「ただ思うだけ」がとてつもなく重い
心の中で「思ってしまった」ことに対して、
「ああ…しまった、こんなことを思ってしまった。」
「うわ…今、こんなことを思ってしまっている…!」
というように気にしたり悔やんだりすることはあるでしょうか。
こういう感覚があるかどうかは、いろんな人に聞いていると結構個人差があるみたいです。
しょっちゅうそういうことを思う、という人もいますし。
そんなこと、ほとんど思わない、という人もいます。
「気にする」人にも、「気にしない」人にも、それなりの理由があることと思います。
「思ってしまった」ことなど気にならないというのは、おそらく何の痕跡も残らないからでしょうね。
自分の心でどんなことを思っていても、目に見えない心で思っているだけなのだから、直接周りに影響を及ぼすことはないはずです。
心なんて、その時その時で思っては消えて、思っては消えて、何の痕跡が残ることもない。
水に描いた絵のようなもの。
そんな一つ一つの自分の「思い」に、いちいち気を取られていても意味がない。
「直接、周りに影響が及ばない」
「何の痕跡も残らない」
だから、過ぎてしまえば、無かったも同然。
確かに、口で「言って」しまったら、誰かが聞いているかもしれない。
そうでなくても、外部に音声として明確に発したことは、世の中に何らかの痕跡を残してもおかしくはない。
まして体で「やって」しまったら、誰かが見ているかもしれない。
そして、生の体での行動をこの世の中でやってしまった以上、やっぱり何かしらの痕跡は残りそうです。
だけど、口で言ってもいない。体でやってもいない。
ただ心の中で「思っているだけ」
これでは誰も知る由もないし、外部の世の中に何の痕跡も残らない。
だから、過ぎてしまえば、何もなかったも同然。
こういう理屈が成り立ちそうですね。
しかし、どうでしょうか。
本当に今の理屈が成り立つのでしょうか。
「何の痕跡も何の影響もこの世界には及ぼさない」
というのは物理的な側面で見た限りのことであり、「心で思う」ことは本当はとてつもない力で大きな影響を残していると、仏教では教えます。
「心の動きは、世界に何の影響も及ぼさない。痕跡も残らない。」
なんてどころではありません。
「あなたの世界は、あなたの心が生み出しているものだ」
と教えるのが仏教です。
だから心で思ったことが、そのまま自分の世界そのものを変えるということです。
「心」と「世界」を別物で扱うことが、ありえないのですね。
口で何かを言うということも、体で何かを行うことも、世界に影響を及ぼすことは間違いありません。
しかし、心で「思う」ということは、もっと根本的に自分の世界に影響を及ぼしています。
だから、最も大切なことは言ってることよりもやっていることよりも、「あなたが心で何を思っているか」ということだと仏教では教えます。
この重みの置き方が、一般的な常識と真逆なのが、面白いですね。
だけど、考えてみれば、
物理的にいい家に住んでいて、いい会社に勤めていて、妻がいて、子供がいて、やがて孫ができて「家族」も築いたします。
だけど、あなたの心がもし、不平ばかり思っていて、不満ばかりを抱いているとしたら、一体何のためにこれらのものを手に入れ、築いたのかということになってしまいますよね。
心一つで、世界はまるっきり変わってしまいます。
最も人を傷つけ、また喜ばせるもの
自分の心の中でどんな思いが吹き上がってもそんなに問題と思わないという人でも、
「他人がどう思っているか」
ということは、かなり気にするのですね。
自分の心にはそんなに重きを置かなくても、他人の心には非常に重きを置くものです。
特に、他人の自分に向けられた「思い」は、これ以上ない関心事かもしれません。
人を一番傷つけるのはやっぱり、他人のその人に対する「悪意」でしょう。
刃物で刺したり、鈍器で殴ったり、蹴飛ばしたり、そんなことをしなくても、目一杯の「悪意」をその人に示したら、その人は癒えない傷を負うことになります。
それぐらい、自分に向けられた他人の心は、大きな影響を及ぼします。
友達や同僚が、何をやっているか、何を言っているか、よりも何よりも、「私のことをどう思っているか」これが一番大事じゃないですか。
その人が社会に貢献している。何かの分野で活躍している。お金を稼いでいる。
そういう言動も興味の対象になり得ますが、そんなことよりも
「じゃあその人は私のことをどう思っているか」
何といっても気になるのはこのことですよね。
ロシアのツルゲーネフという小説家に「ツルゲーネフ散文詩」という作品があります。
その中で書かれた彼自身の体験の中で、ひときわ多くの人の胸を打つのが、彼と「乞食」とのエピソードです。
ツルゲーネフがある時、年老いた一人の乞食に、物を乞われた。
ところが彼もまた貧しかったため、財布も時計もハンカチも、何の持ち合わせもなかったのでした。
ポケットを探っても、自分の体中を探しても、その乞食に与えられるものが何一つ見つからなかった。
しかしその乞食の、助けを求める手は、未だ自分に向けられている。
すっかり困り果てたツルゲーネフは、物をその手に差し出す代わりに、その乞食のふるえる手をしっかり握って
「堪忍してくれ…何も持っていないのだよ。」
そう言うしかなかった。
ところがその乞食は、
「それこそ有り難い頂戴物でございます」
