最も力を発揮できるモードに入るにはこの視点から〜保身と無我〜

「最善」と「保身」のせめぎ合い

「どうも、今日のパフォーマンスはイマイチだったな…」
と感じることがあります。
仕事だったり、プレゼンだったり、友達との悩み相談だったり、
ベストなパフォーマンスを発揮したい場面は多々あるのですが、どうにも力が出しきれてない感がある…
そういう時がありますね。
いや、もしかしたらそんな事ばっかりかもしれません。

一体、何が足を引っ張っているのでしょうか。
うまくいかない原因は様々でしょうけど、
「『自分』が気になって仕方がない心」
実はこの心が、ものすごく足を引っ張っているのですね。

ベストパフォーマンスというのは、その場における「最善の行動」であって、
千変万化する現実に臨み、常に最善の手を見出して、その手を打ってゆくことです。
「人相手」の場面では特に、相手の微妙な心の変化によって、状況は激しく変化するので、
常に「どの手を打つか」の難しい選択が迫られます。
だけど、迷っているヒマはそんなにありません。
すぐさま「決断」と「行動」しなけれならない。
その繰り返しなわけですね。

「最善の手を見つけ、その手を打ってゆく」
本当は、考えることはこれに尽きるのですけど、
それとは別の事を考えすぎてしまい、心の大部分を占めてしまい、判断を鈍らせてしまう事があります。
そうさせる心が「『自分』が気になって仕方ない心」です。

「私、変に思われているかな…」
「私の印象、あまり良くないかな…」
「嫌われないかな…」
「ウザいと思われないかな…」
「気持ち悪いと思われないかな…」
「後で叱られたりしないかな…」
こんな心が、ザワザワと起きて思考はかき乱されてしまいます。

考えるべきは、
「相手を見て、状況を見て、その場の最善手を打つこと」
それだけなのに、今そんなに考えなくていい事ばかりを考えてしまって、
どれほどパフォーマンスを落としてしまっている事か知れません。

「自分のこと」がとにかく気になって、
その「自分」を、守ろう守ろう…
そんな事に躍起になってしまうと、余計に「不安」や「緊張」を生み出してしまい、
「相手を見る」どころでもなくなり
「状況を見る」どころでもなくなり
ベストな行動を見出す思考はガクンと下がって、結果的に「身を守る」ことさえも、皮肉なことに叶わなくなります。

「何」を守ろうとしているのか

「自分のこと」がどうしても気になって、「自分を守ること」に思考が奪われてしまう…
こうなってしまうのは、ある意味、人間としてはとても自然なことで、無理からぬことでもあります。

結局のところ、私達が最も気になる事は、何よりも「自分」なのですね。
何かのイベントで撮った集合写真のデータがスマホに送られたら、まず指で拡大して見るのは、「自分の顔」ですよね。
その次が、好きな人、とか…?

この世でどんな事態が起きているとしても、最大の関心事はまず「自分」というわけです。
何よりも守りたいものは「自分」
どれだけごまかしても、綺麗事を言っても、この「本音」は、否定しようがありません。
大事な場面ほど、「保身」の思考が働いてしまうものですね。

ここで考えてみたいのですが、
気になって気になって仕方がない、
守りたくて守りたくて仕方がない、
そんな「自分」って一体、何なのでしょうか。

この「肉体」でしょうか?
そうすると、守りたいのは自分の「肉体」なのでしょうか?
だけど、その「肉体」を犠牲にしてボロボロになるまで働いて、守ろうとしている「自分」というのがあるわけですよね。
ということは「肉体」はあくまで私の「手段」です。
その「肉体」の持ち主が「自分」ということになります。

脳科学の世界では、
「脳だけで人間の心をすべて説明し切ることはできない」
という事が、かなり説得的に言われているそうです。
脳の化学反応が様々な複雑な思考を生み出している事は事実だとしても、
そんな反応が、「どうして始まるのか」という事を、脳科学では説明できないそうなのですね。
ということは「脳」はあくまでも非常に優れたコンピューターのようなもので、
それを操作する「人」がいなければ作動し得ないように、
「脳」を通じて「思考」を生み出している、脳以外の「何か」が存在するはずだということです。
そう考えてゆくと「精神」とか「魂」とか、そんな物質を超えた存在としての「自分」を想像することになります。

「自分を高める」と言ったら、トレーニングして肉体を鍛えることも、そうかもしれませんが、
それ以上に自分の「精神」の面を高めるという事がより本質的な感じがします。
「自分が傷つくのが怖い」というのも、この肉体が怪我したり傷んだりすることよりも、
精神的に傷ついてしまう事を言う場合がほとんどだと思います。

この肉体に宿り、この肉体を動かしている「精神」や「魂」としての「自分」
これこそ、私達が「守ろう、守ろう」としている「自分」だと言えるでしょう。
そんな「自分」が、傷つかないように、損なわれないように、他者から攻撃されないように、嫌悪の対象にならないように、必死になっているのですね。

「無いもの」を守ろうとしている?

