自由を味わう意外な出発点〜「娑婆」を生きる〜

本当に自由を感じる瞬間

私の勤めている職場では、事務室内でスマートフォンを操作することが禁止されています。
通話はもちろんですが、メールやライン、とにかくスマホを「使用する」ことが禁止されています。

それは個人情報を守るための規則なのですが、この「個人情報」に対する取扱方って、会社によってまちまちですよね。
仕事内容が内容なだけに、私のところではかなり厳格です。
操作はおろか、事務室内でスマホを出したり持ち歩くことさえもとても出来ません。
空気感がそういう感じになっているのですね。

たまに、普通にオフィスでLINEを打つという話をまた違う会社で働く友人などから聞くと、とても違和感を感じます。
それくらい、オフィスでのスマホ操作の禁止は、私の中では染み付いております。

そんな中、たまに事務室内でのスマホの操作を許される時があります。
会社の取り組みの一貫として、どうしてもタイムリーに個人のスマホを使わなきゃいけない場面。
そういう時、
「この場合に限り室内での使用を許可しますので、スマホを使って対応して下さい。」
と、課長から呼びかけられる。

この時、ここぞとばかりに事務室内でスマホを操作するのですが、これがなんとも言えない快感を覚えるのですね。

この気持ち、分かります?
たぶん、誰もが、学校とかでも経験した
「禁じられている行為を例外的に、堂々と行える瞬間」

普段は何も感じないようなスマホの操作を、禁じられている場所で行うと、なんとも言えないワクワク感を内心では覚えてしまいます。

基本的に「禁じられている」というのがミソですよね。
「規則」「縛り」「圧力」「不自由」
そういうものが存在する中にあって、「自由」を味わう。
これこそが「自由」の醍醐味なのですね。

ヤンキーが、校則違反の改造した制服を来て学校を歩いたり、授業をさぼって体育館裏でたむろしていたり、はたまたバイクに乗って、わざわざ学校の前を暴走したり…
そういうのが定番としてあるじゃないですか。
ああいうのは、「学校」や「校則」という縛りが存在しなかったらあまり面白くないでしょうね。
「服装は自由です。別に何を来てきてもいいですよ。」
と言われてしまうと、改造した制服を着ていてもなんとも滑稽なことになります。
学校が嫌でサボるんだったら、なんでわざわざ学校の中で(体育館裏とかいう微妙な場所で)たむろするのか、わざわざバイクで学校の前まで来るのか。

それは、「学校」という不自由が存在する中で、その存在を意識しつつ「自由」にやりたいことをやる。
そこに「自由」を味わう楽しさがあるのですね。

学校もない、規則もない。
そんな状態で、何か型破りの格好でたむろしていても、そこに「自由を味わっている」という実感はないと思います。

不自由の中にあって手に入れる自由
これが、私達が価値を感じられる自由なのですね。

「ああ…もっと自由がきけばいいのになあ」
というつぶやきは、あちこちで漏らされていることと思います。

しかし、じゃあ本当に会社の縛り、家庭の縛り、学校の縛り…
そういうものが無くなれば「自由」という幸せを味わえるのかというと、それは、縛りの無くなる「瞬間」だけでしょうね。

ありえない仮定ではありますが、「縛り」の全くない「自由」は、もう「自由」という実感も認識もないでしょう。
ただの、「普通状態」です。
そこに感動も快感も何もありません。

「不自由」の満ちた世界で味わう「自由」にこそ、ダイナミックな味わいがあります。
そう考えると「不自由」の絶えない世を嘆くのは詮無いことです。

不自由が絶えない「娑婆」のしくみ

だいたい、人間世界は不自由が絶えない構造になっております。
仏教では私達が生きるこの人間世界を「娑婆(しゃば)世界」と言います。
「娑婆」というのは仏教の言葉ですが、昔のインドの言葉に漢字を当てたもので、漢訳された言葉は「堪忍土」です。
「土」というのは仏教で「世界」のことを言います。
「浄土」という言葉は有名ですが「清らかな世界」という意味なんですね。

で、私達が生きるこの人間世界は、「浄土」ではなく「堪忍土」です。
「堪忍」は文字通り堪え忍ぶということですから耐え忍んでいかなければならない世界が人間世界ということです。
どんな環境であろうと、どんな立場であろうと、その環境なりに、その立場なりに、どうしても耐え忍ばざるを得ない。
庶民であろうと、富豪であろうと、男であろうと、女であろうと、社長であろうと、平社員であろうと、バイトであろうと、また昔は昔なりに、現代は現代なりに…
みんなそれぞれに色んなことに耐えて生きています。
それがこの人間世界で生きるということだと教えるのが仏教です。