と喜んだ。
その乞食は、ツルゲーネフの自分を憐れみ、そして「すまない…」の「思い」一杯をその手を通して受け取ったのでしょう。
その「心」は、何よりの施しものだったということですね。
この話を聞いて、
「そんな「思い」なんかで腹がふくれるか、何が満たされるものか」
と思う人はそういないでしょうね。
「その気持ちが嬉しい」
という言葉はよく使われます。
これは単なる社交辞令じゃなく、私達の正直な気持ちに違いありません。
人を一番傷つけるのが他人の心なら、一番喜ばせてくれるのもまた、人の心です。
「心」が一番大事。
これは他人のであろうが自分のであろうが、人間にとっての普遍的な価値です。
目に見えないから、その価値が分かりにくいだけのことですね。
仏教では、人間の心の行いのことを「意業(いごう)」と言います。
「業」が行いということですから、文字通り「心の行い」ということです。
そしてその行いは、それが物理的な影響を周囲に及ぼすことが全くなくても、目に見えなくても、形はなくても
それが私の「行為」である以上、決して消えることはありません。
心の中で思うという行いは、私の未来の結果を生み出す種となって、私の中に残り、決して消えないということです。
これを「業不滅」といいます。
それは私の未来の結果を生み出す原因であり種であるので、「業因(ごういん)」とか「業種子(ごうしゅうじ)」と言われます。
これは、心の行いに限らず、体での行いも口で何かを言うという行いも、同様に「業因」「業種子」となって、すべて私の中に残ります。
体の行いのことを「身業(しんごう)」
口の行いのことを「口業(くごう)」
と言って、これらも業(行為)である以上、全て私の未来の結果の引き落とす種になります。
しかし、身業よりも口業よりも、最も強い力を持つのが意業であると仏教では教えられます。
先程から話している通り、「心」が最も大切だからですね。
「心で思う」というのはそれほど、重いことなのです。
私の心が、決定的に私の未来の結果を生み出す種となり、私の世界そのものを作る元となります。
だから、決して放置していてはいけない、何よりも見つめていくべきは自分の心だと言われるのです。
良くも悪くも移り変わる「心」
さてその「自分の心」がまた、激しく「無常」なのですね。
「無常」とは「移り変わってゆく」ということですから、心ほど激しく移り変わるものはないということです。
恐ろしいのは、自分の知らないうちに変化しているということです。
え、自分の心なのに、知らないうちに変わる!?
と思われるかもしれませんが、自分の心の変化に自分で気がつけないということはよくあることです。
自分が心から尊敬している上司がいるとします。
人徳や能力はもちろん、その志や信念が本当に凄いなと感じている。
さらに自分のことをまた気にかけてくれて、大変よくしてもらっていて深い恩を感じている。
その尊敬の念は、もう揺るがないと思うことでしょう。
だけど、もしその上司の共通の知人から
「君の上司には気をつけたほうがいいよ」
「自分の目的の為には、かなり強引なことをして周りを振り回す人だから」
「あのカリスマ性だから、みんな信じてしまうけど、本当はすごい我が儘な人だから」
そんなことを吹き込まれたら、どうでしょうか。
いやいや、そんないい加減なことを…
と、意識上は思っていても、間違いなく私の「心」は、何らかの影響を受けています。
自分の意識が強く、「そんなデタラメな噂を」「なんて悪意に満ちた中傷」と反発するのも事実でしょう。
しかしその一方で、その吹き込んできた人の心に触れて、何かしら心は影響を受けていて、そのことに気づくことは難しいでしょう。
それが後々にいろんな形で効いてくるわけですね。
まして、そんな噂を複数以上の人から聞いたらどうでしょうか。
頭では否定しながらも、心はやっぱり徐々に徐々に動かされているはずです。
いつしか、
「あの上司の言うことは鵜呑みにしないようにしようかな」
と気をつけるようになったり
「ちょっと、気をつけよう」
と警戒する気持ちが起きたりしてきます。
人の心は「無常」ですから、外からの影響を受けて「全く変わらない」あんてありえません。
そうだったら「無常」とは言われません。
もしかしたらそれは、大きな心の損失なのかもしれません。
だけどその損失に、自分では気がつけない。
そういうことがどれほど起こっていることか知れません。
もちろん、逆もあります。
自分が目指したい道へと、心を向けてくれる人。
自分と価値観を共有することのできる友達。
そんな人の存在は、自分が本当に進みたい道へ自分の心を後押ししてくれる縁となります。
そんな人と共に過ごす時間、その人から受ける言葉や行動、それらは自分の心をどれほど力強く動かしてくれるか知れません。
自分の心は、自分が認識している以上にとても大切なもので、同時にとても変化しやすい無常のもの。
このことはどれだけ強調してもし過ぎることのないことです。
目に見えないから、大切さも変わりやすさも、とても認識しにくいものですから。
それをよく理解して認識を持つことができれば、私の心にとって、どんな縁を大切にし、どんな縁を遠ざけるべきかが見えてきて、縁の選択をとても大切にするようになるはずです。
そしてそれが確実に、自分の人生を堅実に望む方向へと動かす方法に違いありません。