「過ち」への向き合い方~「意識」と「道理」~

忘れなければ生きていけない

地球上の生態系は、生命が維持し続けられるように非常によく出来ているのですね。
中学校の頃に理科で習ったのを覚えているでしょうか。

地球上の生態系で言えば私たちは「消費者」だそうです。
生命を維持するために色々なものを食べて(消費して)活動します。
私たちを含めて、「食べて」活動している生物はみな「消費者」に当たるということですね。

それに対して、光合成をして栄養素を生成して茎や葉を茂らせて実をならす植物は「生産者」に当たりますね。
私たちが生きて、活動するための元となる栄養素を生産してくれている、かけがえのない存在です。

この「消費者」と「生産者」に加えてもう1つの大事な役割を担う存在がありますね。
それが「分解者」です。
「消費者」も「生産者」も、やがて命尽きて、栄養素を含んだ体を残して息絶えます。死骸になるということですね。
その死骸を、腐敗させてやがて土となるように分解させるのが、細菌・菌類たち微生物の役割です。
彼ら「分解者」がいなければ、地球は死骸だらけになって、次の生命が現れることは阻害されてゆき、生命は絶えることでしょう。

私たち一人一人が人生を歩んでいく上で、そんな「分解者」のような役割を果たすのが「忘れる」という機能だと言えます。
「忘れること」

「切り替えること」
生きていくためにこれは、どうしても必要なことだと言えます。

自分の行動を悔いることが、私たちには山ほどありますね。
「なんで、あんなことを言ってしまったのかな…」
「なんで、こんなことをやってしまったのかな…」

一時的な行動に対してそう思うこともありますが、時には1日中の行動に対して悔いることもあります。
「今日の1日、どうしてこんな過ごし方をしてしまったのかな…」
自分の状況を考えたら、ああしなきゃいけなかった、こうしなきゃいけなかった。
なのについつい、こんなことにハマってしまって…
1日丸ごとに対して悔いることもあります。

いや、更に大きなものだと、もっと長いスパンにわたってしてきたことを悔いることもあります。
「私は長い間、あの人にずっとイヤな思いをさせ続けていた」
「親に対して、恩知らず、恩を仇で返すような事をし続けていた」
「上司としての自分の無自覚な言動で、こんなにも彼らに辛い思いをさせ続けていた」
それまで自覚なく、続けてきた行いに対して悔いなければならない時の辛さときたら、半端なものではありません。

「私ね、ずっと辛かったんですよ。あなたのこの言動が。」
そんなことを言われた日には、ちょっとすぐには立ち直れないぐらいのショックと申し訳なさで一杯になります。

一時的な自分の過ちも辛いことですが、長年にわたる過ちに気づいてしまった時には、その何十倍、何百倍もの悔いるべき内容が突きつけられるのですから、まともに向き合うと耐えがたいものがあります。

だけど、そういうことが私たち一人一人には、あるものです。
月並みな言い方ですが本当に「過ちの無い人なんていない」ということです。
気づかない過ちをどこかで犯していて、それが継続的に言動に現れていて、誰かがそれで苦しんでいる。
そして時にその事実を突きつけられることがあります。
深い後悔となりますね。ひどく落ち込むことでしょう。

…だけど、いつまでも落ち込んでいるわけにもいかないのですね。
それでも人生は続いていく。明日はそれでも来るわけで、私たちは生きていかなければならない。

だから、時には「忘れる」ことも必要になるのです。
そういう「過ちという行動」を全部記憶してしまっていたら、おそらく生きていけません。
過ちだらけの人間、その過ちの行動を負の自己イメージとして全て具体的に記憶してしまっていたら、どんな強靱な精神でも耐えることができないでしょう。

だから人は、忘れる。
ちょうど、地球上に菌類・細菌類が存在して、生物の死骸を分解して土に還すように、限りある人間のキャパで背負い切れない記憶を薄れさせ、消去させていく。
「忘れる」という機能が人間についているのは、生きるために必要だからなのかもしれません。
もちろん、忘れちゃいけないこともあるでしょう。「これだけは忘れてはいけない」と胸に刻むこともあるでしょう。
だけど、「全部」を記憶しておくことはやはり現実的ではないのですね。