有名なサラリーマン川柳にこんなのがあります。

「耐えてきた」 そう言う妻に 耐えてきた

半端なく共感を呼ぶ川柳ですが、人間同士、お互いに耐えて生きている実体を浮き彫りにしています。

というのも仏教では人間の心を「煩悩具足」と教えていまして、「煩悩」で出来上がっているのが人間だと言われます。
「煩悩」という言葉もまたよく知られている仏教の言葉ですが、文字通り常に煩い悩む人間の心です。
一口に「煩悩」といっても色々ありますが、その代表が「欲」ですね。

この「欲」が、人によって様々なのですね。
私はこれを満たしたい。この人はあれを満たしたい。

複数の人で、同じ欲を一緒に満たしてゆけるとなれば、これは仲良く結束できますね。
鍋が大好きな友達同士で、「一緒に鍋をやりましょう」となれば、これは素晴らしく結束します。
まあ鍋が好きといっても、「塩味がいい」「醤油味がいい」「みそ味がいい」と好みが分かれますので、このあたりでは少々忍耐して譲る必要が出るかもしれませんが。
それでも基本ベースとなる欲はだいたい一致しているので、お互い気分よくいられますね。

ただ、そうやって共通の欲を一緒に満たせる場面は一時的で、基本的にはそれぞれがそれぞれの満たしたい欲を持っていて、しかもその欲には限度がありません。
満たしても、満たしても、際限なく広がるのが欲なので、一人一人がどこどこまでも己の欲を求める形になってしまいます。
そのによって人それぞれの「都合」というものが出来上がります。
そうすると人の「都合」というものは、必ずお互いぶつからざるを得ないものだということですね。

それぞれの欲があり、それによってそれぞれの都合があって、なかなか一致しない。
どこかで必ずぶつからざるを得ません。

一緒に好きなことをしている時でさえも、細かいところで微妙にぶつかるわけですから。
家族として一緒に生活していたり、職場の同僚として一緒に仕事している人間同士、お互いの欲を満たしてゆこうとする心が必ずどこかでぶつかります。

問題は「ぶつかった時どうするか」ですね。

そこでどちらもが譲れなかったら、いがみ合いやトラブルになります。
子供同士って、やっぱりすぐ喧嘩しやすいイメージですよね。
わりと自分の欲望に素直に生きているところがありますから、比較的ぶつかりやすいのでしょう。

そうやって、自分の我を通そうとしすぎるとぶつかってしまい、お互い気分悪くなってしまうことを経験して、やがて「忍耐」を覚えていくわけですね。

なので大人は基本、譲り合うように努めますよね。
自分の都合をどこまでも通せば、トラブルになったり、またならなくても周囲からは嫌われる。
それではこの社会では生きていけない。
大人はそれを理解していますから、そこで「忍耐」します。
そうやって平穏な世の中を保っているわけですね。

もし人間に「忍耐」がなかったらどうなるでしょうか…
想像するだに恐ろしいですね。
あっちこっち、醜く悲惨な争いが絶えない修羅場と化すでしょう。

煩悩具足の人間同士、平穏に生きる世の中は、それぞれの「忍耐」が保っていると言えます。

娑婆世界で生きる以上、「不自由」はどこどこまでもついてまわります。
だいたい煩悩具足の私が本当に「自由」に生きてしまったら、どんなことになるでしょうか。
無限に己特有の欲をどこまでも満たし、奪い尽くすという恐ろしい化物なってしまいます。

「不自由の現実を観る」という出発点

そんな煩悩を持った、欲を持った私が、「思い通りにならない」と不自由を嘆くのは、考えてみれば無茶というものです。

娑婆世界は「不自由」や「縛り」が常について回る、というのは当然の前提とせざるを得ません。
その中で、いかに「自由」を味わうか。
そこに人生の楽しみがあると言えるわけですね。

逆に、この前提を認めることができなければ、死ぬまで嘆き続けなければなりません。
だけど、そういう人もいますよね。
いっつも、思い通りにいかないことを嘆いているっていう…

もちろん、忍耐には限度がありますから、限度を超える抑制や縛りには抵抗することや逃げ出すことも必要ではあります。
ということは、自分の忍耐の許容範囲の縛りをいかに選択するかという問題になります。
それはそれで調整する必要はあるでしょう。

だけど、そうやって調整したならば、あとはその不自由と付き合って、その中で自分の自由を見出し、味わっていく。
これが現実的な「自由を謳歌する」ということになります。

自分はどこを忍耐し、どこで自由を謳歌するのか。
この絶妙なバランスが、鍵となるのですね。

その前提として「娑婆世界」の本質を理解することが、まず大切です。

だから仏教ではその「現実」を説くのですね。
人間の煩悩具足の本質。
ぶつからざるを得ない人間世界の本質。
ここは、どうあっても変えようのない人間世界の構造です。

そこは、あきらかに観るしかありません。
変えようのないものを、変えたいと言って嘆くほど不毛なことはありませんから。

そして、この娑婆世界の本質をあきらかに観た先に、本当の自由を見つけてゆくダイナミックな人生が開かれてゆくことでしょう。

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