人生に潜む「事故」のリスクを見落とさないために~慣れ切った危険状態~

「日常化」した危険状態

たまに車の運転をする機会があるのですけど、
正直、車の運転をする時はいつもどこか「怖い」という思いが拭えません。

高速道路なんて走っていれば、時速100km前後の世界になります。
こんな大きくて重い鉄の塊が、時速100kmで走るエネルギー量といったら、とてつもないですよね。
その状況でもし1秒間よそ見すれば、その間に30m近く進んでしまっていることになります。
その間、前を見ていないとか、恐ろしすぎじゃないですか。

その状況を冷静に考えれば考えるほどに、怖くないのがおかしいような状況だと思います。

だけど、日常的にそれをやっていたら、慣れるのですね。
それで特に何もトラブルや事故が起こらずに過ごせているのだから、
「まあ、滅多なことはないだろう」
と、やがて感じるようになっていきます。
一度その感覚が根付いたら、危険状態も、「単なる日常」としか思えなくなるのが人間なのですね。
だけど、その油断から取り返しのつかない事故があちこちで引き起こされているのがまた、現実です。

そう考えると、免許更新の際にはよく交通事故の映像が見せられますが、
あれって大事なことかもしれないですね。
「車を運転している」ということがどういうことなのか、
どんなリスクをはらむ行いをしているのか、
それを再認識することは、やっぱり大切なことです。
「慣れ」は、いつか「リスク」を忘れてしまうことに繋がります。
「リスク」に怯えて必要以上にビクビクしていてもいけませんが、
必要以上にビクビクして怯えることと、「リスク」を常に認識して忘れないこととは、
また別問題です。

感情面では必要以上にビクつくことなく、冷静でいること。
だけど、ちゃんとリスクを認識して忘れずにいること。

このことは両立できることで、その両立こそがリスクを伴う行動をする上で大切なことだと言えるでしょう。

目に見えない「取り返しのつかない事故」の数々

リスクに慣れ、リスクを忘てしまう事が、私達の生活では至る所にあります。
人間関係にも、そういうことがありそうですね。
よく「地雷を踏んでしまう」なんて言い方をしますが、
うっかりした発言で他人の神経を逆撫でしてしまうリスクが、対人関係上では常に潜んでいます。
そしてそのリスクは目に見えません。(だから「地雷」と言うのでしょうか)
その点では、車の運転よりも、リスクが見えづらい場面ですね。

もちろん、交通事故のように、他人を殺傷してしまうようなリスクはないかもしれませんが、
「心の傷」を負わせるリスクは間違いなくありますよね。
どうしても、体の傷のように目に見えるものではないため、軽視したり忘れたりしてしまいますが、
本当は身体に負わせてしまう傷以上に、心を配るべきものです。

「心の傷は、消えない」
と言われますが、まさしくその通りだと思います。
時間と共に和らぐことはあってでも、一度ついてしまった心の傷が「完全に元通り」ということは難しいでしょう。
そういう意味では、取り返しがつきません。

「取り返しのつかないようなリスク」は、そんな日常にも潜んでいるのですね。
他人と接したり、深く関わったりしているのは、そんなリスクを負う点、
自動車の運転をしているのと通ずるところがあります。

だけど、それもまた慣れてしまいます。
最初のうちは、色々と気遣って、傷つけないように、嫌な思いをさせないように、
言動に一定の注意を払ってコミュニケートしていても、お互いに心が許せてくると、
「馴れ合い」になってしまいがちです。
まるで自分と一心同体みたいに考えて「傷つけてしまう」というリスクを忘れてしまう。
これでは、「見えない事故」を多発させ、相手を傷だらけにしてしまうことにもなりかねません。

けど、だからと言って、
「こう言ったら傷つけるかな、ああ言ったら嫌かな…」
ということを余りに考えすぎて、言葉が出てこなかったり、オドオドしたりしていては、
時速10kmぐらいしか出せない車の運転みたいなもので、
まともなコミュニケーションはできませんよね。

これも、自動車の運転と同じことです。
リスクはちゃんと認識する。そのことは忘れない。
そのリスクをよく知った上で、それを必要以上に恐れたりはしない。
この、認識と勇気との両立が大切ということです。

忘れてはならない「最大のリスク」とは

自動車の運転という、大きな鉄の塊が激しく高速移動するという状況
人同士のコミュニケーションという、お互いの見えない心の触れ合いが激しく交わされているという状況
いずれも、仏教で言う「無常」という事ですね。
激しく変化し続けているということです。

その「無常」という激しい変化の渦中にいることに、私達はすっかり慣れてしまって、
まるで「変わらない」「盤石の」「安全な」ゾーンにいるかのように錯覚してしまいます。
そして、そこに潜む色々なリスクをすっかり忘れてしまう。

このことが、後に後悔を残すことになってしまうタネだからこそ、仏教では
「無常をよくよく観なさい」
と教えられます。

実は、私達が「生きる」ことがそもそも、無常の真っ只中です。
時間の経過は恐ろしく早いもので、
「令和」を迎えたと思っていたら、もう初月も下旬を迎えて1ヶ月が過ぎようとしています。
「元年」と呼べる間は、もうすぐに終わってしまいそうです。
高速道路でのよそ見の間に数十mも進んでしまうように、
「なんとなく」人生を過ごす間に、1年、2年、10年と、「取り返しのつかない日々」が過ぎてしまいます。
高速道路の運転以上に猛スピードで運転しているようなものが、「生きる」ということです。

仏教で最も重視される「無常」はまさに、この「生きること」そのものの無常です。
一度切りの人生を「何やってたんだろう」で終わってしまう以上のリスクは無い
と教えるのが、仏教だからです。

仏教の目的は、この一度きりの人生を大切にし、
「生まれてきてよかった」
と心から言える人生にすること一つです。
「何のための一生だったんだろう…」
そんな無意味感一杯で人生を終えてしまわないために。
全てのメッセージは、その目的一つのためなのですね。

「過ぎてゆく」ことに慣れきった心に、「無常」の真実を刻み込む努力は、
悔いなき人生を歩むための第一歩と言えるでしょう。

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