「世界規模の脅威」の中だからこそ見えてくること~悪縁の中で種を蒔く~

世界中が意識せざるを得ない「脅威」

今、ワイドショー番組をつけたら何がやってるか。

ほぼ一択、コロナですね。

会社の昼休みには私は食堂へ行くのですが、そこに設置されているテレビはいつもワイドショー番組を映しています。
もう毎日毎日、そのテレビ画面は「コロナ」で埋め尽くされています。
まるで食堂にコロナの情報を確認しに行っているような気さえするぐらいに、
世界地図と、それぞれの国の感染者数と死亡者数を背景としたワイドショーが目に入ります。

「今日も感染者が増えた。今日はここで発生した…!どうして今、こんなスピードで広がっているのか…」
語るコメンテーターの声にも力が入っており、
「皆さん、知りたいでしょ?」
いわんばかりのジェスチャーで、この話題はいつまでも展開されています。
「この国では、この一ヶ月で感染者が○○倍。この国では△△倍に!」
…その情報、本当に必要なのかな。
なんて思うくらいに、いろいろな数字や事実がひっきりなしに私達の目や耳には飛び込んできます。

いま、世界で最も存在感を放っているものは「コロナウィルス」ですね。
今、この世界で彼らより目立とうとしても不可能でしょう。
それぐらい、世界中の人から最も注目の的となっています。
新規のウィルスというのは「特効薬」という対策方法がありませんから、確かに驚異に違いありません。

そこに政府が、マスコミが、そして大衆が注目するようになり、その存在感は増す一方で、
スーパーや薬局からはマスクが消え、ついでにティッシュやトイレットペーパーも消え、
大勢の人が集まるイベントの自粛が呼びかけられ、学校まで休校となり、
いくら世間に無関心な生活をしている人でも、嫌でも意識せざるを得なくなります。

また、「人から人へ伝染る」という性質上、この影響でどうしても「他人」に対する意識に変化が起きてしまいますね。

今、「ゴホン!」と咳をする人に向けられるのは、心配の視線でも、「大丈夫?」という労りの言葉でもなく、
「ちょっと、こんなところで…!」という非難の視線であり、「マスク、してるの?」という戒めの言葉でしょう。
その人が、体調を損ねて苦しんでいる事は完全無視されて、
「伝染されて、最悪、死ぬかも知れない」
という恐怖が圧倒的に勝り、人が人へ攻撃的になってしまっている空気は、なんともいたたまれないものがあります。

今、世界中で10万人を超える人たちが感染していると言われていますが、その影響は10万人だけでなく、
70億人の人類の多くが「コロナ」を意識して、様々な影響を受けているのですね。

「行動」とは、どんな時も偽らざる「種」である

私達にとってコロナは、「縁」ということができます。
もちろん、歓迎し難い「縁」には違いありません。ほとんどの人にとっては「悪縁」と言えるでしょう。

世界中から注目され、恐れられ、いよいよ身近に迫っている、ともすれば「命」さえも脅かされるような「縁」
いろいろな形で、ほぼ全人類にいま、このような「縁」が存在している。

その「縁」を前に、
私達はどんな行動をすべきなのだろうか。
どんな種を蒔いてゆくべきなのだろうか。

これが私達一人一人に問われているわけですね。
「そりゃもちろん、マスクして、手洗いうがいをして、人混みは避けて…」
という行動はもちろん大切ですが、
周囲の人たちへの接し方にどう気を配るのか、
どんな情報に接するように心がけるのか、
人混みに入れないなら、そんな条件下でどう過ごすのか、
不安な空気が漂う今、周りの人や世の中に対して何ができるのか、
「外へ出かけられない」からこそ、できる事ってどんなことなのか、
などなど…
「こんな時だからこそ、どんな種を蒔くのかを考える」
これは、どんな時でも非常に大切な発想です。

