容疑のかかった「私」の人物像
私にもし殺人の容疑がかけられていて、その前提で周囲の人に私についての取材がされたら、みんなはどう答えるだろうか…
「白ゆき姫殺人事件」という映画を見て考えたことでした。
この映画は4年前に上映されたもので、「とても考えさせられる」と評判のいい映画でした。
題名の通り、話は殺人事件から始まります。
ある化粧品会社の美人OLが、全身メッタ刺しの上、遺体を焼かれるという凄惨な事件でした。
その犯人として浮上した人物が、被害者の同僚の「城野美姫」で、被害者とは対象的な、特徴のない地味な女性。
彼女は今、事件当時から行方をくらましている。
そしてマスコミが、美姫の周囲の同僚や友人知人に取材をしていく中で、彼女の色々な人物像が語られてゆくというのがこの物語の主な流れでした。
他人が語る人物像
これは、この物語の一貫したテーマであったように思います。
この映画を観ていると、思わず
「自分だったら、周囲の人にどのように語られるだろうか」
と考えずにいられません。
もし、自分の勤めている会社で同じような事件が起きて、私が何らかの事情で行方をくらましていて、私に疑惑が向けられる。
そしてマスコミが会社の同僚に私の人物像についての取材をし始めたら…
私は、どんなことを言われているでしょうね。
「いやー、なんか前から変な人だと思ってたんですよー」
とか、言われていても全然不思議じゃないですね(苦笑)
あなたは、どうでしょうか。
「いや、あの人は絶対そんなことをするはずがありません」
と、みんなに言ってもらえそうでしょうか。
ちょっと、心配になりません?
普段、一緒に仕事をしているといっても、やっぱり他人ですから。
本当のところどう思われているかなんて、分かりません。
仕事をしている間の、ほんの一部の自分しか見せていない他人。
そんな他人が抱く私の人物像なんて、そのほとんどがその人の想像の産物です。
そこに「犯罪の疑惑」という要素が加われば、「いかにも怪しい人物像」なんて、いくらでもその人の想像の中で作られてしまいそうです。
例の映画に話を戻しますと、取材を受けた同僚が、容疑者・美姫について
「あの人は普通じゃないんです」
と、まことしやかに語るのですね。
基本的に、おとなしくて自己主張の少ない人物だったため。
「常に何かを抑え込んでいる感じがする」
「時折、ゾッとするような薄ら笑いが浮かべていた」
という話が出てくるわけです。
そして、
「同期の美人OLに恋人を取られた恨みから、殺害したに違いない。」
と、強く確信しているのですね。
それにしても、普段、一緒に仕事をして、色々と苦労を共にしてきていただろうに。
そんな同僚も、一度疑いの目をもって見れば、
「人を惨殺しかねない異常者」
というイメージをいとも簡単に作り出してしまうのが、恐ろしいですね。
考えてみると
「抑え込んでいる感じ」とか「ニヤリという薄ら笑い」なんて、いかにも主観で作られそうなイメージですよね。
私がそう思われていても、何ら不思議ではないと思います(苦笑)
今こうしてブログを書いている姿も、見ようによっては、誰かに対して悪辣極まる非難中傷を掲示板に書き込んでいるようにも見えるかもしれません。
一度疑いの目をもって人間を見たならば、どんな人にも「異常者」の根拠を見つけ出せてしまうものです。
「一度カッとなると、かなり感情的になる人だった」とか
「裏表の違いがとても際立っている人だった」とか
「なんでも完璧にこなさいと気がすまない、神経質すぎる人でストレスも多かったと思う」とか
「けっこうグロテスクな映画が好き」とか
「人を銃で撃ったりナイフで殺傷したりするようなテレビゲームにハマッていた」とか
「かなり変わった性癖を持っている」とか
そんな誰だって一つや二つあってもおかしくない、むしろ無いほうがおかしいような特徴が、「人を殺しかねない異常者」のイメージを作り上げる材料となってしまうのですね。
マスコミは、こういう事件が起きた時に、容疑者の生い立ちなんかを調べますね。
小学校のクラスメートや教師や近所のおじさん、おばさんの容疑者に対する印象などがテレビで語られたりします。
だけど考えてみると、
今、タイムリーに接している人でさえも、勝手な想像で人間像を作り出すのに、
まして、10年以上前の記憶を語らせるというのも、なんとも危うい話ですよね。
しかも、殺人の容疑がかかっているという前提で…
私が知っている「私」も変わってしまう
映画でさらに印象的だったのは、そのマスコミの取材によって作られたテレビ番組を美姫本人が観ている場面でした。
同僚やクラスメートの想像で作り出した「人を殺しかねない異常者」という自分の人間像をテレビを通して聞かされるのです。
それを見た美姫がこんなことをつぶやきます。
「私は、私が分からない…これが、城野美姫という人間なのでしょうか…」
他人が勝手に想像するならまだしも、自分自身でも、「私はそんな異常者なのだろうか」と思ってしまうなんてと驚きますが…
だけど考えてみると、私が知っている「私」も、やっぱり私の想像上のものなのかもしれません。
私が私に対して抱いている「イメージ」もまた、私の都合や願望で作り出している人物像なのですね。
だから、私に対する「私はこういう人間」というイメージは、いくらでも変化します。
時折本当に、自分で自分が分からなくなります。
仏教では、一人一人が自分の心の中に、自分でも知り得ない「秘密の蔵」を抱えていると言われます。
他人が私の心の中を知ることが出来ないのは当然なのですが、実は自分でも自分の心の中を知ることができていないと教えるのが仏教です。
確かに私達は、人知れず色々な考えや思いを浮かべており、そのことを自覚しております。
「あの人、気に入らないな…」
「この人、本当に好きだな…」
「今日のお昼、何を食べようかな…」
他人には分かりませんが、自分の中で色々な心が動いていることを自覚していますよね。
だけどもっと突っ込んで、
じゃあ、なぜこんな心が起きてきたのだろうか?
