言えば、
その人の「正義」を犯した
という事なのでしょう。

誰にでも
「こういうことが正しい」
という、その人なりの「正義」というものがあるのですね。
「正義」と言ったら大げさに聞こえるかもしれませんが、その人の「価値観」と言ってもいいですよね。
「時間きっちりは守らなきゃいけないもので、むやみに他人に『待たせる』なんてとんでもない」
「周囲に困っている人がいたら、見てみぬふりせずに、助けてあげるのが当然」
「目下の人は、目上の人へ自分から進んで挨拶をするのが常識」
などなど、色々ありますね。
面白いなと思うのが、その「こだわり」のポイントが、人によって実に様々なのですね。
親のしつけの影響だったりするのかなとも思いますが、
同じ家庭で育った兄弟でも、驚くほど「正義」のポイントが異なることも珍しくありません。

私も、自分では他人の行動に対して寛容な方だと思っていたのですが、
社会の色々な場面で色々な人と接していると、
「なぜか」苛立ちを感じてしまう…
そんな他人の言動に、いくつも遭遇してしまいます。
特に自分が被害を被ったわけでなくても、「気に入らない…」と感じてしまう行動は色々とあるものです。
その度に、
「自分はこんなにも色々なことを『正義』として抱いていたのだな…」
と思い知らされます。

そんなこだわりの強い「正義」を抱いている人ほど、
その「正義」に反する行動は、たとえ自分に関係なくても気になって仕方ありません。
そして時には直接に、その行動を咎める事さえあるのですね。

自分の信じる「善悪」という信念

仏教では「善」「悪」という言葉が出てきますが、
私なりの「善」、私なりの「悪」というものがあるということですね。
強くこだわりをもっている「善」もあれば、
ひどく嫌悪している「悪」があり、
他人に対しても、そんな「善悪」を基準に評価・判断しています。

歎異抄という有名な仏教書があるのですが、
そこにはこの「善悪」について、
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」
という、非常にインパクトの強いくだりがあります。
「何が善やら、何が悪やら、全く分からない」
本当は人間の実態はそんな有様なのだということを教えられています。

これは、先程から述べている私達の「思い」とは、完全に相反するものです。
他人の行動に対して、
「ああいう言動はどうかと思うな…」
「あんな犯罪は、身勝手極まりない、許されない行為だ」
などと違和感、苛立ち、時には強い憤りさえも抱くのは、
「正義に反する」
「悪の所業だ」
という評価をして、それを責めずにいられない心なのですから、
「何が善やら、何が悪やら、自分には全く分からない」
なんてとても思えない心なのですね。

強く信じている「善」があり、
それに反する許されない「悪」があり、
自分自身、その「善悪」に従って生きているし行動している。
だからこそ他人に対しても、そういう基準で尊敬したり疎んだり、時には苛立ちさえ覚えたりしています。
言葉上では、
「本当は、私は何が善なのか、何が悪なのか、分かってなんかいない」
などと言うことは出来ても、腹底ではそんなことを思ってはおらず、
自分に対しても他人に対しても、自分の信じる「善悪」を至上のルールとして課している心があります。
だからこそ、他人の「とても許せない行動」というものが一人一人にはあるのですね。

もちろん、そのこと自体はとても大切なことだと思います。
そんな、いわゆる「信念」がなければ私達は一貫した行動を取る事ができません。
「善悪」を強く信じているからこそ、
「こうすべきだ」と判断した行動に踏み出すことが出来るのであり、
そんな行動を絶えること無く続けることが出来ます。
私が今、こうしてブログ記事を1年を越えて書き続けていることも、私の信じる「善悪」に従っての事に他なりません。
様々な価値観が錯綜し、どこの職場でも家庭でもコミュニティでも、複雑に利害のぶつかる状況が展開していますが、
そんな中でも私達は「行動」を選択し、その「行動」に踏み出し、またそれを継続していかなければ、
流されて右往左往するばかりという事になってしまいます。

「自分の行いが、自分の未来を切り拓いてゆく」
これが仏教が教える「自業自得(じごうじとく)」の教えです。
自分が未来に得ようとする結果は、自分の「業(ごう)」が造ってゆくということで、
「業(ごう)」というのが、「行動」のことです。
私達が自分の未来を切り拓いて生きてゆくには、自分が「善」と信じた行動(業)を積み重ねてゆくしかありません。

「善悪」の正体を見抜く視点

けれどそんな時に、
同時に念頭においておきたいことが先程の歎異抄に書かれた
「善悪の二つ、総じてもって、存知せざるなり」
という真実です。

本当のところは、
「何が善なのか、何が悪なのかを知り、判断する力は私達には毛頭ない」
というのが人間の限界なのですね。

「公正な視点で、客観的判断を下して自分は動いている」
そう信じたいところですが、私達を動かしているのはあくまで私達の「心」です。
その「心」には常に「自分の都合」というものがついて回ります。
こうなってくれたら、都合がいいな…
こうなると、都合が悪いな…
そんな「思い」は、常について回り、そんな「都合」から離れて何かを「判断する」など、とうてい出来ないのが人間です。
「都合」とは、もっと有り体に言えば「煩悩」であり、自分の「欲望」です。
「都合がいい」とは、「自分の欲が満たせる」ということであり、
「都合が悪い」とは、「自分の欲が満たされない」ということです。

「他人から評価されたい」
「収入をもっと増やしたい」
「好きな人にいい所を見せたい」
「面倒なことはしたくない」
などなど、様々な欲望が複雑に絡み合って、常に私達の心の奥底では動きづくめなのですね。
それが「私の都合」というものを形成し、そのまま「善悪」の判断に強く影響してゆきます。
「人間の心」に、常にそんな欲望が満ち満ちている限り、そんな心で見出す「善悪」もまた、私の都合の産物と言わざるを得ません。
「道理」に即した純粋な「善悪」の判断には、程遠いのが私達が抱く「善悪」の信念なのですね。

どうして、自分の信念に反する他人の行動に腹を立てるのか。
その実態は、言えば身も蓋もないのですが、「自分の都合に反する」事に他なりません。
自分の欲望に関係のない事ならば、感情的に腹を立てるような事などありません。
「信念」として形成した「私の都合」に反している事自体が、私達はどうしても気に入らないという事です。

「信念だ」と言っても、「正義だ」と言っても、「善悪」と言っても、
その実態はどこどこまでも煩悩に突き動かされており、自分の都合で動いている。
そんな「人間の真実」をよく心得ておくことは、とても大切なことです。

「こんな事を言うなんて、信じられない…!」
「こんな行動を、どうしてこんな時にやってしまうのかな…」
他人の言動に対して、抑えがたい感情にかられる事は多々ありますし、
逆に、やけに他人から嫌われているような、疎まれているような気がして、
「自分は駄目なのかな…」
と落ち込むことも、多々あります。

他人を批判するにせよ、自己を反省するにせよ、必要以上に感情的にならないためにも、
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」
の「人間の真実」を念頭に置くことは、冷静に立ち返る大きな助けとなることでしょう。