「目の前の縁」しか目に入らなくなった時…
「もうこんな素敵な人は、もう二度と現れない」
「こんな素晴らしい宝物はもう、二度と手に入らない」
「こんないい職場は、失ったらもう二度と手に入らない」
こんな風に、自分の目の前にある人や物や場所に高い価値を感じたとき、
それがこの世で唯一無二のもので、失ったらもう二度と手に入らない価値だと感じることがあります。
それは確かにその通りで、
人も物も場所も、かけがえのない存在に違いないですし、「全く同じ」人も物も場所も、
大宇宙どこを探しても見つけることは出来ないでしょう。
だけど一方で、自分が心から望んでいる事を叶える「縁」は、本当に目の前の縁しかないのか、
といえば、決してそんなことはないのですね。
だからこそ、「人生、必ずやり直しがきく」という事も言えるわけです。
あなたが「この上なく素敵だ」と思える「人」や「物」や「場所」は、
いわばあなたの心からの願望を叶えてくれる「縁」と言えます。
この「縁」は、言うまでもなく大切です。
誰も、自分自身「だけ」では、願いも幸せも叶えることはできないのであって、
必ず何かの「縁」あってこそ、自分に恵まれた結果が得られるのですね。
だけど、そういう「縁」がいま自分の目の前にあるもの「だけ」しかないと思い込むと、
自分の可能性を狭めすぎてしまったり、また必要以上に不安を感じなければならなくなります。
なぜならその「縁」は、永久ではないからです。
特に、「人の縁」は、伴ったり、離れたりという事が、微妙な心の変化一つで起きてしまいます。
今は、自分のことを必要としてくれ、大切にしてくれ、一緒にいたいと思ってくれている人がいるとして、
相手のその心が色褪せないように、努力することはもちろん出来ます。
けれど、どんなに努力しても、「他人の心」なんて、完全にコントロールすることは出来ません。
自分の魅力を磨いても、
相手に誠意を尽くしても、
気配りを尽くしても、
それでも「人の心」は、変わってしまう時は変わってしまうものですよね。
「他人の心」は本当に、難しいですよね。
どんなに相手を理解しようと努めても、それは私の想像でしかありません。
私独自の知識と経験とで創り上げた、「私のイメージ像」に過ぎないのであって、
相手が本当に生きている現実はどんな世界なのか、本当は何を思って生きているのか、
それは、他人である以上、垣間見ることさえもできません。
そんな「他人の心」を、自分がコントロールなどできるはずもありません。
ただ出来るのは、自分が他人にとっての「善き縁」たるべく努力することだけです。
だけど、それでも自分の預かり知らない事情だとか、自分のコントロールし得ない事情だとかで、
他人の心が無情にも変化してゆき、縁が離れてゆく事を完全に止めることはできません。
「この人がいなければ、私の幸せは絶対に成立し得ない」
などと思ってしまうと、その幸せは極めて危ういものとなります。
その人を失うことを極度に恐れる余り、必要以上に不安な気持ちにかられてしまいます。
そんな不安一杯、恐れ一杯では、逆に相手の事が見えなくなって独りよがりな行動になってしまいます。
そんな悪手の積み重ねで、その「大切な縁」を失うという皮肉な結果となってしまいかねません。
ちょっと極端な事を言えば、
「たとえこの人との縁を失ったとしても、新たな縁で幸せになる努力はいくらでも出来る」
こういう視点を持つと、心の余裕が出来ます。
そんな余裕があるから、冷静に相手や状況を観察し、的確な判断をして、ベストな行動が出来ます。
だから逆に、その縁を失わないのですね。
誤解して欲しくないのですが、
別に、今の「人」「物」「場所」の縁を軽んずればいい、という話ではもちろんありません。
「縁」は、私の幸せに欠かせない要素であって、大切にすべきものに違いありません。
その「大切にする」ことと、「それだけしか目に入らなくなる」こととは、別問題です。
「縁」に対して視野を広く持つ事と、今の「縁」を大切にする事は、決して矛盾するものではないのですね。
「幸せ」を支える様々な「因縁」
仏教では、私が得る「結果」は、「因」と「縁」とが揃って造られるのだと教えられます。
