「理不尽」を乗り越える智恵~「愚痴」に向き合う~

納得いかないことだらけの「理不尽」な世の中

「なぜあの人があんな評価を受けるのか、納得がいかない」
こんな気持ちになる人はきっと、大変努力している人だと思います。
そうでないと出てこない気持ちですよね。

真面目に、コツコツと、他人が楽している時でも、自分は仕事に勉強に、努力している。
そして、依然として自分に思うような結果が現れて来ない。
それでも悶々としながらも耐えて、努力している。

そんな時に、少なくとも自分よりも努力しているとは思えない他人が、自分よりも高く評価された。
そんなことがあった日には、
自分の努力をあざ笑うかのような理不尽な結果としか見えないと思います。
口では
「そうか、良かったな!」
と、労いの言葉をかけ、さわやかな笑顔で祝福するけれど、内心は苦々しい思いで一杯となってしまいます。

だけどこういう「理不尽」に溢れているのが世の中であり人生でもありますね。
あまりにもそんなことがあると、努力したり我慢したりするのが馬鹿馬鹿しくなったりします。

なので、こういった現実をどう受け止めたらよいのかというのはとても大切なことです。

こういう「理不尽」は本当に多いのです。
これだけ多いということは、世の中にはそんな「理不尽」を感じざるを得ない「構造」があるということでしょう。

じゃあ、「理不尽」を感じざるをえない「構造」とは何でしょうか。

「それこそ、この社会のしくみだ!理不尽な格差をもたらす社会が世の中を腐らせている!」
ということでこの「社会」を変える努力をしている人も大変多いと思います。

ただ考えてみると、そうやって、これまで何百年、何千年も「社会を変える」をやってきて、今の社会があるわけですよね。
だけどその時代、その時代の社会にいつだって「理不尽」は存在していました。
「努力は報われない」
「納得のいかない形でいい目を見ている人が多すぎる」
そういうことが、いつの時代だってありました。

どこかの国、いつかの時代で、「正当な努力が正当に報われる社会」だと誰の目にも明らか、なんて世の中があったかというと、おそらく無いでしょう。
「誰の目にも正当」どころか、ほとんどの人がいたるところで「理不尽」を感じています。

「社会のしくみ」というのは、きっかけではあるでしょうが、理不尽を感じざるを得ない根本原因は別のところにあります。

「正当な努力をしていない他人」を解明すると

「正当な努力が正当に報われて」しかるべきなのに…

「自分の努力が報われている気がしない」
そして
「正当な努力をしているとは思えない人がいい目を見ている」

どうしてこんなことになってしまうのでしょうか?

そこで
「正当な努力をしているとは思えない人がいい目を見ている」
この現象をもっと深堀りして考えてみたいと思います。
まずこの現象には2つの要素があります。
「正当な努力をしているとは思えない」

「いい目を見ている」
の2つですね。

結論から言うと、私たちはこの2つのどちらか、あるいは両方共を、見誤っている可能性があります。
他人のこの2つことに関して、私たちは常に見誤るリスクを抱えていることは否定のしようがないのですね。

まず考えてみたいのが、
「正当な努力をしていない」と言っている、その「正当な努力」とはどんな努力のことだろうか、ということです。
おそらくそれは、私自身が大事にしている努力と思います。
私自身がこだわっている内容についての努力と言ってもいいですね。

努力のこだわりポイントって、実に人それぞれ、多種多様なのですね。

「時間を守る」ことにこだわっている人にとっては、時間通りに仕事を始めて、仕事の納期をキチンと守って、とにかく人を待たせないことに気を配って…といった努力ですね。

「休まない」ことにこだわっている人にとっては、自分の都合で周りに迷惑をかけないように努め、時には自分のプライベートを犠牲にしてでも責任をきっちり果たすという努力ですね。

「調和を大事にする」ことにこだわっている人にとっては、挨拶を心がけることはもちろん、感謝の言葉や労いの言葉を心を込めて周りの人に届けることにいつも心がけ、場を和ませるための努力です。

「ミスをしない」ことにこだわっている人は、何より集中して仕事に取り組むこと、確認はもちろん怠らない、「ミス」や「忘れ」を防ぐ仕組みを自分の中に構築するといった努力をしているはずです。

あげればキリがないほど、人それぞれに「こだわりの努力」がありますね。
私の努力のこだわりポイントと、あなたのこだわりポイントも、きっとどこか違うことと思います。
そして、その「自分のこだわりポイント」に大きく反する行動が、私たちにとっては非常に目に付くわけです。

「時間を守る」ことにこだわりポイントを置く人にとっては、1分の遅刻も気になるでしょうし、しかもその遅刻に悪ぶれる様子すらないとなれば、かなり心はザワつくはずです。