「忘れる」こと。
そして、
「切り替える」こと。
人間が生きていくために、これは必要なことです。

「反省は、太く、短く」
という教訓があります。
過ちに向き合う時には、徹底的に向き合って、ごまかさない。
そうして改めるべき点を見つけて、その改善を心に強く決める。時には書き留めたり宣言したりもする。
そこまでやったなら、もうこれ以上は引きずらないことも必要ということです。
「失敗した、過ちを犯した、自分はダメだ」
というイメージを深めても、自分にも周りもあまりいいことはないはずです。
ここからは、「切り替え」ですね。
改善した「行動」を自分の中に据えて、リスタートです。

太く短く、精一杯の反省と改善対策をしたならば、あとは「切り替えて」また前へ進んでいくしかないということです。
過ちを犯しても、失敗を犯しても、それでも私の人生は続いていくわけですから。

切り替えても道理は忘れない

ただ、それと同時に知っておかなければならないことがあります。
忘れようが、切り替えようが、たとえ、自覚すらしていなくても、
一切の過ちも含めて私たちの行為は、決して消えないということです。

…いや、せっかく「切り替えよう」という話をしているのに急に「だけど行い消えない」だなんて。
と思われるかもしれませんね。

「切り替える」というのは、意識の問題です。
生きていくために、自分の意識をどのようにコントロールすればよいかという問題です。

それに対し、「やった行いは消えずに残る」というのは、ごまかし得ない真理の話です。
私たちが記憶していようがしていまいが、引きずっていようが引きずるのをやめて切り替えようが、自分のやった行いの結果は自分が受けるという「自業自得(じごうじとく)」の真理のことです。
報いをもたらすことなく行為が無かったことになる、ということはあり得ないということです。

真理というのは、自分の思いや都合で変えることのできないものです。
「水は高い所から低い所へ流れる」
私たちがどれだけ「逆になれ、逆になれ」と願っても思い込んでも、どうにも変えることはできません。
自分の行いが自分に報いるという「自業自得」というのは、どうにも変えがたい真理なのですね。
私たちが意識をどうコントロールしようが、それとは無関係に展開してゆくものが自業自得の道理です。

この道理を理解し、忘れずにいることで、やがてその道理が現実化して報いが現れた時に、大きく迷わずに済みます。
これまでたくさん、「忘れて」きた「切り替えて」きた「自覚すらせずに」多くの過ちを犯してきている。
それが報いるのもまた道理だということをちゃんと理解できる。
このことは、人生の大きな助けとなります。

「忘れて」しまい「切り替えて」しまったのだから、その過ちの報いは私たちにとって「理不尽」と映ります。
文字通り「こんな報いを受けるなんて身に覚えがない」です。
当然です、「忘れた」のだから。
だからこそ、「自業自得」の道理を忘れないこと。そして自分は数々の過ちを忘れてきていることを自覚すること。
このことが、極力迷うことなく報いを受け止める準備となります。

理不尽な結果を受けるということは、本当に辛いことです。
そしてその辛さは、時に他人への八つ当たりとなったり、ヤケを起こさせたり、何かの迷信にすがってしまったりと、余計に苦しみの深みへのハマってゆくこともあります。
「得体の知れない原因に苦しめられている」
というのは、どうにも耐え難い辛さなのです。

そんな時に、自分が生きていくために「忘れて」きた行為の数々は決して消えず、必ず報いるのだ、という道理を理解しておくことが大きな助けとなるはずです。
得体の知れない原因ではない。原因は間違いなくある、ということを理解できていることは、迷いに対する力強い歯止めなのです。

生きていくために「切り替える」という意識上の営みも大切なことです。
それと同時に、「切り替えても、行為は消えずに必ず報いる」という道理を理解することも大切。

過ち多く、理不尽も多いこの人生を乗り切るために、どちらも必要な智慧だと言えます。

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