「妬む心」の実態を解明すれば〜浅薄な視点からのシフト〜

他人に見せつけられる「差」を前に…

仕事に精一杯の努力を注いで取り組んでいる私の目の前に、
自分よりも圧倒的な能力で、圧倒的な成果を出している同僚の姿があったら…

いい人間関係を築こうと、いろいろ勉強して日々努力している私を尻目に、
とても魅力的なキャラクターを発揮して、周りから圧倒的にチヤホヤされている友達の姿があったら…

なんだかとても穏やかな気持ちではいられないですよね。
私は私で努力して、幸せをつかもうとしているのですが、圧倒的な「差」を見せつけられた時に、
どうしてもモヤモヤしたものが心を覆ってしまいます。

別に、自分は自分で努力しているのだし、自分なりに少しずつ結果に繋げられているわけです。
他人が圧倒的な差を示してきたところで、自分の努力の価値が下がるわけでもないし、自分の結果が削られるわけでもありません。

だけど、他人のまばゆい結果を目の当たりにした時に、自分の努力にも自分の結果にも、どこか陰りが見えてくる。
そして、他人の結果のことばかりが気になって、果ては、
「失敗でもしてくれたら面白いのに…」
「どうせ、どこかでヘマをして嫌われてしまうんじゃないか…」
なんて気持ちで他人を見ている自分がいたりします。

こういうのを「妬む心」と言われますね。
他人を妬むなんて、格好悪いと思うものだから、こんな気持ちはとても他人には言えません。
「そんなこと気にもかけていない」
という体裁を保つのに必死だったりします。

本当は妬む心で一杯なのだけど、口ではその相手を褒めて
「すごいよね、本当に色々と見習いたいよ。」
「人徳だね、○○さん、とても立派だしいいキャラしてるから。」
と、穏やかならぬ心をおさえて、言葉を取り繕っている。

「相手は相手、自分は自分」
と、割り切れたらいいのですが、そうもいかないのが人間の心のようです。

一方で、自分より仕事ができなくて業績が上がらず、上司から叱られたり同僚から笑われたり、
そんな同僚がいると、どこかホッとした気持ちになる。
「気の毒に…」
と思う下からどこか、「ほっこり」した気持ちが湧き上がってくる。
「しゅん…」としているその侘しい背中が、自分の心の支えになっていたりする。

別にそれで、自分の結果が上がるわけでも自分が立派になるわけでもありません。
あくまで自分が努力を重ねない限り自分の結果は1ミリも上がりません。
だけど、「下」を見ることで、なんだかいい気分になれてしまう。自分が救われるような気がする。

「他人の不幸は蜜の味」

という、誰もが知っている諺が生まれる現実が確かにあります。

「妬み」を起こす浅薄すぎる視点

このように、
他人の恵まれた結果を妬ましく思い、「引きずり下ろしたい」と思う心
逆に、他人の情けない結果を喜びや安心のタネとして、ほくそ笑んでいる心
そんな心が自分の中に潜んでいることに時折気が付きます。

こういう心を仏教では「愚痴(ぐち)」と言います。
「愚痴」とは字の通り、「愚かで、馬鹿ものだ」ということです。
自分より勝る者を妬んだり、自分より劣る者を見ては喜んだりする心を、仏教では「愚かな心」と言われのですね。

私達の感覚では、
「なんだかいやらしい心、汚い心」
というのがピッタリ来ると思います。
確かに、醜くいやらしい心に間違いありません。
ただその本質は「愚か」だと仏教では言われます。

ちょっと考えてみて欲しいのですけど、
私達が他人を妬むときに、その「他人」の生きている現実をどれだけ理解しているのでしょうか。
身近な人であれ、同僚であれ、友人であれ、あくまで他人である以上、
「その人が一体どんな現実に生きているのか」
なんてことは、ほんの表面的・部分的な所しか分からないですよね。

職場で能力を発揮して、周囲の人たちに頼られてとても充実していそうに「見える」人がいても
それはあくまで、私から見た表面的・部分的な所にしかすぎません。

もしかしたらその人は、周囲に頼られることに疲れ切っているかもしれない。
「自分は、仕事が出来る点しか価値を感じてもらえたいない」という気がして虚しさを感じているのかもしれない。
「自分の人間性を見てくれる人がいない」と嘆いているのかもしれない。
この職場では頼られているけれど家庭に帰れば邪魔者扱いされて寂しい思いをしているのかもしれない。

人気者の友達がいて、その人の周りには同性異性問わず人が集まって、楽しそうにしている。
モテモテで、異性に不自由はないのだろうな、とても自己重要感が高いだろうな…
私からはそう見えているとしても、本当のその人の現実とはどんなものでしょうか?