なぜ、この人のことが気に入らないのだろうか?
なぜ、この人のことがこんなに好きなのだろうか?
こういうもっと深い領域となると、そこは自分でも分からなくなってしまいます。
他人も自分も覗き込むこともかなわない「秘密の蔵」が、心の奥底に確かにあるのです。
他人の知る「自分」も、自分の知る「自分」も、いずれも部分的な情報から作り出された「イメージ」に過ぎず、それはいくらでも変化するものです。
ストレスなく全てを変える道
他人は他人の心で私をイメージしていますので、そのイメージを私がコントロールすることは難しいのですね。
他人の心がどう変わるかなんて、それこそ他人の勝手であって、私には分かりません。
だから、他人の持つ私のイメージがどう変わるかなんて、知るよしもないわけです。
そんな他人の持つ自分に対するイメージに私達はついつい一喜一憂してしまいます。
なかなか思い通りのイメージを抱いてもらえないと、悶々とすることもあります。
だけど考えてみればそんな他人の勝手な都合なんて、私でコントロールし得るものではありません。
私の思い通りにならなくて当たり前のことです。
「いや、私のイメージなのに、私がコントロールできないなんて…」
と思いますが、私に対してであろうと何に対してであろうと、他人の都合や思いに、私が直接手出しすることなどかないません。
コントロール出来ないものをコントロールしようとして苦しむ。
ストレスの原因の多くはこれと言っても言い過ぎではないでしょう。
中でも「他人の自分に対する思い」はその最たるものです。
私達はこれを、どうにかしようとして悶々としてしまいます。
だけどそんな私達の思いとはうらはらに、他人は勝手な都合で勝手なイメージをどんどん作っていきます。
どうかすれば、「殺人しかねない異常者」というイメージすらも、勝手に作り上げてしまいます。
これをなんとか私がコントロールしようとし始めたらそれが、空回りの始まりと言わざるを得ません。
コントロール出来ないものは、コントロールしようとしない。
このように決めることが出来たなら、相当のストレスが解消されるでしょう。
コントロールし得るものがあるとすれば、それは、「私の」私に対するイメージです。
これは、それこそ他人に手出しされるものでもありません。
自分の世界の問題であり、自分で作り上げてゆくものです。
私の「こうありたい」というイメージを私に対して強く抱く。
その私のイメージが私の行動に現れて、現実味を帯びた自分自身の人間像となってゆきます。
そうするとますますそのイメージは確固たるものとなっていきます。
そしてそれがまた、行動に現れてゆきます。
心の行いのことを仏教では「意業(いごう)」と言い、強い力を持った種を蒔くようなものです。
そういう心の種蒔きをし続けることから、全ては変わってゆくのですね。
心の種蒔きから、身体や口での種蒔きが現れて、結果が現れていく。
仏教が教える「自業自得」の道理です。
自分の行い(心の行い、口の行い、身体の行い)が、自分の結果を変えてゆきます。
そうこうしているうちに、そんな私の行動を見ている他人が影響を受けて、いつしか他人が勝手に、そういうイメージを抱いてくれるようになっていく…
結果的には、こういう形で他人を「変えた」ということは、ありえることです。
だけどそれは結果であって、その始まりはやっぱり、「私の」私に対するイメージを強く抱くところからです。
他人が抱く私のイメージは、とりあえず他人に任せる他はないのですね。