世の中がどんなに変わろうと、
「自分の蒔いた種の結果が、自分に現れる」
という因果応報の道理だけは、何一つ変りません。

この人生で、私はどんな結果を得るのか。
それは、私の行動という「種」に応じた「結果」である。
その「種」を自分が蒔いていなければ、自分には何の結果も現れることはない。

この因果応報の道理は、いつでもどこでも変わらない真理だと仏教では教えられます。
この道理は、
景気が良かろうと、大不況だろうと、どんな病気やウィルスが流行ろうとも、
決して変わることはないのですね。

確かに「縁」は様々です。
現にコロナウィルスに感染してしまった人、身近な人を亡くしてしまった人、
それに限らず、いろんなシビアな環境に置かれている人、
「こんな状況で、どうしろって…?」
キツ過ぎる縁の中で、希望が見えない、先が見えない、不安の真っ只中という事もあるでしょう。

それでも、生きている限り、私の人生は続いてゆきます。
その中で私達は「何らかの種」を蒔いているわけです。
私達の「行い」という種蒔きのことを、仏教では「業(ごう)」と言います。
その「業」にも、
この肉体を動かして何らかの行動をするという「身業(しんごう)」
この口で言葉を発するという「口業(くごう)」
そして、心の中でいろんなことを思うという「意業(いごう)」
の3つがあり、これを「三業(さんごう)」と言います。
「心の中で色々なことを思う」という「意業」まで含めた「三業」を考えたならば、
私達はどんな状況においても、常に、何かしらの業を造っていると言えます。

その造る「業」を、少しでも、わずかでも、自分の望む未来に繋がる「業」へと変えることができれば、
その僅かが、積もり積もって大きな変化となってゆき、状況が劇的に好転してゆく「種」となります。

「縁」のインパクトが強ければ強いだけ、自分の造る「業」という「因」のことを忘れがちなのですが、
どんなインパクトの強い「縁」を前にしても、「因果応報の道理」だけは決して変わらないことは、常に忘れないようにしたいものです。

今こそ大切な「土台」を築くべき時

今は、「コロナウィルス」という世界共通の驚異に私達は晒されています。
「いったい、いつ収束するのか。」
「早く、収まってほしい。」
と、願ってやみません。

ですが、その驚異が去った後の私達一人一人の人生には、まだまだこの先、どんな悪縁と出会うか知れません。

今は、コロナが最も注目されているので、その被害が特に際立って目立っていますが、
「人が不幸に見舞われる悪縁」という観点で言えば、
交通事故、犯罪、他の様々な病気、会社の倒産、家庭不和…
今もさまざまな「縁」に見舞われて多くの人が苦しみ、最悪の場合は命を落としています。
数から言えば、それらの中でコロナはほんのごく一部と言えるでしょう。

今もこれからも、どんな望まぬ縁に見舞われるとも知れないのが人生。
そうだとすると、
「いかに悪縁から逃れるか」
という発想だけでなく、
「そんな悪縁の中にあって、私はどんな種を蒔くのか」
という発想こそが、大切なことだと知らされます。

「コロナウイルス」という縁が世界中を圧倒している今だからこそ、
この地球に住んでいる限り、それらの驚異という縁から完全に離れることは出来ない今だからこそ、
「このような縁の中で、私はどんな種を蒔くのか」
を考え、実践すべきなのですね。
この期間をそのように過ごしたならば、その先の生涯に渡って活かせる「糧」を得ることになるでしょう。
それは、「逆境の中でも種を蒔く」という姿勢です。

どんな状況に置かれても、必ずその状況下で「出来ること」があります。
「人生」というのは、そういうところなのですね。
環境の格差はどこも激しくて不平等のようですが、
その環境それぞれに必ず「何らかの種を蒔く余地」があるのが人生です。

「種」さえ蒔いたならば、「業」さえ造ったならば、その「種」の力は必ず未来を動かしてゆきます。
何か一つでも、ほんのわずかでも…
種を蒔くことに食らいついてゆく姿勢が、何より大切なのですね。

世界規模で吹き荒れる逆風の中、私達は今日、どんな種を蒔くべきか。
この機会にとことん考えてみたいものです。