人生に「終わり」がある事を初めて知った時のこと

「後悔」の原因はたった一つの忘れ物

仕事でよく、他人の「病気」「怪我」「死亡」に書面上で触れることがあります。
生の事実に出会う時のような生々しさこそありませんが、一定の書式で「事実」が羅列されるのもまた、違ったリアリティを感じます。

といっても仕事なので、限られた時間でこういった書類をさばいていかなきゃいけないので、次から次へと目に触れては過ぎていきます。
次の案件、また次の案件と、ディスプレイ上に表示される「突然の無常」の数々は、またたく間に現れては過ぎ、また現れては過ぎ…

こっちは、会社のデスクに座って眺めているだけですが、この書類の向こう側の事実は本当に、どれほどの衝撃がどれほどの人に走っていることか知れません。

こういう事実を極力、「明日は我が身」として受け止めることが大切だと思っています。

いちいち感傷的になっていては仕事になりませんが、厳粛な事実の重みは極力スルーしないようにしたいと思っています。
それは、この書面上の当事者の方々により良い仕事をする為にも大切なことだと言えるでしょうけど、何より、自分の為です。

仏教では、人間は「無常」を忘れてしまう生き物であると教えます。

いま、自分が過ごしている「平穏」は、「常」では無い。
いつまでも続くものではない。
今も少しずつ、見えないところで確実に「変化」しているし、ある時突然、急激な変化に見舞われて「平穏」は終わる。
そして、「無常」という真理の真っ只中に自分はいたんだということに愕然とする。

これが例外なく万人にとっての「現実」なのですが、基本的にこの現実を忘れて、「平穏」という危うい土台にどっかりと腰掛けてしまっています。
そりゃ、「無常」なのだからいつかは平穏が終わってしまう日が来るだろうけれど…
「とりあえず今日や明日は大丈夫」
この、何の根拠もない「今日や明日は大丈夫」に、希望をつないでしまっています。
その「大丈夫」の思いは明日になっても明後日になっても少しも変わる気配がありません。
本音では、いつまでも今の「日常」は続くと信じて生きているのかもしれません。

まして、「人生そのもの」が今日や明日にも「終わって」しまってもおかしくない
などと、とても考えることはできません。

「無常を忘れて生きる」
ということはそのまま、「限られた人生」という大事な前提を見誤って生きていることになってしまいます。

「限られている人生」だからこそ、一日一日の大切さが実感でき、「悔いのないように」と本気で考えて行動することができます。
「人生という日々はいつまでも無限にある」
なんて思っていたら、きっといつまでも「本気」になることはできないはずです。
そうやってダラダラと生きている私に突如、「もう終わり」と告げられて「人生」という舞台から退場させられる。
この時に起きるのは、「間違った前提で生きてきた」という後悔でしょう。

だからこそ、人生に後悔しないように、「無常」をごまかさずに観つめることを仏教では教えられています。

小学生半ばまで、私は「人生の終わり」を知らなかった

「月日が経つのは早いなあ…」
このことは、誰でも言うことですね。
それだけ実感がしやすいことです。
これも一つの「無常」を実感しているということに当たります。

それだけ猛スピードでどこかへ向かって「進んでいる」とするならば、
私は一体どこへ向かって進んでいて、どこへ近づいているのだろうか。

このことについては、実はずいぶんとぼやけているのが実態なのですね。

いや、ぼやけているも何も、ハッキリしていることではないか。
月日は過ぎて、進んで、進んで、最後は…
誰だって最後は「死ぬ」のだろう。

人間、誰だって最後は人生を終えていく。
死なない人間なんて一人もいない。

こういうことも確かに誰もが知っていることです。

いま、「誰もが知っている」と言ったのですが、実は私はこのことを小学校の3、4年生くらいの時に知りました。

「私もいつかは必ず、死んでいかなければいけないんだ」
このことを明確に理解したのは、私の場合、そのくらいの年齢の時でした。
何をきっかけにそれを理解したのかはもう覚えていませんが、大きなショックを受けたことだけは、よく覚えています。

それまで自分は、ずっとずっと、いつまでも生きていられるんだと、本気で信じていました。
世の中で、「人が死ぬ」を多く見聞きすることはあっても、
「でも自分だけは大丈夫だ」
と、固く信じていました。
それが私の強い強い願望だったのですね。
「いつまでも死なずに、生きていたい。」
そのことに対する強い願望が、「いつまでも自分だけは生きていられる」という確信にすり替わっていたのでした。

ところがその願望が叶わないことをある時、ついに知ってしまったのです。

「え…だめなの?
 どうしても、僕はいつかは、死ななければならないの?どうしても…?」

どうにも動かせないこの事実を突きつけられて、どうしようもなくうろたえました。

このことがどうしても受け入れ難かったです。
だけど、どうやら例外なく、誰も、いつまでも生きていられる人はいない。この事実は動かせないらしい。
ということは、私も、どうしても、いつか死ななければいけない。

