「自分はダメだな…」の思いにくじけないために〜「自分へのダメ出し」の正体〜

私に一番「ダメ出し」をする人は…

自分に一番、「ダメ出し」をしてくる人って誰だろう?
ということを考えてみると、どんな人が出てくるでしょうか。

真っ先に「仕事上の上司」が思い浮かぶ人もいると思います。
案外「仕事上の部下」が…という人もいるかもいるかもしれません。
「奥さんです」というのも、ありそうだし。
「親」「先輩」「友達」「学校の先生」
などなど…

「あなたのそういういう所は、ダメでしょう」
という指摘を他人にされることは誰でもあると思います。

だけど、
「一番ダメ出しをするのは、実は自分自身なんです」
こういう人も決して少なくないと思います。

自分で自分の
「こういうところがダメだな」
ということをしょっちゅう思ってしまう。
「デリカシーの無いことを言ってしまうな…」
「周囲に全然、気を配れていないな…」
「気の利いた言葉を全然言えないな…」
「物覚えが悪いな…」
「自己管理が甘いな…」
などなど、自分の悪いところを挙げろと言われたらいくらでも挙がってしまう。
それがあまりに重なると、もう自分のことが嫌で、自分のことが嫌いでたまらなくなってしまう…
「自己反省が深い」と言えるのかもしれませんが、
ちょっと極端なくらいに、自分を貶めすぎているように感じることも少なくないのですね。

他人が他人に対してダメ出しをする場合は、
あまり言いすぎると嫌われてしまうと思うので、歯止めがかかることも多いですよね。
ダメ出しする相手に対する遠慮もありますし、周囲の人からの印象も気になります。
「あの人、他人のダメ出しばっかりしている」
なんて、言われたくありませんし。

だけど、「自分自身」に対してだと、そういう歯止めがかかりません。
自分の中で自分にどれだけダメ出ししまくっても、
それで他人から嫌われることはなさそうですよね。
そもそも外から分かりませんし。
また仮に「自分にダメ出しする内容」を他人に話しても、
あくまで対象は自分なのだから大丈夫、という感覚があったりして。

とにかくそこに「遠慮」が入りにくいのですね。
なので、「自分にダメ出しをする」というのは、
とかく「やりすぎ」になってしまうことが少なくないようです。

何より「自分相手」という視点になると、感情的になりやすいのですね。

「気になる」人のことを考えると、冷静に分析することって難しいじゃないですか。
だけど、私たちが一番気になっている人は、他ならぬ「自分自身」と言えるでしょう。
「結局、自分に一番興味がある」
「集合写真を渡されても、真っ先に確認するのは自分の顔。その次が好きな人の顔。」
てな具合で、「自分」というのは、何よりも気になる存在だということは否定できません。

そんな「自分」のことを考えれば、「気になる他人」以上に感情的な思考になりがちなのですね。
ついつい自惚れて、自分のいい所ばかりがやたらと挙がってしまうということも、もちろんあります。
だけど逆に、「気になる」が故に「ダメ出し」をし始めるとこれまた極端に、
ここもダメ、こういうところもダメ…
と、攻撃的になってしまい、それで自分のことが嫌いになるとますます、「ダメ出し」が増えてしまいます。
「自分」を冷静に見るのは、難しいことなのですね。

「自分はダメだなあ…」の正体を掘り下げてゆくと

自分に対して
「ここがダメ、こういうところがダメ」
と思っている「ダメ」の基準って、何なのでしょうか。

「良い」や「ダメ」という評価には必ず、「基準」があります。
オリンピックなどで、体操競技やフィギュアスケートに審査が入り、点数がつくのも、そのための「評価基準」が存在しますよね。

私たちが何気なく、
「自分はダメだなあ…」
と思ってしまう時の「ダメ」の基準は、一体何なのでしょうか。

多くの場合はそれが「他人の都合」なのですね。
具体的には、
会社の都合、友人たちの都合、家族の都合、その他の所属コミュニティ都合
といった具体に、私たちは何らかの他人の集合体と関わって生きていますので、
知らず知らずにその「他人の都合」という価値観を植え付けられてしまいます。

