自分も他人も輝くための唯一の突破口〜変えられる世界と変えられない世界〜

コントロールが及ぶ唯一の世界

たまに、自分の過去の物凄く恥ずかしい事をふっと思い出す時ってありますよね。

私もつい最近、理由は分からないんだけど、一人で会社からの帰り道を歩いている時にふっと、
過去最大級の恥ずかしい思い出が蘇ってきて、
「ああ…なんであんなメールを送ってしまったのかな…」(メールがらみの出来事です(苦笑))
と、恥ずかしいやら悔やまれるやら、ものすごく感情がザワザワしてしまいました。
一人で、何やってんだ、て感じですよね。

まあ…思い出すものは仕方がない。
きっとこれからも、そうやってちょいちょい、心の平穏は乱される事なのでしょう。

だけど、当たり前で言い古された事ですけど、
「過去はどうがんばっても、変えようがない」
そして
「変えることが出来るのは、現在の事だけ」
ということなのですね。

「未来を変える事も、できるのでは?」
と思われるかもしれませんが、
「未来が変わる」のは、あくまで「現在を変えた」ことによって起きる「結果」であって、
「未来そのもの」を直接に「変える」という事はできません。
やっぱりあくまで、直接にコントロール出来るのは「現在の事」だけだということですね。
もちろんその「結果」として未来は変わって行くのですが…

つまりは、「現在にしか、種を蒔くことはできない」ということです。

あなたは今、
何処にいるでしょうか。
誰といるでしょうか。一人でしょうか。
目の前に何が見えるでしょうか。
周囲のどんな音が聞こえるでしょうか。
あなたが今、身を置いているその環境は、あなたにとっての現在の「縁」です。

そんな「縁」の中にあって、
あなたが今していることはもちろん、「このブログを読む」という行為ですよね。
「行為」は、あなたにとっての「因」です。
どんな環境にいて、あと何分、その行為が許される状況にあるか分かりませんが、せっかく今、それをしているのなら、
ぜひ一点集中、よく読んでください。
そして、画面から目を話してからのあなたの現実が、少しでも動いていたならそれは大きな収穫と言えるでしょう。
それは、現在の「因」と「縁」に一点集中した結果と言えます。

もちろん、今すぐに結果は現れないかもしれません。
明日かもしれない、明後日かもしれない。
何かのことで、今あなたが読んだこの内容がフッと浮かんできて、生きる場面が来るはずです。
それもまた、現在の「因縁」に一点集中したからこそです。
その「一点集中」度合いによって、そういう結果がどれほど起きるかは、変わることでしょう。

自分の現実を本当に変えたいのならば、
いかに「現在の事」に一点集中することが出来るか
このことにかかっているのですね。

他人をコントロールし得ない明確な理由

「過去」もコントロールは及ばない。
「未来」も直接コントロールは及ばない。
過去はもう、過ぎてしまった夢の如き世界であり、
未来は、まだ見ぬ想像の世界だからです。

「現在」だけが、私にとっての現実の世界なのですね。

さらに言うなら、
「過去」も「未来」もコントロールできないように、
「他人の世界」もまた、コントロールできません。

私はいま、あるカフェでこのブログを書いていて、隣に一人、別のお客さんが座っています。
右斜め前にも1人、左斜め前には、6人くらいのお客さんが座っています。
それぞれ、本を読んでいたり、パソコンをいじっていたり、スマホをいじっていたり、会話していたり、
そんな姿が見えます。

だけど彼らが今、どんな世界に生きているのか。
こればかりは、どうしても知りようがありません。
何を見て、何を聞いて、何を感じて、どんな感情で、どんな過去を引きずって、どんな未来に向かって…
その人は今、生きているのか。

今私が、自分なりの世界で生きているように、
彼らもまた、彼らなりの世界で生きているのは間違いありません。

だけど、他人について私が知り得るのは、表面上現れている姿だけであって、
その人が生きている本当の「現実」は、知る由もないのですね。

いや、そんな赤の他人ばかりではありません。
よく話をする友達だって、親友であっても、
一緒に住んでいる家族であっても、
自分が産んで育てた子供であっても、
「他人」である以上は、その人がどんな世界に生きているのかは、
やっぱり知りようがありません。