「因」は、私の行動の事です。
「縁」は、「人」や「物」や「場所」などの私との「関わり」の事です。
この「因」と「縁」がそろえば、私の結果は必然的に生じるのですね。
「因」だけでも結果は現れないし、
「縁」だけでも結果は現れません。
私に幸せな結果が起きたとき、そこには私の幸せの「縁」となってくれた存在が必ずありますよね。
その「縁」がすばらしいものであればあるほど、その「縁」が全てであるかのように思う事があります。
それぐらい素敵な「縁」に恵まれたことは、もちろん素晴らしい事なのですが、
あまりに素敵な「縁」を前にすると、まるでそれだけで私の幸せが成り立っているかのように思ってしまいます。
だけど本当はそうではありません。
幸せな結果は必ず、「因」と「縁」とが揃って起きているのです。
自分の「行動」の積み重ねが必ずあって、そこにその「素敵な縁」が加わって、幸せな結果は起きています。
そして、その幸せを維持するためにもまた、そのための「因」となる「行動」は欠かせません。
「この縁さえあれば私は幸せ」
なんてことは、本当はあり得ないのですね。
目の前の「素敵な縁」しか目に入らず、その「縁」を守ることばかりに躍起になっていると、
「幸せ」を維持するための「因」となる「行動」を忘れてしまいかねません。
どんな素晴らしい「人」でも
どんな素晴らしい「物」でも
どんな素晴らしい「場所」でも
それは、私の幸せという結果のための一つの「縁」でしかなくて、
それが幸せを支える「すべて」ではない。
だから、
「この人さえいれば」という事でもないし、
「これさえあれば」という事でもないし、
「ここにさえいれば」という事でもありません。
色々な「因」と「縁」とがあって、私の幸せは造られ、維持されているという、
その様々な「因縁」に目を向けられる視野の広さが、とても大切なのですね。
だからこそ、自分にとっての大きな「縁」の一つをたとえ失っても、
また新たな因縁を揃えることで、人生はいくらでもやり直せると言えるわけです。
「生きて」さえいれば…
「取り返しがつかない」
という事が人生にあるだろうか?
と問えば、どうでしょうか。
例えば、災害などで自分の家を失ってしまったとしても…
「家」ならば、また新しい家を建てることができます。
そこでまた、気を取り直して新たな生活を始めてゆく、という形で「取り返しはつく」と言えそうですね。
自分の務めている会社が倒産してしまった。
生活の糧であり、自分が仕事して活躍できる「場」を失ってしまった。
これはもちろん、また別の会社に就職するか、自分で会社を起こすかして、
「やり直し」は出来そうですね。
じゃあ、自分の大切なパートナーを不幸な事故などで失ってしまったとしたらどうでしょう。
亡くなってしまった人は、もう二度と戻ってこない。
「家」は建て直せても
「会社」は就職し直せても
「人」だけは、唯一無二の存在で、もう二度と取り戻せない。
そういう意味では、これだけは取り返しがつかないことにように思えるかもしれません。
それだけ、「大切な人」とは、自分の人生で大きな存在なのですね。
だけど、そんな大切な存在をたとえ失っても、それでも自分の人生は続いていきますよね。
私達はそれでも、幸せを求めて、生きてゆくわけです。
「あの人のいない人生に、もう意味などない」
そんな気持ちになる事だって、もちろんあるでしょう。
だけどそんな「痛み」を抱えながらも、それでも私達は死なない限りは人生は続きます。
生きる以上は、私達はまた幸せを求めて生きてゆくわけです。
そうして生きてゆけば、また新たな因縁を求めて、新たに自分の求める幸せを造ってゆく事は必ず出来ます。
「常に幸せの因縁を求めて生きてゆく」、という人間の本質を見たならば、
生きている限りは、「取り返しがつかない事はない」と言えるのですね。
「これが私の全て」
「この人が私の全て」
そう思えるぐらいの「縁」があることは、もちろん素敵な事ではあるでしょう。
だけど同時に、それはあくまで「縁」の一つ
そんな冷静な視点を持つことが、たくましく人生を生き抜く土台となるのですね。