「自分のための人生」を生きるために〜多様な「因」を集める人生〜

「全部、自分のためにしているのです」の真意

一見、他人に親切にしたり、人一倍責任を持って仕事に取り組んだり、
「この人は周囲のために尽くしている人だな」
と思える人が、

「いえ、そうじゃないんです。全部、自分のためにしているんです。」
と答える。
こういうことがありますよね。

「別に私は、会社のために、友達のために、他人のために頑張っているのではない。
 全部、自分のためなのだ。」

そう言っているその人の行動が、他人を助けることだったり、周囲を喜ばせることだったり、
和を保つこと、秩序を保つことだったりして、
傍目にはどうみても、「他人に対して貢献している行動」だということが、よくあります。

一体その人の「自分のため」とはどういう意味なのでしょうか。

「こうしたら、
感謝されるだろう
他人に尊敬されるだろう
好きになってくれる人がいるかもしれない
カッコよく見えるはず
モテるかもしれない
いざというとき助けてもらえるはず…」

こういった「見返り」を期待して、行動している。
そんな「自分のため」という意味なのでしょうか。

そうではないのですね。
その人が「自分のためにやってるんです」と言っているのは、
そんな「下心があるのです」という意味ではありません。

こういう人は、もっともっと、長期的な視点を持っている人だと言えます。
長期的な、そして大きな「願望」を持っている人。
人生に、その人なりの「理想」を持っている人。
ということもできるでしょう。

「プリンを腹いっぱい食べたい」、ぐらいの欲なら、すぐにスーパーなりコンビニなりに言って、千円くらいはたいたならば、叶います。
「面白いゲームをして楽しい時間を過ごしたい」のなら、スマートフォンのゲームアプリを検索して、良さそうなものをダウンロードすれば、何なら無料で楽しめます。
「面白い漫画を読んで過ごしたい」なら、ネットカフェに行って数千円も出せば、飽きるほど読んで過ごすことができるでしょう。
「綺麗な女性と一時の楽しい時間を過ごしたい」のなら、そんなサービスのある店で数万円出せば、十分に叶うでしょう。

短期的な欲望なら、現代は「お金」さえかけたならば、大抵のことは叶ってしまいます。
場合によっては、「お金」をかける必要もなく、スマートフォン1台あれば、無課金で相当楽しむこともできます。

だけど、お金をかけても、また、世の中の発達した技術に頼っても、叶えられない願望というものがあります。

「多くの人に感謝されて、尊敬されながら、自分の能力を精一杯発揮して活躍していきたい」
とか
「これまで世の中に無かったアイディアや技術や知識を、世の中にもたらして影響を与えたい」
とか
「一つのスキルをとことん磨いて、業界ナンバーワンと呼ばれるようになりたい」
とか
「周囲の人から常に頼られるような、リーダーでありたい」
とか
「他人から愛され、可愛がられるような存在で、常にありたい」
とか
「いつも健やかで、周囲との摩擦もなく平和に生きていたい」

こういった、「短絡的な欲望」とは異なる、「長期的な願望や理想」は、
ただ「お金」があれば、又は現代の先端技術を駆使すれば、それだけで叶うというわけにはいきません。

もっと広い視野を持ち、多様でかつ継続した行動が必要となります。
その行動の中には、周囲を助けるような行動も含むでしょう。

そしてそれらの行動は全て、「自分の長期的な願望・理想のため」ということになるわけですね。

「これさえやってれば」が通用しない

「因果応報(いんがおうほう)」という仏教の教えがあります。
原因に応じた結果が報いる。
ということであり、
ある結果を得るためには、それに応じた原因を造らなければならないということです。

短絡的な願望ならば、
「お金を消費すれば」「現代の先端技術に依存すれば」「時間さえあれば」
そんなシンプルな「因」をもって、満たすこともできるでしょう。
もちろんその「満足感」は一時的なものではありますが。
まさに「因果応報」で、原因に応じた結果しか、得られないということです。

しかし、先ほど列挙したような長期的な願望・理想という「結果」を求める場合は、
必要な「原因」もまた、単純にはいきません。
より多様で、より継続的な「因」を積み重ねて、ようやく届く「結果」ということになります。

自分の色んな欲求をガマンすることも、
他人との束をきっちり守ることも、
周りの空気を読んで周囲に気遣った言動をすることも、
勉強したり、反復した訓練をすることも、
時には自分の行動を反省し、改善を試みることも、
広い人脈を築くことも、
色々な情報を集めてくることも…

