宗教?そういうの、信じないんで…
日本人は「無宗教」を自称する、世界的には珍しい民族のようです。
というか、「宗教」が話題にすらならないのが実態ですよね。
知り合って、自己紹介をして
「よろしくお願いします」
という場面でも、「相手の宗教は何だろうか?」なんて、気にもしないですよね。
打ち解けてきて、一緒に遊びに行ったりお酒を飲みに行ったりする仲になっても、
「相手がどんな信仰を持っているのか、持っていないのか」
なんて、一向に気になりません。
恋心をお互いに抱く仲となって、付き合うとなってもやはり、
「そろそろ、『信仰』について踏み込むべきだろうか…」
なんて考えもしません。
あまつさえ、結婚するとなっても、特に何かしらの手続き上の必要でもない限り、
「そういえば、あなたの宗教って…?」
という話題はついに出てきません。
親戚や家族の葬儀や法事に関わるようになってはじめて、
「そういえば、あなたの宗教、宗派は…」
という問題が浮上するのかもしれません。
ここまで「宗教」をスルーできる民族は、確かに稀なのかもしれません。
触れようものなら、
「いやー、私はそういうのはちょっと、信じないんですよー」
と、爽やかにあっけなく、バッサリとやられてしまいます。
世界情勢や歴史を見たならば、「宗教」がどれほど人々にとって重要な要素なのか、よく分かりますよね。
世界史を勉強したら必ずその時代の「宗教」は記憶の対象になっていますし、
地理を勉強していても、その国の「宗教」は欠かせない要素としてインプットしています。
「宗教」のために、大規模な建造物が建てられたり、大衆運動が起きたり、果ては戦争が起きたり…
時には「命がけ」になって、世界中の人々は「宗教」と向き合って生きてきているのですね。
そんな、世界中の人々と日本人の宗教に対する「温度差」たるや、ある意味「ツワモノ」の域に達していると言えるかもしれません。
「無宗教です」に込められた真意とは
外国人のサッカー選手がゴールを決めた時に、
手で十字を切ったり、うずくまって祈りを捧げたりするような仕草を見ることがたまにあります。
子供の頃、そんな選手の不思議な仕草の意味が全然わからずに、
「変わったパフォーマンスをするなあ…」
ぐらいに思っていました。
「なんだかクールで格好いいパフォーマンス」ぐらいの印象で、意味もわからずに「ちょっと真似してみようかな」
なんて、思っていたものでした。
あの仕草が「神に感謝している姿」だったと後に知ったわけですが、やっぱり不思議な感じがしますね。
「チームの仲間に感謝する」なら分かります。
「サポーターの皆さんに感謝する」なら分かります。
だけど真っ先に「神」に感謝するとは…
だけど、ああいうサッカー選手がそういうことをすると、
なんだかとても「美しい習慣」のように見えたのも事実でした。
「だけど自分はとてもそんな風には思えないな…」
そんな、異文化の姿に触れた時に、
「自分には、いわゆる『信仰』というものが無いのだな」
と感じて、複雑な気持ちになったものでした。
「サッカーの試合でゴールを決められた」とか
「大学に合格した」とか
「仕事が上手くいった」とか
「好きな人と付き合えた」とか
そんな、自分の身に起きる「結果」、いわゆる「運命」が、
「神」のような超越的な存在によって「与えられている」などという発想は、どうにも共感し難いものでした。
ただ、自分の「努力」と、周囲の人たち等の「環境」とで、自分に現れた結果だとしか思えないのですね。
だから、自分の努力を誇ったり、周囲の人たちへ感謝したりする事はあっても、
「神」に感謝するなんて気持ちは、ついぞ起きてきません。
この感覚は、日本で生活していれば「当たり前」なのですね。
そんな私のことを、
「なんと不敬な!」
「なんて可哀想な人…!」
などと、蔑んだり哀れんだりする人もいません。
「自分に運命を『与える』ような、超越的な存在が信じられない」
これが、日本人の一般的な感覚で、「宗教とか、そういうのは信じない」という言葉の意味する所と言えるでしょう。
「だけど、初詣とか行ったりしますよね」
という意見もあるかもしれません。
確かに元旦には、有名な神社などでは、多くの参拝者で賑わっている光景がテレビで目にします。
だけど、その1週間前には何をしていたのかというと、
「メリー・クリスマス!」
とか言っていた人たちなのですよね。
もしかしたら、数時間前に、寺で除夜の鐘を聴いていた人たちかもしれません。
こんなに短期間に3つの宗教を股にかけて平然としているのもまた、日本人の面白い所です。
年始とはいえ、たった一日。
しかもやってることはただ、
その場へ「行って」
「幾ばくかの賽銭を投げて」
「パンパン」ってして、願い事を心でつぶやいて、
「さあ帰ろう」
って、それだけですよね。
日本神道における正しい参拝の流儀はどんなものなのか、なんて知ろうともせずに、テキトーにやってるのが実態です。