どれだけ関わりが深くても、たとえ一緒に生活していても、
私とその人とは、それぞれ異なった経験を日々積み重ねています。
生きれば生きるだけ、お互い、異なる経験を積み重ねますから、
それだけお互いの世界は異なっていきます。

一人一人が日々、積み重ねている「行い」を、仏教では「業(ごう)」と言います。
私たちが日々、やっていること、言っていること、そして思っていること。
これら全部が、私の「業」です。

私は私の「業」を日々積み重ね、他人は他人の「業」を日々積み重ねています。
そんな業に応じて、私も他人もそれぞれ違った世界を生きています。
そんな、業によって生み出されるそれぞれの世界のことを「業界(ごうかい)」と仏教では言われます。

私は、私の業界を生きていて、他人は、他人の業界を生きている。
お互い、いったいどんな業界に生きているのか。
それはどうやってもお互い、知ることはできません。

そんな他人の「知らない世界」の事を、私がコントロールするなど、出来るハズのない事です。
ここに、「他人をコントロールすることなど出来ない」と言われる理由があります。

過ぎ去った、夢の如き世界である「過去」を変えられないと同じように、
全く異なる、知り得ない世界である「他人の世界」をコントロールすることも、できる道理がないということです。
それがたとえ親友であっても、恋人であっても、自分が育てた子供であっても、です。
どれだけ関わりが深かろうが、「同じ世界に生きている」とは決して言えないのですね。
私の世界と異なる、その人の「業界」に生きているという事実は曲げようがありません。

コントロールできるのは、「私の業界」のみだということです。
現在の、私の因縁に一点集中して、私の業界を変えてゆく。
この事に全力を注いでいくべきなのですね。

私の課題は「ここ」まで

そうすると、やっぱり自分は自分、他人は他人ってことなのか。
結局、自分のことだけ考えていればいいということなのか。
他人に関心を持つことは無駄なことなのか。

そんな疑問が沸いてくるかもしれません。
私は私の世界しか変えることが出来ない。
ならば、他人にとって私はどんな意味を持つ存在なのか…?

それは逆に、私にとっての「他人」とはどういう存在なのかを考えれば分かることですね。
「他人」って、私にとっては何なのでしょうか。
それは、「縁」なのですね。
私にとっての大切な「縁」です。

私と付き合いのある「人」たちというのは、私が選んだ「縁」という事になります。
もちろん「選ぶ」余地もなく、関わっている「縁」もありますが。
それでも、その「縁」を大切にするか、避けるのか、無視するのか
それを決めるのはやっぱり私ですね。

その人の話を聞くのか、もっと深く関わろうとするのか、何か学び取ろうとするのか、
その「縁」を、私の世界の大切な要素にするかどうかは、すべて私次第です。

それは、他人にとっての「私」だって同じことです。
他人にとっての「私」は、その人にとっての数ある「縁」の一つです。
その人が「私」という縁を重視するのか、遠ざけるのか、それを私がコントロールすることは出来ません。

先程お話したように、私に出来ることは、私の業界を変えてゆくことだけです。
他人にとっては、そんな私を「縁」として、変わってゆくきっかけになり得るという事なのですね。
私が他人のために出来ることは、他人にとっての善き「縁」になる事、これに尽きます。

だけど、その「縁」をその人の業界の大切な要素として選ぶか選ばないかは、その人次第です。
受け入れてくれるかもしれないし、無視されるかもしれないし、拒絶されるかもしれない。
だけどそれはもう、私にはどうする事もできません。
それだけは、私にはどうにもコントロール出来ない事です。
その事を悶々と悩んでも、こればかりは詮無いことです。

だけど、人の心は無常です。
私の力でコントロールなどはできませんが、それでもどう変わるのかは分かりません。
今は、私という「縁」を拒絶していても、無視していても、
また心が変わって、気になることだってあるかもしれません。

だからやっぱり、私に出来ることは、そうなった時に魅力を感じるような「縁」となれるべく、
「今の私の因縁」に一点集中し、私の世界を、私の人生を、輝かしいものに変えてゆくこと一つなのですね。