様々な「行動」という「原因」を集め、積み重ねることが必要となります。

ただお金さえあれば
ただ情報さえあれば
ただ時間さえかければ
先端技術に依存すれば
親の力を借りれば
有力な友達に頼めば

それだけで届くという類の結果ではありません。

「長期的な理想」という「結果」はもう、
「これさえあれば」は通用しない、多様かつ継続的な原因の積み重ねを要する「結果」なのですね。

ただ、自分の仕事だけに没頭していればいいわけでもない。
ただ、一つの知識の追求に終始していればいいわけでもない。
ただ、自分のコンディションの維持だけ考えていればいいわけでもない。
「全部が」必要だということです。

家を建てるときでも、
「柱」「壁」「土壌」「ネジ」「釘」…
様々な要素が全部必要となりますよね。

「まあ、これについてはいい加減でもいいか、抜けていてもいいか」
なんて言ってたら、たちまち欠陥物件が出来上がってしまいます。

私達が心から人生に求める「結果」というのは、そのような多様な「原因」を全て積み重ねて、到達できるものと言えます。
だからこそ、
「今、築いている因は、結果に対してはあくまで「一部」である」
という視点が必要となります。

「これだけやっていればいい」
なんてものは、無いという現実を直視しなければなりません。
「因果応報」の道理は曲げられません。
求める「結果」に応じた「原因」を全て、積み重ねなければなりません。

「全て自分のため」と心から言えるとき

誰もが「これさえやっていればいい」というものを求めます。
「そういうのを教えてくれ」、という気持ちが起きてきます。
だけど、そんな「これさえ」という「因」で得られる「結果」は、
危うい不安定な結果となりがちなのですね。

長期的で継続的な「理想」を支える「原因」はそう単純にはいきません。
多様な「原因」を全て集めなければなりません。

そのように聞けば、
なんだかとてもシビアで、難しくて、複雑な話のように思うかもしれません。
そんな複雑な「原因」が全部必要なら、自分にはとてもそんな願望は叶わないのではないか…
そんな気持ちになるかもしれません。

しかし、この
「多様な原因を積み重ねなければならない」
ということは、そんな「自分のキャパではとても無理」なんていう話ではありません。

そうではなくて、
自分の日常生活のあらゆる場面に、理想を叶える「原因」を造るチャンスが潜んでいる
ということなのです。

朝起きてから出かけるまでの時間の中にも
仕事をしている時間の中にも
ご飯を食べている時間の中にも
友達と会話している時間の中にも
テレビを見ている時間の中にも

その場面場面で得られる、「理想」をかなえる「原因」が潜んでいるということです。

自分の人生に、明確な理想や夢といった願望を抱いている人は、
そしてその願望に本気で向かっている人は、
日常のあらゆる場面で、その原因を造る努力を怠りません。

友達と会話をしている時も、空気を読んだり、嫌な思いをさせないようにしたりという気遣いは怠らない。
仕事をしている時も、責任を持って求められている仕事か、それ以上の仕事をこなす姿勢を持っている。
テレビを見ていたら、世の中の動きや話題になりそうなことや興味深いストーリーにアンテナを張ることを怠らない。
困っている人がいたら、手を差し伸べられる体制を崩さない。

そういうことに心がけて行動しているし、
「それは全部、自分のためだ」
と、確信を持って言い切ることができるのですね。

これがまさに最初に話題にした、
「周囲に気遣った行動をいつも心がけていながら、「ぜんぶ自分のため」と言う人」
のことですね。

人生における長期的な「理想」を心に描き、その結果を本気で求めて、因果応報の道理に従って行動している人

そんな人は、人生のあらゆる場面で手を抜きません。
そして「それはすべて自分のため」と確信しています。

「こんなにみんなのために尽くしているのに…」
「こんなに、あなたのためを思って行動しているのに…」
そんな恩着せがましい態度にはならないのですね。

なぜなら、「他人のため」の人生を生きてなんかいないから。
自分の中に強く抱いた理想を目指して、本気でその原因を積み重ねているのだから。

「夢を持つことが大切」
昔から言われていることですよね。
その「夢」というのを、「長期的な人生の理想」と置き換えたならば、その意味がより明確になります。

「因果応報」なのだから、そんな「長期的な人生の理想」を本気で目指した時、
1日1日の日常場面の全てが、その「夢」に向かう「道」となります。
あらゆる場面の「因」が、その結果のためには必要なのだから。

常に、夢に向かって輝ける「道」を歩む人生が、その瞬間から開けることでしょう。

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