「常識」のプレッシャーに負けずに自分の道を歩む指針〜恥じぬ行いの本質〜

社会人として感じる「後ろめたさ」

同期の人たち、今はどうしているかな…

高校時代の同期
大学時代の同期
最初に入社した会社の同期

彼ら、彼女らは今、どんな状況なんだろう…?
と、それらの人たちの存在は、やはり気になるものですよね。

そしてついつい、比較してしまいます。
立派な会社に入って、立派な役職についていたり
家庭を持って、子供が出来て、マイホームを持って、絵に書いたような「温かい家庭」を築いていたり
資格やスキルを数多く持ち、社会的な活躍の可能性を幅広く持っていたり
そういう現状を見聞きすると、焦る気持ちが出てくるかもしれません。

これらの点で、「自分は全然だな」と思うとなおさら、
「自分はこんなでいいのかな…」
という不安を覚えたり、
「いや、人は人、自分は自分」
と言い聞かせても、やっぱり、
「遅れをとっているのでは」と、
一種の後ろめたさを感じたりするのかもしれません。

だけど、この
「社会でちゃんと活躍してる」
というのも、考えてみればとてもあいまいな発想ですよね。

本当に、
会社に属している状態で、その勤務時間中に会社の指揮命令に従った行動をしたり
企業して、ビジネス活動をしたり、
そういうことばかりが、
「社会での活躍」なのか?

本当に、
結婚して「夫婦」という関係を作り、子供をつくっていわゆる「家庭」を築き、
その典型的な人間関係の中で、愛し、愛されることばかりが
「人としてのあるべき姿」なのか?

もちろんこれらのことが、「人間社会での活躍」であり「人としての自然な営み」の形の一つには違いないでしょう。
だけど、「それだけ」では、もちろんないですよね。

あくまでそれは、「多数の人が歩んでいる道」に過ぎません。

「整備された道」を歩くことが偉いのだろうか

たとえば、
草がぼうぼうと生えた、だだっ広い草原があったとして、
その中で、多くの人が似たようなところを歩いて、足跡がついて、その足跡が重なって、重なって…
すると後に続く人も、濃くなったその「足跡」をたどって歩くようになって、
さらに濃くなった「足跡」を、またさらに多くの人が後に続いて歩いて…
そうしていく内に、それが「道」となった。

だから普通は、その「道」を歩く。

これがいわば、「社会的な常識に従った生き方」というものです。
就職したり、企業したり、ボランティアやスポーツのような生き甲斐を持ったり、結婚して家庭を作ったり
そんな、社会的なカテゴライズが与えられた「生き方」を選択するということは、
そうやって出来上がった「道」をたどって歩くということに他なりません。

もちろん、それが善いとか悪いとかいう話ではありません。
ただ、それ以外にも、ルートは無限にあるし、
もっと素晴らしいところへたどり着けるルートだってあるかも知れないということです。

多くの人が歩むことで作られた「道」を歩んだ人の誰もが、
「悔いのない人生だった」
「世の中に誇れる人生だった」
と言って人生を終えているとは、必ずしも言えません。

もちろん、
多くの人が歩んでいるという安心感も
整備されているという安定性も
険しくないかどうかという歩み心地も
決して軽視できないことですが、それらは一要素にすぎません。
そのこと「のみ」に視野がしぼられてしまうと、
その基準に支配されてしまい、無用な劣等感や後ろめたさを覚えなければなりません。

「整備されている「道」を歩いている人が偉い」
少なくともそんな価値観からは、脱却したいところです。

自分の道を堂々と歩むための「指針」

仏教では、私達の生き方について重視するのは、あくまで「行い」です。
仏教では「行い」のことを「業(ごう)」と言って、
「自業自得」の道理を根幹として説いています。
自分が受ける未来は、自分の行い(業)が生み出すものであり、
大切なことは、今、自分がどんな行い(業)を積み重ねているかだということです。

その上で仏教では時代を問わず国や文化を問わず、
「こういう行いは善」と言えるものを明確に教えています。

「六度万行」と言われ、
この6つの行いは、いつの時代でもどこの国でも、心がけて行えば必ずその人に善い結果が報いる
というものとして教えられます。

それが、
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧
この6つです。
もちろん、この6つを「どのような形で行うのか」については、
その人の価値観や得手不得手などの個性によります。
そこは自分なりに考えることや、周囲のアドバイスが必要となるでしょう。
しかしこの6つは、自分の道を切り開くための心強い指針となることは間違いありません。

「みんながやっていることなのか」
とか
「見栄えがよく世間受けがよいのか」
というのは、本質的な指針とは言えません。

この6つに当てはまるかどうか
ということが、仏教で示す明確な指針となる「行い」についての教えです。

たとえばこの6つの筆頭に挙げられている「布施」というのは、
「人に何かを施して、喜ばせ、幸せにする」
という行いです。
悩みを抱えていたりして苦しんでいる人に、
「この人に必要なものは何か」
「何を提供すれば、喜ばせられるか」
それを探り当てて、そして提供する。
このような行いのことを「布施」と言います。

こういう行いは、会社に属している中でも、家族関係の中でも、心がけ一つで出来ることです。
仕事の中で、困っている同僚がいたり、取引先に助けを必要としている状況があったりして、
「これは自分がやるべき」
と判断したならば、それを実行する。
そこには労力も気遣いも時間も必要ですから、それを困っている人のために費やすことは、紛れもなく「布施」です。

「家族」という人間関係ができれば、その家族同士で、助け合うことが必要になることが多々出てきます。
助けを必要とする家族のために、自分のできる精一杯を尽くすことも「布施」と言えるでしょう。

「会社」という縁や「家族」という縁の中での「布施」の行いが多く存在することは事実です。
だけどそれ以外にも、私達が「布施」の行いをできる「縁」はいくらでもあります。
他人との縁は、どれだけでも周囲にあります。
いろんな「縁」を作るツールが世の中にはあります。

私は何を縁として「布施」を実行するか。
それに際して、「何を」提供するのか。できるのか。
その選択肢は無数にあるということですね。

「布施」という指針一つを持っていれば、それに当てはまるいくつもの選択肢を見つけ、
自信を持って、胸を張って、それらの行いに努める道を歩むことができます。
社会的プレッシャーや周囲との比較に翻弄されることなく、自分の道を堂々と歩む「指針」となることでしょう。

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