その時の絶望感は、相当なものでした。

あなたにも、そんな思い出があるでしょうか。
それとも、特にそんな記憶はなく「いつの間にか」「なんとなく」知ったという感じでしょうか。

この話を聞いて、もしかしたら、
「いやいや…よく、その年まで本気で「いつまでも生きていられる」と信じていられたものだな…」
と思われるかもしれません。

普通は、もっと早くに
「人間、いつかは死ぬ」
なんてことは理解するのではないかもしれないですね。

正直自分でも、そう思います。気づくの、ずいぶん遅かったな(苦笑)、と。

たしかに私はずいぶんと長い間、「人生に終わりがある」という事実を知らなかったのでした。
そしてそのことを、遅ればせながら知った。
そして、深い絶望を味わいました。
だけどその分、「限られたこの人生をどうするか」を、より深く考えるようになりました。

だけど、考えてみて欲しいのですが、
「人は必ず最後、死ぬ」
「人生は、必ず終わってしまう」
ということを「知っている」とは言うけれど、私達は一体どれくらい、そのことをリアルにイメージ出来ているでしょうか。

「私の人生に、いつか終わりがある。」と言いますが、
その「終わり」とは、具体的にどんなイメージでしょうか。

「どこかのベットで、私の目は閉じ、私の体はもう二度と動かなくなる」
「そして私の葬儀が始まり、家族や友人がそこに参列して」
「私は彼らから、色々なことを思い出されていることだろう」
「残された家族たちが、私の遺骨を墓に入れて、そこに参ってくれるのだろう」

などなどいくつか挙げましたが、これらのイメージには一つの共通点があります。
それは、「すべて他人目線」だということです。

他人から見た「私」が、目を閉じ動かなくなり。
他人から見た「私」が、棺桶に入れられて葬儀が執り行われ。
他人から見た「私」を、色々と思い出す。
他人から見た「私」の墓に、家族や親戚が参る。

その時に「私視点」での現実は、どうなっているのでしょうか?
実はそのことは、全く想像すらできていません。

私達は、自分の将来を色々想像します。
就職する時のこと
結婚する時のこと
子供ができる時のこと
年を取って老後を迎えること

「その時、私はどうなっているのか…」
そのことに思いを馳せるとき、私の視点での色々な情景が想像できると思います。

しかし、「私の人生が終わる」ことに関して想像する時だけは、
自分視点からの想像ができなくなります。
そして視点は無意識に「他人」に切り替わる。
そして「他人ごとのような死」をイメージしている。
どうしても、こういうことになってしまっています。

「後悔」への道を引き返す瞬間

「いつか人生に終わりが訪れる」
「やがて誰もが最後は死んでいく」
誰もが「そうだそうだ」と頷きます。
だけどその時、誰一人として「自分視点」でのリアルな「人生の終わり」をイメージしてはいないのですね。
イメージしているのは「他人視点」からの、いわば「他人事の死」です。

「人生の終わり」に対してだけは、私達はそういうイメージしかできないのが実態ということです。
それは、本当に「人生の終わり」をイメージしているとは言えません。

それなのに、まるで自分の就職や結婚や子育てという将来を想像しているのと同じように、
「自分の人生が終わる」
ということも、ちゃんと認識できていると、錯覚してしまっているのです。

「自分の人生が終わる」
の言葉は誰もが知っていても、
それが一体どういうことを指しているのか、実は誰もそこに想像が及んでいないのですね。

言葉だけで知った気になっていて、実は何も知ってはいない。
「人生の終わり」や「死」に対する人間の実態が、これです。

だから仏教では
「人間は無常を忘れて生きている」
と言われるのですね。

「顛倒の妄念(てんどうのもうねん)」という言葉が仏教にはありまして、
顛倒」とは、「逆さま」ということです。
まるで逆立ちして世の中を眺めているように、人間は、真理とはてんで逆のことを深く信じて、それを前提に生きてしまっているということです。
そんな迷った心のことを「顛倒の妄念」と言われます。

自分の「無常」を本当に認識することができず、
「人生の終わり」を「無い」かのように、実は思っている。
「死ぬ」ということが、私には「無い」かのように本心では思っている。

つまり
「私の人生は、いつまでもいつまでも続いて終わることがない」
腹底ではそんな本音を持っている、ということです。
これを
「常」という妄念
だと仏教で言われます。

そんな、全く真理に反することを固く信じて、それを前提に世の中を眺め、生きている。
まさしく「逆立ち」状態ですね。

「無常を無常と思えない自分を知る」
まずこのことが大切です。
そしてそんな自分だからこそ、身の回りの無常に対して、精一杯「ごまかさずに、明日は我が身としてみる」という意識がとても重要になります。

完全ではないにせよ、
「私の人生には終わりがある。限りがある。」
という事実に精一杯向き合うことが大切です。

その努力から、後悔しない人生への第一歩は始まるのですね。