人と人との絆の本質は何処に…?~私が結ぶ「縁」の仕組み~

どうせきっと、忘れられる

友達の子供と触れ合う機会がちょくちょくありまして、
だいたいその子たちは赤ん坊や幼児なのですね。
自分自身のその頃の記憶がないくらい幼い子供です。
いわゆる、
「自分にもこんな頃があったのかあ…」
なんて思うような触れ合いです。

その一時を楽しく、また貴重なものと思う反面で、
「だけどこの子は今の自分との関わりなんて、成長したら覚えてはいないんだろうな…
という、ちょっと寂しい気持ちも混じります。

だって、私自身にも赤子の頃の私をかわいがってくれた大人やお兄さんやお姉さんが、きっといたはずです。
3〜5歳くらいの頃、言葉も話せるような年齢になってから会話をした人たちも沢山いたはずです。
だけど、残念ながら何一つ記憶にありません。

きっとその頃に接した大人やお兄さんお姉さんと今会って、
「あの頃のお前は、こんなこと言ってて、こんなことしてたんだよ…」
と懐かしそうに語られても、きっと思い出せないと思います。

目の前にいる幼子もまた、今の私との時間を全部忘れるんだろうなあ…
接しながらもつい、そんなことを思ってしまいます。

だけど、記憶にないからと言って、その子との関わりは無かったことになるのかというと、
もちろんそんなはずはありません。
たとえ記憶に残らなくても、その時間、私と接したその子には、
記憶よりももっと深い部分に、「私との関わりの痕跡」が残るのですね。
そしてそれは、記憶が失われても、消えずに残り続けているものです。

私にも、今の自分の「記憶」にはなくても、
幼児の頃に私を可愛がってくれた人との関わりも、
私を面白がっていじめてくれた人との関わりも、
私のいけないところを叱ってくれた人との関わりも、
全部、私の記憶よりもずっと深い部分にその痕跡を残しているわけです。

そしてその「関わり」は、間違いなく今の私を構成する重要な要素となっています。
「私はいま、どうしてこんな気持ちになったのかな?」
「どうして今、こんなに悲しいのかな?嬉しいのかな?なんだか懐かしいのかな?」
自分でも分からない感情が起きたりする時は、もしかしたらそういう「記憶に残っていない関わり」の影響から来るものかもしれません。

影響を受けとる「私」の正体

仏教では、記憶したり思考したり判断したりする働きを持つ心を「意識」と言います。
これは、仏教で「八識」と呼ばれる「人間の心」の分類のうちの6番目に当たるものです。
まだ7番目と8番目があるということですが、
私たちの「意識」は、私の心の「本質」ではないということですね。

私たちは、「心」のごく表面部分しか認識できていないので、
「記憶している」
「思考している」
「ちゃんと判断できている」
という作用ばかりが「心」であるように思って生きています。
人間はこの「意識」が非常に発達して、よく働いてくれます。
今の人間の科学文明もこの「意識」によって生み出すことのできた産物と言えるでしょう。
それが非常に強力な機能であることは、間違いありません。

強力であるが故に、その機能ばかりが「目立っている」のですね。
その「目立つ」機能ばかりに気を取られて、
私たちはそれら「意識」の作用の背景にある心の動きにまでは、気が回りません。

今、私やあなたがしている「色々な思考」がありますよね。
「今日の仕事はこうだったな、ああだったな…」
「今、彼は、彼女は、何をしているかな」
「家に帰ってから寝るまで、何しようかな」
人それぞれ、色々な思考がいま、起こっていると思います。

その思考は「何処から」起こり始めたのか?

これについては私たちは知らないのですね。
「いつの間にか」思考が始まっているはずなのですね。
その始まった思考ばかりに私たちは気を取られて、
「その思考を始めさせた根源」には気が回りません。
けれど、その思考を突き動かしている根源である「本心」が、意識のもっと底にあるのですね。

こういうことは心理学でもよく言われている事だと思います。
仏教でも、8つある心のうち、「意識」はまだ6番目。
もっと深い領域の「心」があると教えられます。
その「本心」こそが、私の本質なのですね。

たとえ「記憶」に残らなくても、他人との関わりは、その「本心」に影響し、その影響は残り続けます。
それは決して消えないと言われます。
記憶が無くなっても、消えない私と他者との関わり。
これを仏教では「縁」いいます。

「縁」は残り、人生の糧となる

「私」の本質は、「意識」よりもずっと深い所にある。
このことを理解すればするほど、他者との「縁」についての理解も変わります。

「縁」は、ただの意識上のつながりだけではない。
もっと深い所にある「私そのもの」との関わり「縁」なのですね。
だから、記憶を失っても、縁は消えません。

これは、素敵なことであるかもしれませんが、恐ろしい事でもあります。
私たちの周りには、「望ましくない縁」も無数に存在します。
「あんな風にはなりたくない」と思うような人、というのはその典型です。
「他人の悪口を言って楽しんでいる人たち」とか
「口を開けば不平不満ばかりの人たち」とか
こういう人たちには、決して染まりたくはない、と思う人たちがいると思います。

「私は強い意思を持っているから、そんな人たちには決して染まりはしない」
というのは、私の「意識」だけを見てのことなのですね。
いくら「意識」で、「染まるまい、染まるまい」と思考していても、
その底にある「私そのもの」は、それらの「縁」をしっかり取り入れています。
文字通り「知らず知らずに」影響を受けているのですね。
その「影響」を、意識によって完全にシャットアウトすることは不可能です。

そういう「縁」の理解をしていれば、最も賢い選択は、
「極力関わらない」
ということになります。
もちろん、生活していくために、望ましくない人との関わりをゼロにはできません。
だけど極力、自分にとって善い縁を選ぼう、善い縁を選ぼうと努めるようなることでしょう。

そしてもちろん、善い縁もまた、無くなってしまうことはないと言えます。

だから相手に、「覚えてもらえていない」と、そこまで悲しまなくてもいいのですね。
「縁」は間違いなく、その人の中に残っているから。
…とは言っても、やっぱり忘れられたら悲しいですけど(苦笑)

人と人との関わりは、「意識」という表面的な部分だけでなされているのではない。
もっと深い所で、私と他人とは「縁」を深めているのですね。

私たちの「意識」の作用は、無常です。
「認知症」という形でなくても、いつかこの「意識」は必ず衰えていきます。
家族が、私を忘れてしまう日が来るかもしれません。
逆に私が、家族のことを忘れてしまう日が来るかもしれません。

赤子の頃にどんなに親しく接しても、覚えてもらえていないというのも寂しいですが、
お互い、意識のしっかりしている間に接して、お互いのことをよく覚えていたのに、
その記憶さえも衰え、相手に忘れられてしまう、ということはもっともっと寂しく悲しいことです。
それが家族なら、なおさらです。

だけどそれは、その人と家族としての「縁」が無くなったということでは決してありません。
積み重ねてきたその人との「縁」は、お互いの深い深い本心に、確実に残されています。
そしてそれぞれの未来を築くための大切な要素となるのですね。
これは、意識する、しないに関わらず否定しようのない道理です。

「本当の私」と、そんな「私」が結ぶ「縁」とを見つめることで、人生は全く違って見えてくることでしょう。