周囲の他人がその都合を振りかざして自分に「要求」したり「ダメ出し」したりすることは、もちろんあるでしょう。
ところが、いつしか「自分」までもが「自分」に対して、それをするようになっていきます。
まるでその「都合」が絶対のルールであるかのようになり、
そのルールに反する自分の行動を、まるで自分で「罰する」かのようになり、
「自分に対する断罪」を、重ねてゆくのですね。

もちろん、周囲の他人の都合を無視して生きることはできません。
その都合に上手に合わせていくことは、生きるためには必要なことでしょう。
あまりに無視すれば、だいぶ生き辛くなってしまうのは否定できません。

だけど、その他人の都合のために私は生きているのだろうか?
そんなに「他人の都合」が、私にとって絶対のルールなのだろうか?

そう問うてみれば、Noだと思います。
そんな都合が必ずしも正しいとは限りませんし、状況に応じて「都合」なんてのは変わっていきます。
昨日まで都合よかったものが、今日から都合悪くなる、なんてこともあります。
あの人には都合よかっても、この人には都合悪い、なんてことはいくらでもあります。

そんな、千変万化する都合を絶対のルールかのように自分に押し付けていては、
「ダメ出し」など果てしのないことになってしまいます。
そうしているうちに、
自分は一体何を望み、何を求めて努力しているのか、ということさえ見失ってしまいます。

本来の「反省」の本質は

仏教でも、自己を顧みて、自己を反省することは大切なことだと教えます。
けれどそれは、他人の都合を自分に押し付けて断罪する、ダメ出しする、
ということではありません。

あくまでそれは、「因果の道理」に則ってのことです。
常に仏教で教えられる事の根底には「因果の道理」という根幹の教えがあります。
これは、
「自分の人生、これからどうなってゆくか」という自分の未来は、
自分の「行い」が生み出してゆく、という真理のことです。
だから、自分に望ましくない結果が現れるのも、自分の「行い」が引き起こしているものだし、
自分の未来を望む方向へ変えるためには、自分の「行い」を変えなければならない。

それで仏教では、「私の行い」というものを重視します。
その「行い」に応じた結果が自分に返ってくるからです。
これを「因果応報」と言います。
行いという「因」に応じた「結果」が報いる、ということです。

だから、「自己を反省する」ということは
自分に今、望ましくない結果が起きているとすれば、
「自分のどんな行いが原因なのだろうか?」
と、その原因を突き止めてゆくという事なのですね。

別に、「責める」わけではありません。
まして、他人の都合というルールに照らして断罪する、なんてことではありません。

ただ自分に起きている結果と、自分のしてきた行いとの関係を探ってゆくという、
因果の道理を観つめる事に他なりません。
そして、自分の望む未来のために、自分がこれから作る「行い」という「因」を模索してゆくことなのです。
他人の都合を自分に押し付けて責めるような事とは違います。

どうしても私たちは、他人と関わらずして生きていけませんし、
「他人の都合」は自分に色々なことを要求してきます。
「無言の要求」もあれば、あからさまに主張されることもあります。
そんな中で生きていけば、その「他人の都合」を無意識のルールとして植え付けられるのも無理のないことです。
だからつい、他人の都合を基準として「ダメ出し」を、自分に行ってしまっています。

大切なことは、この実態の構造をよく理解しておくことです。
自分で思う「ダメだ」は、他人の都合による評価に過ぎないのだな、ということです。
その時、その時の状況で変化する「他人の都合」
人によっても変わってしまう「他人の都合」
ただ、今縁のある「都合」にそぐわないだけのことを「ダメだ」と言っているのだなと。
その「ダメ」の意味を、よく理解しておくことが大切です。

そのことを知っておけば、そればかりに支配されることはないということが見えてきます。
見るべきは、私の人生を切り開いてゆく「因果の道理」であり、
因果の道理に則った、自分の人生を自分の望む方向へ変えてゆくための「反省」こそが、
最も大切なことなのですね。