「精神」「魂」と呼ばれるような「固定した主体」としての「自分」が存在する。

意識的にか無意識的にか、私達はそんな「自分」の存在を前提に生きているのかもしれません。
ところがもし、この前提そのものが「錯覚」だとしたら、どうでしょうか。
本当は、私達が想像しているような「精神」や「魂」といった「自分」なんて初めから無くて、
まるで有るかのように錯覚してるだけで、
そんな錯覚の産物である「自分」を必死に守ろうと躍起になっている…
実はそんな「惑い」に陥っているのが人間だと教えるのが仏教なのですね。

「固定した主体」としての「自分」が有るかのように錯覚し、
そんな「自分」にとらわれて、さまざまな惑いを生じさせてしまう。
そんな人間の「迷いの心」を仏教では「我(が)」と言います。
固定した、変わらない「我」というものが、あるかのように思ってしまう心のことです。

仏教でこれを「迷い」だと説くということは、
「固定した主体」としての「精神」や「魂」と言われる「自分」というものは、無い
というのが仏教の教えなのですね。
これを「諸法無我(しょほうむが)」と言われます。
「我(が)」とは、「固定した変わらないもの」ということで、
そんな「我」というものは、「無い」と説くのが仏教なのですね。

本当はないものを、有るかのように思い、それにとらわれ、こだわり、守ろう守ろうと躍起になってしまう。
この「惑い」こそが、あらゆるパフォーマンスの足を引っ張ってしまう原因となってしまっているのですね。

仏教で教えられる「自分」の実態は、いわゆる「魂」のような「固定したもの」ではありません。

譬えるなら「滝」のようなものだと教えられます。
「滝」というのは、パッと見るとなにかの「塊」のように見えますが、その実態は「固定したもの」ではありませんね。
次の瞬間、次の瞬間、新たな新たな「水滴」の集合体となって変化し続けています。
そんな「滝」のようなものが「私」の実態だというのですね。

今、あなたはこのブログを読みながら色々なことを「考えている」と思います。
「なるほど、なるほど、ふむふむ…」と思っているかもしれませんし、
「なんか、おかしなことを書いているなあ…」と思っているかもしれません。
もしかしたら、手元にコーヒーでもあって、それを飲んでいたりするかもしれません。
もし電話がかかってきたら、その相手と会話をし始めるかもしれません。
ちょっとトイレ…と、席を立つかもしれません。
このように、私達は絶えず何かの「行い」をしています。
実際に体を動かしての「行い」
口を動かして話をするという「行い」
心の中で色々なことを思うという「行い」
いずれも私達の「行い」に違いありません。
「思ったり」「考えたり」というのも「行い」とするならば、「行い」は途切れることなく常になされているもの、
という事ができるでしょう。

これらの「行い」を仏教では「業(ごう)」と言います。

仏教はこの「業」を非常に重視します。
なぜならこの「業」こそが、私達一人一人の未来の運命を生みだす「種」だからです。
「行動」こそが自分の未来を生みだす。
これは、もう色んなところで言われている事ですが、仏教の言葉で言えば、
「業」こそが、運命を生みだす種である、という事なのですね。

そんな種となる「業」が絶えず造られている。
常に、新たな新たな「業」が造られ、そして「業」は次々と「運命」を生み出してゆく…
この繰り返しの営みは、さながら「滝」のようなものです。
新たな、新たな水滴が次から次へと落ちてゆくように、
常に新たな、新たな「業」を造り続けている。
これが、紛れもない「私」の実態なのですね。
つまり「自分」とは、その「業」の集積のようなものであり、それは常に滝のように変化し続けているものです。
決して「固定したもの」では無いのですね。

そうすれば、大事なことは、「どんな業を造り続けるのか」という事に尽きるのですね。
まさに、「最善手を打ち続ける」事です。

それこそが、本来の意味で「自分を守る事」になるわけです。

「固定した主体」としての「自分」にとらわれる事なく、
「私」とは「業の積み重ね」に尽きるのだ、という視点にシフトした時にこそ、
本当に全力で、自分の「行い」にのみ集中し、最善の判断とパフォーマンスが生み出されてゆく事でしょう。