もしかしたら、
「ただのイイ人としか思ってもらえない。」
「その場限りの楽しみの付き合いしかできず、表面的な仲でしかない。」
「もし自分が面白いことを言えなくなったら、みんな自分から離れていくんじゃないか。」
そんなモヤモヤを笑顔の下に抱えているかもしれません。
「本当は自分をこう見て欲しい」という願いは一つも叶ってないかもしれません。

私から見えている部分以外の、その人の現実を私達はほとんど知らないのですね。
そんな、ほとんど知らない相手と、どうやって比較するというのでしょうか。

本当は、自分と他人など、比較しようがないものだということです。

別にこれは、「他人と比べるのは良くない」という倫理的な話ではありません。
構造上、自分と他人など、「比較のしようがないもの」だということです。
それは、お互いが抱えている現実が複雑すぎるからです。
自分の抱えている現実さえも、どれほど把握できているか知れないのに、まして他人の現実など、どうあっても知りようがありません。

本当は比較などしようのないお互いの現実の中で、なんとか比べられそうな表面的な部分だけを突き合わせて、
一喜一憂しているのが「妬み」という感情の実態です。
なんとも、薄っぺらいものに振り回される、浅薄な「幸福観」と言わざるを得ません。

その奥底にある、お互いの「現実」を全く見ていない状態です。
これでは、洞察が「薄すぎる」と言わざるを得ません。
仏教ではそれを「愚か」と言います。

停滞していた現実が動き出す瞬間

私と他人と、お互いが抱えている現実の本質を知れば、知らされることは
「お互いさま」
ということです。

私は私でモヤモヤした、やりきれない現実を抱えている。
それは案外、他人も同じということですね。

こんな「やりきれない現実を抱えている」私達ですけど、
そんな私が、キラキラして見えている人だっているかもしれません。
羨望の眼差しで自分を見ている人がいてもおかしくありません。

「あなたのような生活だったら、毎日キラキラ輝いて充実していることでしょうね…」
そんなことを言う人がいたら、
「この人、全然分かっていないな…」
と思うことでしょうけれど、他人目線なんて、そんなものだったりするのですね。

お互いがお互い、「どうにもやり切れない、複雑な現実を抱えて生きている」というのが本当の所です。
そんな人の世を仏教では「娑婆世界(しゃばせかい)」と言います。
「娑婆」というのは、昔のインドの言葉に漢字を当てたもので、意味は「堪忍土(かんにんど)」ということです。
「堪え忍んでいかなければ生きていけない世界」が人の世だということです。

私は私なりに、あの人はあの人なりに、堪え忍んで生きている。
これが本当のところです。

お互いの、ごく表面の薄っぺらい部分の比較で振り回されている場合ではない、ということです。

一人一人に、向き合うべき現実があるということですね。
その自分の現実は、自分が行動していかなければ、1ミリも動いていきません。
他人との比較で浮いたり沈んだりしていても、自分の現実は、何一つ変わりません。

本当に自分の現実を動かすには、「自分の行動」に一点集中してゆくしかありません。
このことを仏教では「自業自得の道理」とか「因果の道理」と教えられています。
「自分の行動」という「種」を蒔くことでしか、自分の現実が動いてゆくという「実り」は得られない。
だからこそ、「私が今、どんな種を蒔くべきか」というところにこそ、一点集中すべきだということです。

この自業自得の道理、因果の道理を見つめ、自分の蒔くべき種を着実に蒔いてゆく人を、仏教では「智者」と言います。
先程からお話している「愚痴」と真逆ということですね。

他人との表面的な現実の比較に一喜一憂している「愚痴」状態から、自業自得の道理に目を向けて自分の「行動」に注目してゆく「智者」へとシフトすることが、まず何よりも大切なことです。