とてもとても、「自分の大事な運命を左右する存在」と心から信じている人の所作とは思えません。
「無宗教」と言わせる日本独特の運命観
だけど、これは自分の「運命」に対して何の考え方も持っていないのかというと、決してそうではありません。
運命を与える絶対的な「神」を信じない私達が、信じているのは「自分の行い」の力です。
それも、ただシンプルに、「自分の行い」がそのまま、「自分の運命」を生み出すものとして信じているのですね。
別に、
「自分の行いを、神様が見ていてくれてて、その神様が私に運命を与えてくださる」
なんて、わざわざ「神」を介在させる余地もなく、
ただ、「行い」が自分の「運命」を引き起こす。
その「行い」と「運命」の因果関係を信じていると言えるのです。
これもまた、れっきとした「運命観」なのですね。
「神」という絶対的、超越的存在を介在させない、「行為」そのものの力を信じる「運命観」です。
「いや、そんな大げさなものじゃなくて、ただ自分の行動を大事にしているだけですよ」
私達日本人としてはそんな感覚なのでしょうけど、
「神」も、何らの「運命の支配者」も信じないでおりながら、
「ただ自分の行動を大事にしている」
なんて考え方を持てるのは、私達が独特の「運命観」を持っているからこそ、なのですね。
その「運命観」を一言で言えば、「自業自得(じごうじとく)」です。
「業(ごう)」とは「行い」のことで、
自分の行いが、自分に運命をもたらす
というのが「自業自得」ということです。
これはもともと仏教の言葉なのですね。
仏教では「行い」のことを「業(ごう)」と呼び、その「業」に自分の運命を生み出す「力」があることを説きます。
その「業」の力以外の、運命を支配する存在を認めないのが仏教の大きな特徴です。
そんな特徴からすれば、仏教は日本人がイメージするいわゆる「宗教」とは全く異なる、どころか真逆の内容となる事が分かります。
「運命を与える超越的な存在を信じない」日本人と、
「運命を与える超越的な存在を否定する」仏教とは、
見事に対応しているのですね。
ある意味、「無自覚に仏教的な考え方を持っている」と言うことが言えます。
別に、寺に通う習慣もなければ、数珠を持ち歩くわけでもなく、「仏教徒」などと言えばものすごく違和感はあるでしょうが、
そんな形式的なものが仏教の本質ではありません。
「自業自得」の考え方を持っている事こそが、むしろ仏教の本質なのですね。
自分の身に起きる運命に対して、
「与えられるもの」ではなく、「自ら生み出してゆくもの」という理解が出来る事は、
私達の考え方や行動の大きな指針となります。
というのも、運命は「与えられるもの」という考え方がベースにある場合、
幸せな運命に恵まれれば感謝できますが、不幸な運命に見舞われた時に、どうなるでしょうか。
「神の試練として受け入れればいい」
ということになるかもしれませんが、「試練」としてポジティブに受け入れるにも、限度がありますよね。
その限度を超えるような「理不尽」極まりない「運命」だって、容赦なく訪れるのが人生です。
問題は、そういう「理不尽」としか思えない「運命」に見舞われた時に、それをどう理解し、どんな行動に移すのかという事です。
これが「与えられるもの」という運命観の場合、「誰が与えたのか…」という思考にならざるを得ません。
そして、そんな理不尽な運命をもたらした相手を「悪」と断定し、その「悪」を攻撃することを正当化出来てしまう。
これが「与えられるもの」ベースで思考する恐ろしさと言えます。
欧米での「訴訟」問題に発展する頻度が、日本のそれと比較にならないという事実は、まさにそれを物語っています。
欧米では、日本人の感覚では驚くような理由で、「不利益をもたらした」と思える相手に訴訟を起こしています。
逆に、
「運命は、何かに与えられているものでなく、自ら生み出しているもの」
こういう「運命観」がベースになっている場合は、他者攻撃には、なりにくいのですね。
もちろんそれでも、他人に腹を立てたり他人を責める気持ちになることは、あります。
実際に、他人を責めることだって、あります。
だけど、一方で「自業自得」の思考も働いているために、「自己反省」という歯止めがかかり、
「『悪』を徹底攻撃する」
という事が欧米ほど顕著にはならないのですね。
そんな、ある意味「日本人らしい」運命観というものが、私達の中には確かに根付いているのですね。
そしてそのルーツには、仏教の教えがあります。
この「自業自得」の運命観は、その仕組みを深く理解すればするほど、より洗練されてゆくでしょう。
そして、より確固たる運命観を持ち、堂々と自分の未来を切り拓いてゆく信念が養われます。
これは、日本で生まれ育って「自業自得」の考え方に親しんだ日本人のアドバンテージですから、ぜひとも活かしたいですね。