「休まない」ことにこだわりポイントを置く人にとっては、
「すみません、体調不良です」なんていう当日朝の会社への電話は、ちょっと心穏やかに流せないかもしれません。
ものすごい繁忙期に、「ちょっと有給で休みます」という行動が気になったり。
どう考えてもみんなで残業して片づけなければ、という状況で「お疲れさま~」と帰って行く同僚の姿を心からの笑顔で見送れないかもしれません。

自分の努力のこだわりポイントに反する行為というのは、イヤになるくらい目に付くものですね。
逆に言うと、「どうしても気になる(悪い意味で)他人の行動」を通して、私たちの努力のこだわりポイントを知ることができます。
「気になる」ということは、そこに私たちの「こだわり」があるということですから。

そこで、ちょっと想像してみてください。

もし、
「ミスしない」ことにはこだわるけれど「調和」にはあまりこだわらない人
「調和」をものすごく大事にするけれど、「ミスしない」に関してはかなり抜けてしまっている人
この2人が一緒に仕事をしていたらどうでしょうか。

しかも、その2人の上司がどっちかに偏っていたらどうなるでしょう。たとえば、「調和」を大事にする方に偏っていたりしたら…
「正当な努力をしていないのに、いい目を見やがって」現象は、間違いなく勃発するでしょうね。

私たちは、こだわりポイントに関しては良くも悪くも非常に目に付きます。
特に「反している」と感じた時はイヤでも目について、忘れられません。
逆に、全然自分のこだわりポイントでない事については、けっこうスルーしていて、その努力の存在にすら気がつかないということもあります。

自分と「こだわりポイント」がズレている人は、「正当な努力をしていない」と認識してしまう可能性が非常に高いのです。
この「自分のこだわり」の色メガネは、理屈でどうこうできるものではありません。
悪意がなくても、そのように「見てしまう」のですね。

見えない自業自得

ということは、私たちにとって
「正当な努力をしていないのにいい目を見ている」
と映る他人は、
「自分のこだわりポイントとは違うところの努力をして、その努力の結果を受けている」
という可能性が高いということです。

もちろん、自分のこだわりポイントについての努力は、していないと言えるかもしれません。
その認識には間違いはないとしても、自分のポイントからズレたところでの努力は、いくらでも見落としていることも否定できません。

一人一人、何らかの行動や努力をして、一人一人がその結果を受けている。

これが仏教で教える自業自得(じごうじとく)の道理です。

自分の行い(自業)が、それに応じた結果を生み出す(自得)という道理です。

私たちは自分の「自業自得」についても、他人の「自業自得」についても、自分のこだわりという色メガネをつけて歪んで見てしまっているという実態があります。
その結果、「努力もしていないのに結果を受けている」と他人を見て、ついつい許せない気持ちを起こしてしまいがちです。
これが、いわゆる「妬み」の構造だと言えます。

このように、「自業自得」の道理を歪んだ目で見てしまい、他人に「妬み」の心を起こしてしまう。
これを仏教では「愚痴」といいます。
「愚痴」とは文字通り「愚か者」ということです。

かなり辛辣な言葉なのですが、仏教で「愚か」というのは、「自業自得」の道理が分からない状態を言います。
どんなに専門知識や常識的な知識を備えていても、頭の回転が早くても、「自業自得」の道理が分からずに、「妬み」を起こしてしまえば、それはやっぱり「愚痴」なのです。

私たちが他人に対して、苦々しい、妬みの気持ちを起こしてしまったときに、
「自業自得」の道理を歪んで見ている「愚痴」に陥っている
ということを自覚することがとても大切です。

社会のしくみの問題も、もちろん事実としてあるでしょう。
しかし根本的な「理不尽」を引き起こす仕組みは、人間が古来より普遍的にもっている、自業自得の道理が分からない「愚痴」にある。

この理解が、理不尽の溢れる世の中で力強く生き抜く智慧となります。

P.S.
「正当な努力をしていると思えない人がいい目を見ている」
という「理不尽」について、
今回は他人に対して「正当な努力をしていると思えない」と思ってしまう思考の仕組みをお話ししました。

この「理不尽」のもう1つの要素「いい目を見ている」という点について、今回は詳しく触れられませんでした。
だけど実は、ここにも私たちの見誤りがある可能性が高いですね。

これについてはまた別の機会に掘り下げてみたいと思いますが、一つだけ提案したいことがあります。

それは、自分にこんな質問をしてみることです。

「その他人の「いい目」は、本当に私が手に入れたい現実なのだろうか?」

「私が、私のこだわりの努力で手に入れたい現実は、そんな現実なのだろうか?」

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